「 物 」(例えば二酸化炭素)の存在を抑制するために、何か経済活動を抑制しなければ
ならないように漠然と思いこんではいないか。
< 「 生長の家倫理学 」 では、「 物 」の存在に引っかかって 人間の創造力を
枯渇(こかつ)せしめるような出し惜しみなどをば 美徳とは認めない >
< 創造の無限、供給の無限 ー の実相、「 与えれば与えられる 」「 生命力は出せば
それが富にかわる 」という真理を悟った上で、形の上では千変万化(せんぺんばんか)して
来るのであります。>
例えば、肉食の好きな方には、本物そっくりの肉味の栄養も同時に摂れる食品も開発される
でしょうし、 「 実相本源の神に結び付いた経済生活 」となるとき、形の上では、無限に
展開してゆくのではないか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「生長の家」では、本来「物質」は無いということを各方面から証明しているのでありますが、
その〝無い〟物質から生命の歓(よろこ)びが得られるはずはないのであります。
本当の歓びは「無い物質」に心を捉(とら)えられなくなったとき、ただ大生命からのみ
得(え)られる。大生命の恩寵(みたまさきはえ)が影を映(うつ)して、現象界に「物」の
無限流通となってあらわれる。
それを知るが故に「物」無限に〝あり〟ながら、〝あり〟とも思わず、〝無し〟とも思わず、
用(よう)に従い、時に従い、使用するに従い また無限に循環する ー これが 実相本源の神に
結びついた経済生活なのであります。
だから「 生長の家倫理学 」 では、「 物 」の存在に引っかかって 人間の創造力を
枯渇(こかつ)せしめるような出し惜しみなどをば 美徳とは認めないのでありまして、
そういうふうな形には捉われないので、創造の無限、供給の無限 ー の実相、
「 与えれば与えられる 」「 生命力は出せば それが富にかわる 」という真理を悟った上で、
形の上では千変万化(せんぺんばんか)して来るのであります。
谷口雅春先生
新編『生命の實相』第23巻 倫理篇 「永遠価値の生活学」上 120~121頁
ならないように漠然と思いこんではいないか。
< 「 生長の家倫理学 」 では、「 物 」の存在に引っかかって 人間の創造力を
枯渇(こかつ)せしめるような出し惜しみなどをば 美徳とは認めない >
< 創造の無限、供給の無限 ー の実相、「 与えれば与えられる 」「 生命力は出せば
それが富にかわる 」という真理を悟った上で、形の上では千変万化(せんぺんばんか)して
来るのであります。>
例えば、肉食の好きな方には、本物そっくりの肉味の栄養も同時に摂れる食品も開発される
でしょうし、 「 実相本源の神に結び付いた経済生活 」となるとき、形の上では、無限に
展開してゆくのではないか。
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「生長の家」では、本来「物質」は無いということを各方面から証明しているのでありますが、
その〝無い〟物質から生命の歓(よろこ)びが得られるはずはないのであります。
本当の歓びは「無い物質」に心を捉(とら)えられなくなったとき、ただ大生命からのみ
得(え)られる。大生命の恩寵(みたまさきはえ)が影を映(うつ)して、現象界に「物」の
無限流通となってあらわれる。
それを知るが故に「物」無限に〝あり〟ながら、〝あり〟とも思わず、〝無し〟とも思わず、
用(よう)に従い、時に従い、使用するに従い また無限に循環する ー これが 実相本源の神に
結びついた経済生活なのであります。
だから「 生長の家倫理学 」 では、「 物 」の存在に引っかかって 人間の創造力を
枯渇(こかつ)せしめるような出し惜しみなどをば 美徳とは認めないのでありまして、
そういうふうな形には捉われないので、創造の無限、供給の無限 ー の実相、
「 与えれば与えられる 」「 生命力は出せば それが富にかわる 」という真理を悟った上で、
形の上では千変万化(せんぺんばんか)して来るのであります。
谷口雅春先生
新編『生命の實相』第23巻 倫理篇 「永遠価値の生活学」上 120~121頁