人間の小知(しょうち)は決して全法界(ぜんほっかい)に達せざるが故に、根本的には善を
なすことが出来ない。・・・人時所(にんじしょ)の三相応(さんそうおう)を得(う)ることが
出来ないのである。そこで唯一の善は飛躍することである。・・・禅宗では公案(こうあん)を
つくり殊更(ことさら)に矛盾難問を構えてこの飛躍の修行をするのである。・・・
・・・右(みぎ)するも滅び、左(ひだり)するも亡びるのである。形の上では逃(のが)れる道は
ない。不可不(ふかふ)の法則が両方から追い迫ってくるのである。縦横厚みの三次元空間に生活して
いる限り、逃れる道は断たれている。もう絶体絶命である。吾々はこの三次元空間を飛躍するほかに
生きる道がない。そこで飛躍が行われる。吾々の生命はこの時、不可不の法則以外の世界に於ける
自分を発見する。・・・
・・・形に捉(とら)われず、空(くう)に捉われず、自由自在ということにも捉われず、
それではどうすれば好(よ)いか、亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。
一切の空間的認識の私的立場(‘自分の角度から見た’判断)から脱して、法的立場又は
宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。
法的立場から叩(たた)き伏(ふ)せるべきものは叩き伏せるし、生かすべきものは生かすし、
看過(みの)がすべきものは看過がすーそして、それで人時所相応の「善」となるのである。
「 神があらわるれば善となる 」のであって、吾等(われら)はまず「 神 」を把握しなければ
「 善 」を顕現することも出来ないし、「 調和おのずから備わる 」ところの人時所相応の善を
奉行(ぶぎょう)することも出来ないのである。
谷口雅春先生
新編 『 生命の實相 』 第23巻 倫理篇 「 永遠価値の生活学 」 上 192~197頁
なすことが出来ない。・・・人時所(にんじしょ)の三相応(さんそうおう)を得(う)ることが
出来ないのである。そこで唯一の善は飛躍することである。・・・禅宗では公案(こうあん)を
つくり殊更(ことさら)に矛盾難問を構えてこの飛躍の修行をするのである。・・・
・・・右(みぎ)するも滅び、左(ひだり)するも亡びるのである。形の上では逃(のが)れる道は
ない。不可不(ふかふ)の法則が両方から追い迫ってくるのである。縦横厚みの三次元空間に生活して
いる限り、逃れる道は断たれている。もう絶体絶命である。吾々はこの三次元空間を飛躍するほかに
生きる道がない。そこで飛躍が行われる。吾々の生命はこの時、不可不の法則以外の世界に於ける
自分を発見する。・・・
・・・形に捉(とら)われず、空(くう)に捉われず、自由自在ということにも捉われず、
それではどうすれば好(よ)いか、亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。
一切の空間的認識の私的立場(‘自分の角度から見た’判断)から脱して、法的立場又は
宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。
法的立場から叩(たた)き伏(ふ)せるべきものは叩き伏せるし、生かすべきものは生かすし、
看過(みの)がすべきものは看過がすーそして、それで人時所相応の「善」となるのである。
「 神があらわるれば善となる 」のであって、吾等(われら)はまず「 神 」を把握しなければ
「 善 」を顕現することも出来ないし、「 調和おのずから備わる 」ところの人時所相応の善を
奉行(ぶぎょう)することも出来ないのである。
谷口雅春先生
新編 『 生命の實相 』 第23巻 倫理篇 「 永遠価値の生活学 」 上 192~197頁