吾々人間は神の子である。ああそうだと気がついたら、もうその時に吾々にとって迷いは消えている。消えているけれども迷いがあるように見える。それはちょうど、星が消えていてもその光の達する年月の間は、その星があるかのように見えるようなものであります。
だから、吾々が「人間は神の子である。ああそうだ」と気がついたらちゃんとみんな成仏しているのです。みんな仏であるのです。けれどもそこに昔の薫習が、遠方の星の光のようにちらちらと或る期間光っている。
その光っている星のまたたきのようなものが吾々の薫習として残っていて、時々羊や犬に育てられたライオンが実相を忘れて羊の真似をしたり、犬の真似をするように、吾々は神の子である仏の子であると悟っていて時々煩悩具足の凡夫のような真似をするのであります。
煩悩具足の真似をしても、それは業がするのであって、自分は神の子である仏であると悟れば、もう自分というものの内容(なかみ)が置き替わっている。
今迄は業を自分だと思っていたが、今は業は業であって、自分は神の子であるとチャンと分離していて、業本来実在ではない、神こそ渾ての渾てだと解っているので、業がどんなに自叙自壊しても、それに捉われなくなるのであります。
神こそ渾てである。迷いはない、この世は光明一元の世界である ― この事が悟れると、心に認めたものだけが 現象世界に現れるのが 現象顕現の法則であるから、光明一元の世界が そこに現れて現象世界は唯々 「 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物 処を得て 争うものなく、相 食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなく 」 供給無限の理想世界が顕現するのであります。
谷口雅春先生 新編 『 生命の實相 』 第 35 巻 28~30頁
聖経 『 甘露の法雨 』 講義 ・ 聖経 『 天使の言葉 』 講義 上 光明思想社
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