おせっちゃんの今日2

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インスタントラーメン

2021-10-30 13:46:45 | いろいろ

30年ぶりくらいでインスタントラーメンを食べました。

子どもたちがまだ家にいた頃は小腹が空いた時の間に合わせに買ってきていました。一番記憶にあるのは、年末の、正月休みに備えての買いだめの中に必ずあったことです。
当時、年の初めはスーパーはじめ個人商店は勿論、1週間、10日ほどは正月休みを取っていました。その間の買いだめが主婦の大きな仕事でした。買い物は毎日出かける主義の私には、この買いだめが大きな負担でした。10日間で切れてしまって足りなくなると大変とメモって自転車で買い物に出かける年末でした。

そのメモを作る時、「ラーメン忘れないで・・・」と、念を押されるのがインスタントラーメンでした。お節にも飽きた時、小腹を満たすものとしては便利だったのだと思います。

子どもは成人し、会社員になり、結婚し家を出て行きました。残った私ども、まだ十分に若かったものですけれど、強いてインスタントラーメンをを食べる事もせず月日は流れたのでした。

コロナの渦中です。落ち着いてきたとは言うものの、幾度か繰り返されたウイルスの波、まだ来るかもと不安もぬぐい切れません。お家籠り生活にも慣れてきました。自分たちの老いが進んだことも確かです。昼食づくりが面倒で、飽きてきました。もともと料理下手で、料理嫌いの私です。コロナ前は夫にも「お昼はそれぞれが自分を賄うことにしましょうね」と昼の賄はつかない下宿屋にしていたのです。夫もほとんど毎日出かける生活で、お昼なしに反対!と抵抗することもありませんでした。

ところが毎日必要になりました。ト-ストで済ませたり、コンビニお結びでお茶を濁したりもしましたけれど、あまりに毎日変り映えがしないのは・・・ということになりました。
「ねえ、インスタントラーメンにしてみない?久しく食べてないわよ。30年の間には改良進歩しているかもね」「ああそれやってみよう」。今日のお昼はまるちゃんラーメンにしました。

これが結構おいしかった。30年前の独特なにおいもない、優れものでした。


息子、幼い時骨折を経験しました

2021-10-29 14:36:36 | わが家の話

時々、子どもと孫がごちゃ混ぜになることがあります。8人の子に恵まれた父が、呼ぼうとした子の名前が出てこず、上から順番に一人一人の名前を呼んでいたことを思い出します。

今日の主役の我が息子Kも50半ばとなっています。
そのKが3歳だったと思います。夫の転勤で大阪難波が勤務地になり、阪急沿線の東園田という所で暮らしたことがあります。2階建ての2軒長屋を借りていました。
その日、Kは機嫌が悪く朝食もはかばかしくは食べずぐずりました。たべおわったMaが2階に行こうとしたのを追っかけて、片手にパンをもって階段を這い上っていたようです。
朝の主婦仕事で目を離しました。ワッという鳴き声で見ると、玄関のたたきにひっくり返って泣いていました。きっと階段から転げ落ちたのだと思いました。

抱き上げると、一層大声で泣きましたが、じきに泣き止んで、そのうち寝てしまいました。な~んだ要は眠かったわけね、と一件落着と思いました。
1時間も寝たでしょうか、機嫌よく起きました。起き上がろうと手をついた途端、顔をしかめてまた大泣きです。どこかケガしたか、と医者に連れて行きました。レントゲンを撮ったのでしたか、「骨だね」、と医者が言いました。「ひびでもはいりましたか?」とのんき母さんは聞きました。「いえ、立派に折れています」。鎖骨の上に消しゴムの大きいようなものを載せ、ホータイで腕と身体をぐるぐる巻き、「当分、動かさないように、子どもだからじきにくっつきますよ」とのことでした。固定しておけば痛みもないらしく、姉と元気に遊び始めました。
傑作なのが、おもちゃ箱にあった赤電話の玩具です。まだ片言に近いしゃべりでしたが「もちもち、カンカンホネガオレチャッタ」とトオさんに知らせていたのです。

腕が動かせないだけで、元気そのものです。その頃は私どもも若かった。休日は京都や奈良に出かけて、ハイキングをし、美味しいものを食べて帰るのが普通の過ごし方でした。その休日も出かけることにしました。カンカンはMaからお下がりの真っ白なオーバーを片手を通し、片方は肩にかけるだけで、前ボタンで引っ張って羽織らせました。

駅で電車を待つ間、異様な目線を感じました。周りの多くの人が、見てはいけないものを見たというように、目をそらし、それでも気になるようで、母娘、夫婦でちらちらちらちら見ては目をそらすのです。片腕がない子に見えたのだと思います。

その時初めて、障碍のある子を持った家族の感情に気が付きました。腹立たしさも感じることでしょう。悲しさも沸き上がるでしょう。今まで特に意識してそう言うご家族に会ったことはありませんでしたが、自分がみられる立場に立った時、そんな場面でどうすべきか考えたのでした。私どもは、すぐに治ることが分かっている、ものでした。それでもその視線はかなりきついものでした。昨日書いた岡本友高さんは、むしろ宝物の時間だったと言っておられましたが、大きな悲しみ苦しみを乗り越えた上でのことではなかったかと思うのです。

さあ、どういう態度を取るべきか。なるべく何気なく自然に接する・・・難しいと思うけど。手助けを求めていらっしゃるようなら気軽に助ける。細かいことなど聞かずに。


大人の対応

2021-10-28 16:07:59 | 徹子の部屋出演者

27日の「徹子の部屋」、ゲストは岡本友高さんでした。オリンピックのテーマ曲を歌いあげた人として知れ渡った人ですね。
男性のソプラノという稀な声で、朗々と歌い治めた声と姿が浮かびます。豪華な衣装で出演でした。一着車一台、と答えることにしていると笑っておっしゃっていました。普通に話すのと、歌うのとでは発声が違って、歌う間はトークは断る人もいると聞いたことがありますが、そんな事にはお構いなし、徹子さんの質問に答えながら、急に朗々たる歌を挟むという自由さでした。

小学生の時、ペルテス病という股関節が壊死するという難しい病を得て、4年間入院したり通院したりの日を過ごす経験をしたのだそうです。その病で暗く落ち込んだかというと、同じような大変な病気の仲間がおり、お互い自分の障害を誇るようなこともあり、自分には宝物の4年間だったと思っている。
障害は必ずしもマイナスのものではない。パラリンピックを見ても、選手皆、輝いているではないですか、と言っていました。

片道3時間の通院は大変だったけれど、母と歌を歌って過ごす楽しい時間だった。音楽で生きている今の自分の原点だと思っている。

特徴であるソプラノは持って生まれた私の個性ですね。声変わりは知らないうちに終わっており、普通の男子の変声はしなかったのです。今でもありがたかったと思うのですが、そういう特殊な声をからかわれたり、それがもとでいじめられたりした覚えはない。音楽教師は「あ、岡本君、君声が高いね、はい、ソプラノ」といとも普通に女子のソプラノに加えてくださいました。この対応がなければ、今の私はなかったと思うのです。と言っていました。

大人のちょっとした対応で、人生が変わることもあるのですね。


品性

2021-10-27 13:34:59 | いろいろ

時の経つ速さに驚くばかりです。何もしないで家に閉じこもっているのが務めとばかり過ごした今年は特に時が早く流れた様な気がします。31日は、ハロウインのお祭りで、いや、それより大事な選挙の日です。
各候補者、選挙運動たけなわです。先ほどから2度も電話。候補者のお願いの電話です。

さて、投票は国民の義務であり、権利でもあります。一票の大事なことは重々心得ています。でも、正直言って、候補者と顔つき合わせてその意見を聞き、人柄を知るということは難しいことです。結局、テレビの政見放送を見聞きするか、買い物途中で立会演説をしている人を横目でにらみながら眺めるのがせいぜいです。これではまずいと思いながらも、写真の顔・テレビ画面の最大級にこやかに真剣に真面目に取り繕った顔を見るのみで決めるようなことです。ただ、人生80年以上を生きてきたのだから、顔だけでも判断はできると嘯き、その顔の中に、品性のある人を探すのです。候補者一人一人、人生の積み重ねが顔に現れると思うのです。

品性という言葉を頻繁に聞くのが横綱白鵬関に関する論評でした。モンゴルからやってきて、そのやせっぽっちの身体でどの部屋からも引き取られず、もう帰国するよりほかないとあきらめる寸前に拾われたのです。それが不出世の名横綱、数々の記録を越えて、大横綱になりました。大相撲が不祥事続きで、継続も危ぶまれるとき、この白鵬関の活躍に救われたことも記憶しています。

そんな横綱にもかかわらず、論評されるとき、けしからん、品性に欠けると冷たい言葉も飛び交ったのです。
品性って何なのだろう?と思う時もあります。これに対する回答は難しいことです。私自身大相撲好きですが、白鵬に対する論評を見聞きするとき、左右にぶれるのです。

横綱としての品性に欠ける、日本の国技であり、美学であると言われても、ちゃんと理解は難しいかも。国民性もあるだろうし。

解説者の元横綱北の富士が横綱になった時、品性を高く持てと言われ、考えても分からず、親方の所に聞きに行ったと話していました。親方も分かっていなかったようですよ、「まあ一生懸命に、真剣にとることだな」と誤魔化されたと笑ていました。

白鵬は尊敬する大鵬から「横綱は勝って当たり前、負けるようになったら引退しかない」と諭されたのだそうです。ただ強くなって負けない相撲を取らなければ。。。それのみを目指してきたと言います。絶頂期を過ぎ、年齢的な衰えが萌し始めた時、とにかく勝たねば、勝たねば横綱ではいられない、止めるより他ないのだ、引退したくない、と稽古した。
衰え始めた白鵬は勝つこと即ち横綱の役目と思い、横綱でいるためには勝たねばならぬと思ったと。そこで出した手がかちあげであり、張手だった。衰え始めた身体でもこれで勝ち抜けた。これを出さねば引退に追い込まれる。勝てばいい。

ところが日本の美学はこれを許さない。あんな品格のない手は許せない、地位の下のものなら許せても、横綱には使って欲しくないと言われる。使わなければ横綱は張れない。二つの矛盾した考えがぶっつかる。

横綱は孤独な地位です。

 


整形外科を卒業して・その後

2021-10-26 14:27:56 | 圧迫骨折、その後

今日インフルエンザの予防注射をかかりつけの医者にやってもらいました。流行期とコロナワクチンの3度目がもし行われるときの時期を考えて今日にしたのです。これは毎年やっていて、副作用が出たこともありませんから心配もありません。

一緒に、血圧状態についての相談に乗っていただきました。私の血圧は朝高く、朝食後に薬を飲むとお昼ごろまでには下がり、夜寝る前には今度は低すぎるほど下がってしまうのです。

この癖に加えて気温が影響しました。医者がいうには暑さで血管が膨張して血圧は下がる、のだそうです。薬の量を変えてみたり、飲む時間を変えてみたり、いろいろ工夫してみてくださいましたが、暑さの後急に気温が下がる、かと思えばまた上がるの気温に調整できない状態が改善できないままでした。血圧は高くても、低すぎても頭痛、めまい、倦怠感ありとあらゆる不調が出るのですね。「これで様子を見ましょう」と言っているうちに季節は変わっていくのでした。

夏バージョン処方されていたクスリを、1週間前に冬バージョンに(夏の倍に)変えたばかりでしたが、頭はふらつくし、頭痛はするしで相談に乗ってもらったのです。朝は高すぎる、夜になると低すぎる、う~ん、薬の量だけではだめかあ。薬と飲み方を少し変えてみましょう、とのこと。2種類の薬を(一つずつは量は半量になっているとのこと)朝夕に分けて飲んで見るという作戦になりました。

この工夫、上手くいくかなあ。