しかし主はあなたがたのために私を怒り、私の
願いを聞き入れてくださらなかった。
(申命記 第3章 2節 )
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モーセは、民の指導者でありながら、約束の地カナンに入れなかった。
これはわれらの牧者主イエス・キリストご自身に酷似していないだろうか?
上記引用の聖句にあるとおりである。
主イエス・キリストご自身のように主なる神のイスラエル人に対する怒りを
自分の身に受けさせられたのである。
主の十字架の遠い小さなシンボルである。
主イエス・キリストも主なる神に願っている。
「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」と。
そして主イエス・キリストは「悪しき者」として民の罪の罰を御身に十字架として
引き受けてくださったのである。
もはやわたしたちはこの御方の愛で愛しあうことのほか他者に対して何者も借りと
いうものがないのである。主に向かって祈り、愛しあうための主の愛をこそ
いただけるようにしようではないか。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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