神を見た者はまだひとりもいない。
ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、
神をあらわしたのである。
「ヨハネによる福音書 第1章 18節」
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わたしはこのような碌でもない自分のうちに神を見る。
主イエス・キリストの霊を頂いた者、主イエス・キリストの弟子にして頂いたというハッキリとした自覚をもつ者として。フツーのクリスチャンとして。
主イエス・キリストの教会へ通うこととか、洗礼を受けたか受けていないかはわたしにとっては重大なことではない。
それでは何が大事なのか?
それは「愛」である。
「愛」、神の愛、それを模した「相互愛」。そういう他にわたしには表現のしようがない。重要なのは「愛すること」と「愛されること」である。
主イエス・キリストのみ言葉は、「愛」そのものである。
教会に通っていても「愛」がなければ何の意味もない。
洗礼を受けていても「愛」がなければただの小川の水を飲むことに等しい。
わたしは主イエス・キリストに学んで「愛」を知った。
そして日々「愛すること」「愛されること」をわたしのうちに存在させてくださる主イエス・キリストと共に、まだ悩み、苦しみ、そして学んでいる。
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それでは何が大事なのか?
それは「愛」である。
「愛」、神の愛、それを模した「相互愛」。そういう他にわたしには表現のしようがない。重要なのは「愛すること」と「愛されること」である。
主イエス・キリストのみ言葉は、「愛」そのものである。
教会に通っていても「愛」がなければ何の意味もない。
洗礼を受けていても「愛」がなければただの小川の水を飲むことに等しい。
わたしは主イエス・キリストに学んで「愛」を知った。
そして日々「愛すること」「愛されること」をわたしのうちに存在させてくださる主イエス・キリストと共に、まだ悩み、苦しみ、そして学んでいる。
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