安全保障関連法がようやく成立した。
心から安堵したのは勿論だが、同時にこの日本に今なお
根強い空想的平和主義を改めて思い知らされた。
国民の意識は ひと頃と比べれば ずいぶん変わったといわれてきた。
しかし、今回われわれが見たのは、それは本当のことだったのか、
と改めて問い直したくなるような現実であった。
いい歳をした大人が、「 戦争をしてはいけない 」 「 戦争は
悲惨だ 」 などと、したり顔に語るシーンなどを眼にしつつ、
その度に、結局この種の人たちは この七十年、何も現実を
見ようとはしてこなかったし、考えてもこなかったのだ、
と思わざるを得なかったのである。
この安保法制の次は いよいよ憲法九条改正だとされる。
確かにその通りとは思うものの、しかしそのためには この空想的
平和主義の誤りを正す運動が、もっと徹底して展開されねば
ならないとも考える。
「 戦争をしてはいけない 」 と主張するのは自由だが、
それをいうならこの日本ではなく、むしろ中国や北朝鮮に対して
いうべきで、彼らは その異常な軍事力拡張や核開発を
どう考えるのか、と逆に問うてみる必要があるからだ。
と同時に、今回は 「 徴兵制になる 」「 若者が戦場に送られ
る 」 といったトンデモ宣伝が行われたことも銘記されるべき
ことだった。
報道によれば、今回の法案に反対する母親グループが、
「 誰の子どもも殺させない 」 などと一万九千筆のメッセージを
自民党本部に届ける、といったパフォーマンスもあったというが、
まさに反対のためには何でもする、という戦術が見境なく
駆使されたのである。
これ自体は、反論する気すら起こらないほどのバカげた主張で
あったが、一方、筆者は こうした考え方の根本にあるものは、
明確に否定しておく必要がある、とその時 思わざるを得なかった。
というのも、「 自分は そんな危険な目に遭いたくない 」
「 自分の子供をそんな所に行かせたくない 」 と考えるのは
自然ではあるが、だからといって、ならば皆がそのように
いい始めたら、果たしてこの社会はどうなるのか、と
逆に問うてみるべきだと思ったからである。
問題は戦争だけではない。恐ろしい細菌や疫病の蔓延に対し、
その前線に立つ医療関係者、悪質な犯罪者集団に立ち向かわねば
ならない警察、また大火災の際の消防隊員等々、
彼らが それを言い始めたら一体どうなるのか、ということだ。
ならば、かかるケースや関係者に対しても、 「 そんな危険なことは
すべきではない 」 と声を 揃えるのか。そうすれば、その帰結は
結局 自分に返ってくるという事実がどうして見えないのか。
それを指摘せざるを得ないのだ。
自分の子供を危険な目に遭わせたくないという母親の気持ちは
わかる。しかし、その子供が大人になっても、自分さえ安全で
あればと考え、いやな仕事を他人に押しつけることしか
考えなくなっても、それでよいと考えるのか。
筆者がここでいいたいのは、そうした考え方だけでは、
この平和な社会、安全な社会は 保てないということだ。
あの福島原発の事故が起こった際、皆が一斉に逃げ出していたら、
この日本はどうなっていたか。しかし、誠に有難かったことに、
あの時 現場の東電社員たちは 自己の持ち場を捨てなかったので
ある。危険を顧みず 公のため、そして この国のために、
身を挺して行動してくれたのだ。
この社会は こうした勇気ある人たちの覚悟と行動により
守られている。しかし、今回 声高に叫ばれた反対論は、
そうした人々の覚悟と行為を、正面から否定するにも等しい
発言だったといわねばならない。
これは 自らの手で、自らの大切な社会基盤を掘り崩す反社会的
「 自傷行為 」 でもある。こうした考え方の危険性を、この際
併せて指摘しておきたい。
( 日本政策研究センター代表 伊藤哲夫 )
〈 『 明日への選択 』 平成27年10月号 〉
http://www.seisaku-center.net/node/875