引き続き平和のことを考えていて、
「対話」
なんだよね、と。
そういえば、そんな感じのことが
「私の身体は頭がいい」
のどっかにあって、
「おお」
と思ったんだよな、と引っ張り出してみた。
内田樹著「私の身体は頭がいい」
ああ、あった、あった!
「太刀について」
のところの最後。以下引用です
“その根源的趨向性はそのまま「一人ではいられない、しかし支配者でも奴隷でも
いたくない、ただ、他者との終わりなき対話のうちにいたい」という
「他者との共生」を基礎づける起源的な欲望に通じている。そして、そのような
欲望に深く熱く身を委ねることこそ、武道を修行することのもっとも人間的な
意味なのではないかと私には思われるのである”
で、私としてはその終わりなき対話の方法のひとつとして、
アサーション・トレーニングが位置づけられるのではないか、
と考えている。
自分の感情に気づき、相手を侵害しない形でそれを表現する。
それは、ミンデルの方法とも関連するし、
ガルトゥングの方法にも通じる。
自分がどう感じているのかを言語化することって、
意識するのとしないのとでは、大違いだから
なんてことを思って、昨晩、感情の言語化をしてみたら、
対話ではなく対戦になってしまった…。う~む、失敗
言語化ではなく、感情をぶつけてしまったんです…。
表現がアグレッシブだったのね…。
わかってることとできることとは、また別のことなんですね~
平和って、ゴールにたどり着いて終わり、っていう感じじゃなくて
全体が変化するなかで、平和的状態をそのときどき、探り探り、
なんとか平衡状態を保つというような、そんなイメージ。
失敗しながらでも、なんとか「対話」にチャレンジすることが
大事なんではないかな~なんて、思ったりしたのでした。
冬休みに続いて連休。ウチの中の人口密度が高くて…
対話も対戦も機会がぐっと増しています
「対話」
なんだよね、と。
そういえば、そんな感じのことが
「私の身体は頭がいい」
のどっかにあって、
「おお」
と思ったんだよな、と引っ張り出してみた。
内田樹著「私の身体は頭がいい」
ああ、あった、あった!
「太刀について」
のところの最後。以下引用です
“その根源的趨向性はそのまま「一人ではいられない、しかし支配者でも奴隷でも
いたくない、ただ、他者との終わりなき対話のうちにいたい」という
「他者との共生」を基礎づける起源的な欲望に通じている。そして、そのような
欲望に深く熱く身を委ねることこそ、武道を修行することのもっとも人間的な
意味なのではないかと私には思われるのである”
で、私としてはその終わりなき対話の方法のひとつとして、
アサーション・トレーニングが位置づけられるのではないか、
と考えている。
自分の感情に気づき、相手を侵害しない形でそれを表現する。
それは、ミンデルの方法とも関連するし、
ガルトゥングの方法にも通じる。
自分がどう感じているのかを言語化することって、
意識するのとしないのとでは、大違いだから
なんてことを思って、昨晩、感情の言語化をしてみたら、
対話ではなく対戦になってしまった…。う~む、失敗
言語化ではなく、感情をぶつけてしまったんです…。
表現がアグレッシブだったのね…。
わかってることとできることとは、また別のことなんですね~
平和って、ゴールにたどり着いて終わり、っていう感じじゃなくて
全体が変化するなかで、平和的状態をそのときどき、探り探り、
なんとか平衡状態を保つというような、そんなイメージ。
失敗しながらでも、なんとか「対話」にチャレンジすることが
大事なんではないかな~なんて、思ったりしたのでした。
冬休みに続いて連休。ウチの中の人口密度が高くて…
対話も対戦も機会がぐっと増しています