今日も暖かな11月。昼間はこの小説に触発されたわけではないけれど、サツマイモを掘りました。本作によれば、新聞紙とぎんがみでくるんでポプラのはっぱで焼くのだそうです。
【introduction】
湯本香樹実さん―こうやって書いてみると、何ともいえず美しい名前です。そしてけっこう前に読んだ『夏の庭』は、児童文学には欠かせない、それから先に広がる長い時間への道しるべとその助けとなる好奇心、加えてあの時期特有のわい雑な感じがうまい具合のあんばいで、こういった素材にうってつけだった故・相米慎二監督の映画とともに、塾内でも多くの生徒が触れた素敵な庭でした。
その後、芥川賞候補にもなった湯本さんも実際に著書に触れることはなく、この本も何年か前に買ったままほったらかし。手に取ったのは、残したい日本の文化の一つとしての児童文学書籍の伝統が息づく見事な表紙を見て、ああ、秋のうちに読まねばと思ったからでした。
ストーリーといえば、主人公の30代女性がさざめく小学校低学年時代の多くの時間をともに過ごした気難しげな老女の死からカットバックされる、その直前に父を失った少女とその母、そして魅力的なアパートの住民たちが周囲を思いやる姿が美しい、少女のビルドゥンクスロマンです。
【review】
児童文学と思って読み始めてみたけれど、本当は大人のためにこそ書かれた小説かも知れない。
それは複数男子が気ままでややチューニングの狂ったメジャーコードを奏でていた『夏の庭』に対し、『ポプラの秋』には始終マイナーコードが流れているから。同じく老人の死を扱っていて、どちらも心地よいユーモアに包まれていながらも。
父の死というとてつもない大事件にあった母と子はポプラ荘と呼ばれるおばあさんのアパートにたどり着き、そこで出会う人々との触れ合いを通して失いかけた日常を再生していく。主人公の少女の自己の、おぼつかないけれど必死な、創造の物語だ。
肉親の死は重い。それが小学生とその母親ならなおさらだ。言葉なしの表現が可能な映画にこそ向いたテーマのようで、幼女が母の死を受け入れる『ポネット』、日常の積み重ねによって息子の死を乗り越える『息子の部屋』、夫の死を遠ざける『かげろう』や、子どもの死という難題に立ち向かう『哀しみの終わる時』もあった。これらの作品ではいずれも映像の雄弁さによって、観客は肉親の死を擬似体験させられる。
映像に対し、内面を語りがちな「言葉」は重い。その重さがあるから、肉親の死というとてつもない出来事に対し、映画のような跳躍的な表現ができない。映画と小説にはそんな違いがあるように思われる。
そのハンデを湯本さんは、意外な方法で克服した。一つは少女の気持ちの描写をおばあさんの、いわば妖怪性への違和感に集め、それを受け入れるというかたちで心の変容を描いたこと。もう一つは死者への手紙と引き出しという、恐ろしいけれどもファンタジックな舞台装置を用意したことだ。
少女とおばあさんの話に加え、隣人である衣装係やタクシー運転手とその離れて暮らす息子ら登場人物が増えることは、主人公の少女の世界が広がっていくことにほかならない。そして少女が、多くのことを知れば知るほどわからなくなっていくもの。それがこの小説でもっとも多くの音が重ねられたマイナーコードだ。
そして何でもないけれど、じわじわと心に響くいろいろが繰り広げられた後の終盤。「先週日記」のタイトルにも使った、「てがみは、こころのなかで、かくことにします」。この一節は、主人公にとっての一つの時間が終わったことを宣言して深く心を打つ。
たとえば、『コインロッカーベイビーズ』のハシの「ねえ、見てキク、きれいだよ」、『嵐が丘』のキャサリンの「わたしはあなた、あなたはわたしなの」、『赤毛のアン』の「わあ、雪の女王様だ」、『ハックルベリー・フィンの冒険』の「そうだ、ぼくは地獄へ行こう」、『風葬の教室』の「何てかわいそうな人たちだろう」といった、小説の世界だからこそリアルな少年少女たちの決意表明と同じようにずっと忘れることはなく、思い出すたびに読んだ時のページから鳴り響いたコードをきくのだろう。
ラストの葬儀のシーン。印象はまったく違うのに思い出したのは、なぜだかガルシア=マルケス『ママ=グランデの葬儀』だった。マルケスの小説が「マジック=リアリズム」なら湯本さんのこの作品は“ファンタジック=リアリズム”。夢見る時間だけにわかるほんとうなのだ。
そして30歳になった主人公があのポプラの前に立った時から流れるのは、たとえば2オクターブ、6つの音を重ねたCコードのゆっくりとした4つ打ちだろう。カラフルでおだやかで決意に満ちた。
※引用記憶につき不正確
(BGMはケンペのブラームス第4番。昨日の「BGD」というのはおかしい、over まろやかさはない "riccovino bianco"。そう、昨日は何か今までのテンプレート「家具 コットン」があまりに地味に思え、「ダイニング 赤ワイン」というのに替えました)
【introduction】
湯本香樹実さん―こうやって書いてみると、何ともいえず美しい名前です。そしてけっこう前に読んだ『夏の庭』は、児童文学には欠かせない、それから先に広がる長い時間への道しるべとその助けとなる好奇心、加えてあの時期特有のわい雑な感じがうまい具合のあんばいで、こういった素材にうってつけだった故・相米慎二監督の映画とともに、塾内でも多くの生徒が触れた素敵な庭でした。
その後、芥川賞候補にもなった湯本さんも実際に著書に触れることはなく、この本も何年か前に買ったままほったらかし。手に取ったのは、残したい日本の文化の一つとしての児童文学書籍の伝統が息づく見事な表紙を見て、ああ、秋のうちに読まねばと思ったからでした。
ストーリーといえば、主人公の30代女性がさざめく小学校低学年時代の多くの時間をともに過ごした気難しげな老女の死からカットバックされる、その直前に父を失った少女とその母、そして魅力的なアパートの住民たちが周囲を思いやる姿が美しい、少女のビルドゥンクスロマンです。
【review】
児童文学と思って読み始めてみたけれど、本当は大人のためにこそ書かれた小説かも知れない。
それは複数男子が気ままでややチューニングの狂ったメジャーコードを奏でていた『夏の庭』に対し、『ポプラの秋』には始終マイナーコードが流れているから。同じく老人の死を扱っていて、どちらも心地よいユーモアに包まれていながらも。
父の死というとてつもない大事件にあった母と子はポプラ荘と呼ばれるおばあさんのアパートにたどり着き、そこで出会う人々との触れ合いを通して失いかけた日常を再生していく。主人公の少女の自己の、おぼつかないけれど必死な、創造の物語だ。
肉親の死は重い。それが小学生とその母親ならなおさらだ。言葉なしの表現が可能な映画にこそ向いたテーマのようで、幼女が母の死を受け入れる『ポネット』、日常の積み重ねによって息子の死を乗り越える『息子の部屋』、夫の死を遠ざける『かげろう』や、子どもの死という難題に立ち向かう『哀しみの終わる時』もあった。これらの作品ではいずれも映像の雄弁さによって、観客は肉親の死を擬似体験させられる。
映像に対し、内面を語りがちな「言葉」は重い。その重さがあるから、肉親の死というとてつもない出来事に対し、映画のような跳躍的な表現ができない。映画と小説にはそんな違いがあるように思われる。
そのハンデを湯本さんは、意外な方法で克服した。一つは少女の気持ちの描写をおばあさんの、いわば妖怪性への違和感に集め、それを受け入れるというかたちで心の変容を描いたこと。もう一つは死者への手紙と引き出しという、恐ろしいけれどもファンタジックな舞台装置を用意したことだ。
少女とおばあさんの話に加え、隣人である衣装係やタクシー運転手とその離れて暮らす息子ら登場人物が増えることは、主人公の少女の世界が広がっていくことにほかならない。そして少女が、多くのことを知れば知るほどわからなくなっていくもの。それがこの小説でもっとも多くの音が重ねられたマイナーコードだ。
そして何でもないけれど、じわじわと心に響くいろいろが繰り広げられた後の終盤。「先週日記」のタイトルにも使った、「てがみは、こころのなかで、かくことにします」。この一節は、主人公にとっての一つの時間が終わったことを宣言して深く心を打つ。
たとえば、『コインロッカーベイビーズ』のハシの「ねえ、見てキク、きれいだよ」、『嵐が丘』のキャサリンの「わたしはあなた、あなたはわたしなの」、『赤毛のアン』の「わあ、雪の女王様だ」、『ハックルベリー・フィンの冒険』の「そうだ、ぼくは地獄へ行こう」、『風葬の教室』の「何てかわいそうな人たちだろう」といった、小説の世界だからこそリアルな少年少女たちの決意表明と同じようにずっと忘れることはなく、思い出すたびに読んだ時のページから鳴り響いたコードをきくのだろう。
ラストの葬儀のシーン。印象はまったく違うのに思い出したのは、なぜだかガルシア=マルケス『ママ=グランデの葬儀』だった。マルケスの小説が「マジック=リアリズム」なら湯本さんのこの作品は“ファンタジック=リアリズム”。夢見る時間だけにわかるほんとうなのだ。
そして30歳になった主人公があのポプラの前に立った時から流れるのは、たとえば2オクターブ、6つの音を重ねたCコードのゆっくりとした4つ打ちだろう。カラフルでおだやかで決意に満ちた。
※引用記憶につき不正確
(BGMはケンペのブラームス第4番。昨日の「BGD」というのはおかしい、over まろやかさはない "riccovino bianco"。そう、昨日は何か今までのテンプレート「家具 コットン」があまりに地味に思え、「ダイニング 赤ワイン」というのに替えました)