以前に「
儂、“信者”という言葉に違和感がある」と書いたが、今日はそのことにちょっと触れてみようかなと思う。
儂のイメージする宗教の“信者”って、例えばキリスト教とか仏教とかの“お堂”みたいな所で、頭に何か被ったり首から何かぶら下げたりしている人達が、自分が“信じる”神やら仏やらその他諸々に只管祈りを捧げてるって感じなんだよね。
もう少し言うと、自分が“信じる”もの以外は目にも耳にも入らず、延いては「悪く言うやつ許さーん!」みたいなイメージもある。
要するに、“信者”=“カルト”って感じかもwww。
ま、これは儂の勝手なイメージで、これ自体があまりにも屈折していておかしいとは思う。(とは言え、「信者 画像」って検索するとそんな感じのものが結構出てくるけどw)
こんなイメージを持っているので、どうも“信者”って言われると「違うよ~」って感じちゃうんだよね。
“信者”をネットで検索するといろいろ出てくるけど、要するに「ある宗教を信じてる人」ということらしい。
じゃあ“信じる”って何なんだろうと思って検索したら、解説やエッセイ、あるいは文法的なものは出てくるんだけど、単純に言葉の意味的なものは意外とない。
その中で、
「正しいと思うこと」
というのがあった。
「うん、これは儂的にはしっくりくるかも。」
“仏教信者”=“仏教を正しいと思っている人”というなら、確かに儂は“仏教の信者”ということになる。
ただし儂は、お釈迦さまやその後の聖人の方々等が残されている「この世とはどのようなものか、生死とはなにか、人はどのようにあるべきなのか」といったことについて言われていることが正しいと思っているのであって、様々なお経に出てくるおとぎ話のような情景や話を丸ごと信じているわけではない。
あれは、基本、お釈迦さまの教えを説明するための比喩だったり方便だったりで、あくまもで“フィクション”だと思ってるわけ。
「そんなことを言うとバチがあたるぞ!」
「そんなことを言うやつは“真の仏教徒”じゃない!」
などといった声も聞こえそうだけど、バチなんてないし、そんな“フィクション”も丸ごと信じなければいけないんだったら、とても“真の仏教徒”にはなれまへ~んwww。
ただね、例えば“輪廻”はある意味正しいんじゃないかな? なんて思ってたりもしてる。
だって、ある生物が死ねば、それを構成していた分子や原子はまた別の物(生物とは限らないけど)になっていくわけだから“輪廻”してると言えるんじゃない?
もちろん、いわゆる“魂”だとか”霊魂”みたいなものがあって、それが輪廻するなんていうことはほぼ信じてないけどねw。
(“ほぼ”なのは、今の科学でわかっていないこともあると思ってるからなんだけど、そもそもお釈迦さまは、そんなものが輪廻するなんて言ってないんじゃない?)
ただ、輪廻以外にも、お経を読んでると「これって○○のことじゃん」って思うことも案外少なくないことも確か。
このように、儂的には仏教を正しいと思っている。
だから一般的には“仏教信者”ということになるのだろう。
ただ、仏さまの言ってること、お経に書いてあることが丸ごとすべて正しいなどと思ってるわけではないし、仏教に固執してるわけでもないのだ。
そもそも、「何事にも執着しちゃいかん、仏にさえも執着しちゃいかん」と、お釈迦さまも言われてるじゃないの。
じゃあ儂は仏教の何を正しいと思っているのか、これについては、追い追い書いていこうと思う。(ホントはこれが大事なことじゃんw)
2019.1.10追記
昨日書いたことをあらためて読み返すと、多少誤解曲解を招くような言葉もあるので、少し追記。
儂、お経に書いてあるような“フィクション”を信じてないわけでもない。
まあ、仏教的に言えば「信じているのでもなく信じていないのでもない」と言ったとこかなw。
例えば“霊魂”。これって、多分“そのようなもの”はあるんじゃないかと思ってる。でも、今世間一般で考えられてるような「そんな単純なもんじゃあないだろう」と思ってるわけ。
じゃあどんなものかって? そんなこと凡夫にはわかりませ~んw。
あと、これはちょっと乱暴な言い方だけど、科学的にはあり得ないだろうけど心としては信じているといったこともあるのだ。
やっぱり難しいね~