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「でにをは」別口入力・三属性の変換による日本語入力 - ペンタクラスタキーボードのコンセプト解説

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鈴木孝夫氏にヨンビカをおくる

2022-01-22 | にほんごトピック

私は言語社会学者・鈴木孝夫氏のファンであります。このブログでもどことはなしに一節を引用していくくだりがあったりもします。
その魅力のわけを考えてみますと学説領域の研鑽のみにとどまらず、日常領域、異文化ウォッチのまなざしと常に対照・振幅があって浮き彫りになる問題意識というのがとっつきやすい誘因力というのを持っているように思います。
私の関心分野で好奇心の赴くままに鈴木氏に限らず漢字関連の書籍をあたっておりましたがトリビア的・教養的な知識の摂取には役立ったものの何か物足りない気がしていました。
その点鈴木氏の知見というものは言語社会学という学際もあってか文化と文化とが交錯する最前線の空気感というのがありますし国際的発信の重要性を説いているというのはまことに時機を得た提言でありました。

私が特に惹かれたエッセンスとしましては、以下のものがあります。

・ことばは、渾沌とした連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の分節を与え分類するはたらきを担っている
・年少者に合わせた親族名称(チコちゃんに叱られるでも紹介された)
・相手依存の自己規定
・「再命名」という用語は「レトロニム」という語に先立ってつくられた

特に注目する漢字については

・ラジオ型言語とテレビ型言語(→同音衝突の語の淘汰収斂のメカニズムに依らないどころか同一範疇の同音語であっても活躍舞台がある)
・難しい高級語彙でも基本漢字の組み合わせで何となく意味が分かる(知識層と一般層の分断を防ぐ効果)

などがあります。
漢字については拙いものではありますが当ブログ管理人ぴとてつなりの見解メモとして2,3補強材料を書き加えます。

1*ギリシャラテン語構成の造語だと基本語の語根がちょい長めだが漢字は同音異義語は増えるもののコンポーネント要素が簡素音韻で良い。長尺ストリングにも堪える
2*2拍漢語要素の末尾音には「イウキクチツン」の法則があるから例え未知語であってもチャンクの音韻パターンから漢語想起が助けられる
3*想起手段・インデックス回遊性の使い勝手が良い(音読み(イウキクチツン法則のひとかたまり)、訓読み(科化・私市の読み下しによる判別)、熟語のパーツで説明、漢字字形、部首、もちろん外来語介在想起もある)
4*外来語用言はサ変動詞や接尾辞-化などで容易に取り込める、規定語はナ形容詞や接尾辞-的で対応し品詞素性がゆれない、これもインデックス回遊性に寄与している

1について解説しますとたとえばgraminivorous(草食性)の構成要素は
gramin(草)+vor(食べる)+形容詞の接尾語(-ous)となっており語根がやや長尺であります。日本語漢語の草食性はそう、しょく、せい、と音韻がモーラ体系の中の位置づけとしては簡素な音韻で構成されており何より字面としてすっきりします。

2についてはさすがにイウキクチツンだからといって個々の漢字までわかるというのは言い過ぎですのでちょっと軌道修正しますとやまとことばと漢語の区別は音のヒントだけでわかるというのがありましてこれが第一前提になります。
やまとことばにはやまとことばの、漢語には漢語のイメージ喚起力というのがあってさらに漢語の複合語では二字漢語の語構成のパターンの認識(慣用的に分かる部分)と生産的要素の接辞との連結(配置的に分かる部分)が組み合わさっているので集合体としてのひと単語としても識別がつくということであります。
確かに「そう」「しょく」などパーツだけで見ると区別がつき辛いのですが「そうしょく」というひとつの構成で固有の識別もつきますしそれに[--性]や[--的]などの概念範疇も込みでやればより一層目鼻がつくというものです。

3の想起手段については音読みと訓読みがひとつの文字の中で結びつけられているうえに自由にトランス解釈を行き来できるということであります。また独立形態素なのか拘束形態素なのかの含みも訓読み/音読みには情報として持っており(右側主要部の原則/連濁/構文形成語彙の配置から理解)それらの見当をつけながら複合語の構成を読み解くというのも私達が普通におこなってきている事であります。
また、同音でイメージがつかめない場合には「のぎへんの科学のほうだよ」「チェンジのほうの変えるだよ」などと適宜補足してやれば済み、想起手段・想起チャンネルが多岐にわたっているという特徴があります。私はこれをインデックス回遊性と名付けました。

4のインデックス回遊性に寄与とありますが、サ変動詞やナ形容詞、接辞などのはたらきによって未知語難解語であっても文法形態の推定性が高まるとともに漢語やカタカナ語のもつ輪郭不明瞭なままで使っていても前述の推定性利便のフィルターをくぐり抜けての使用で識別されるという一点があるのでむやみにインデックス回遊の試みを強制されないことにつながることが間接的にプラスにはたらいているともいえるのです。

…以上の補強材料を加味したうえでこの枠組みがリテラル全般の基底骨組み的にあまねく影響力を及ぼす重量感というものをもっているというのが実感できるかと思います。
ただし、過度に視覚に依拠しているきらいもあるかとは思います。
ネットで関連情報を探索したところ、漢字の盲人に対する障害物としての側面に真正面から取り組む言説を見つけました。

耳できいてもわからないような専門用語は、すでに特権とむすびついている。非識字者や盲人にとっては「暗号のような表現」だからである。
…と、漢字の内包する不平等性、差別性の明白に存在しているという実態に対してわれわれが見落としている、いや故意に無視しているという指摘には考えさせられるものがあります。
この言説については鈴木氏と対立する、あるいは価値を毀損するものではないと自分に言い含めながらも決して過剰情緒的でなく採り上げる必要があるかと思いますので以下に文献名をメモしておきます。

「漢字という権威」あべ・やすし(2004)『社会言語学』4号より

ひとつには情報弱者としての視覚障害者の存在を含めたうえでデジタル社会においても言語方策の見直しを迫られる意見であるかと思います。
私にしましてもこの文献を知ったとき「今までペンタクラスタキーボードで取り組んでいたことは一体何だったのか」と自案の存在意義さえ揺らいでしまった衝撃的な指摘でありました。
今明快にこれらに対する返答を用意することはできません。二項対立的にカウンターパートを余儀なく受け持つという袋小路にも向かいたくはありません。
自身の範囲内でできることをやっていく、アンビバレントな渦中に身を置きながらも愚直に奮闘して前進していくことを目指すのみであります。

鈴木氏のもたらした世界観には感謝しております。そして見据える中で問題となって対峙しなくてはならない壁も現認しました。
論はスタティックなものではなくて磨き上げる過程としての論と論との間の応酬をして輪郭を際立たせていく対話的な営みであると信じております。
仔細にわたる相対化も結構な事でありますがいたずらに対立のコントラストを深めていってしまう裏腹さとは距離をとって
情緒としての包摂/抱合のるつぼを煮えたぎらせながら受忍していく…このような営みを「ヨンビカを歌う」と表現して自己と向かい合っていこうかと思います。

 


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