彼が担ったのはわたしたちの病
彼が背負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって
わたしたちはいやされた。
(イザヤ書 第53章 第4節 )
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旧約聖書に書かれた主イエス・キリストの十字架とその苦難の意味である。
これはわたしの苦難の意味であり、あなたの苦難の意味である。
何度もわたしが書いているように「人間は碌でもない罪人(つみびと)」である。だからこんな苦難が襲ってくるとも言えるのだが、それらは結局「主イエス・キリストと同じ者にされる」という「大きな希望」をわたしたちフツーのクリスチャンは持っている。
このイザヤ書の言葉のように、主イエス・キリストの十字架は「わたしのためだった」という「信仰」が持てれば、あなたがたとえ教会に行っていなくても、洗礼というものを受けていなくても、あなたは立派なクリスチャンである。
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