papalion - 航海日誌

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お遍路を自転車で・・・37(番外編4)

2008年02月02日 | お遍路を自転車で・・・
お遍路一覧(廻った順)ページはこちらから >>> ①徳島~高知編 ②高知~愛媛編

2006年の秋、自転車でお遍路四国八十八ヶ寺を廻った話の続き。

お遍路道中の日記は、まだ書いていない所もあるけど一旦置いといて、その他紹介します。
写真は、徳島の代表的な山寺で、上から焼山寺、鶴林寺、太龍寺。

お遍路をして得た事。
道中の日記ではそれほど触れていなかったけど、四国八十八箇寺、お寺にも色々と魅力があった。そのなかでも特に良かった魅力は山寺を上った時の爽快感!

急な山道を時間を掛けて上ることは、スケジュール的にも体力的にも疲れる。標高が高くなればなるほど風景も変っていく。平地の平坦な道を走っていても風景は変っていくが、山を登る途中の風景はなぜか気分が違う。
一歩一歩の体力負荷が平地より掛かり、その一歩の重みを身体が実感したいからか。
そんなふうに体力をフルに使って山に立ち向かった先。その山の頂き、もしくは頂きの中腹に山寺が見えた時の気持ちは、最頂点。絶対に、その時、そこでしか味わえない。まさに、叫びたいくらいの爽快感が味わえる。
そして山寺は、周りを山々に囲まれ、人為的なものは何にも無い山野の中に、ポツンと普段見慣れない古い建造物が築かれてある。普通には考えられない風景。

そんな山寺を目にすると、何のためにそこに築いたのか?何のためにこんなふうに大きくしたのか?何故にこんなに人が集まっているのか?と疑問が頭を埋める。
でもそこにお寺は有るし、それを参拝するために人が集まっている。
そして歩いて建造物を視界に入れていくと、造られた一つ一つものの世代が異なっている事も見て取れる。一言にお寺。でも、その空間の中に蓄積された時間軸の長さは、分厚い書物を読む以上に長く、新しい靴を履いて外出する以上に新鮮なように感じられる。

お遍路とは、空海が辿った道のりを追う巡礼旅。
でもそんなことはどうでもよくて、身体を使って一歩一歩あゆんだ(自転車だから「漕いだ」だが)向こうに、先人達の作り上げた結晶を見て取って、そこに延々と続く人の営みを感じて感動と安堵を覚え、自然と頭を下げて、また次へ足を向ける。その繰り返しの行程旅。
ちょっと綺麗にまとめすぎ?

参拝客もまれな、お坊さんも常駐していないお寺は数多くあるが、お遍路のお寺は毎日参拝客で絶えない。そんなお遍路のお寺には、生きた歴史を感じられる。
京都や奈良のお寺はそれぞれ立派な歴史があり素晴らしい(実際に素晴らしかった)。でも四国八十八箇所のお遍路寺には、昔から日本の中心的な位置にあり、栄枯衰退を繰り返した地域とは違った時間の風景があり、それらに出会える素晴らしさがある。足を運んで初めてその魅力がわかった。

四国八十八箇寺のお寺に入ると、
山門に一礼をし、山門をくぐって水屋で手を洗い、本堂でお線香と蝋燭に火を灯し、納め札に住所と名前を書いて納め、お賽銭を投げ入れ、般若心境等お経を読経する。太子堂でも同じようにし、納経所でご朱印を頂く。そして再び山門で一礼をしお寺を出る。
そんな行為を繰り返す事が決まりごと。
その行為にどんな意味が込められているのかはよく知らない。でもそこをネットワークのポイントとして拠り所として抑え、お遍路さんは、ただ次に行く先を目指して移動する。もちろん途中で止めてもいいし、次のお寺を飛ばしてその次へ向かってもいいし、何をしてもいい。そこに何の制約も無い。そんなフリーな、ループした構造だからこそ、受け入れ、受け継がれてきたのだろうと思った。

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