少し風が強いけど空は青く、控えめの色のひなたとくっきりとした影が彩る田園風景は、一年の中でももっとも大人向けといえるそれでしょう。
今日11月12日は、2000年に世を去った祖母の命日。母は自分が22歳と早いうちに死んだし、父は勤め人で帰っても酔っ払っているだけだったし、祖父はずっと家にいても姿で語るばかりであまりオーラル面でコミュニカティブルな人物ではなかったので、現在の時点でももっとも多く話をし、私というものをかたづくるのにもっとも影響が大きかったのはこの祖母でしょう。たとえば、友人宅に行ってバスタオルを借り、「これ、確かHの子どもが生まれた時、お返しにもらったやつだ」などと気がつき、「おめえは何でそんなこと憶えてんだ。わけわかんねえやつだ」と宇宙人扱いされるディテール記憶癖などは、幼児の頃から古い引出しをかき回しながら、「これは誰々に何々の時にもらったん」などと大切に扱っていた祖母の振る舞いから身についたものなのだと思えます。
そういえば昨年も、祖父と母の命日の記事は書いたのに祖母のこの日は多忙にかまけていてかないませんでしたので、今回は昨年の分まで。実は祖母が死んだ6年前の12日の夜、すでに父は酔っ払ってリタイヤの中、「今日はおばあちゃんといっしょに寝んべや」という祖父とともになきがらのそばで一晩過ごした時、でもすぐに祖父も寝てしまって、ウィスキーでもうろうとしながら書き始めてその後も時々書き足したイラスト混入祖母の思い出と祖母の死後のわが家の記録のノートがあって、それはしばらくして祖母の娘である叔母どもには公開されたものの未完といえば未完で、その最後に書こうと思っていたのがこれから書く2000年9月のある午後の話です。
・・・・・・・
「おばあちゃん、野球みにいこう」と誘ったのははるか30年ほど前の、幸福な記憶があったからである。
小学校3年だったろうから1972年の春か。野球に興味を持ち始めた私を、祖母が前橋で行われた巨人・大洋のオープン戦に連れて行ってくれた。当時地元出身で大洋にドラフト1位で入った竹内投手がいたこの試合をみに末娘のだんなの実家の父を頼りに出かけたわけだが、祖母は1909年生まれだから当時63歳か。電車なんてほとんど乗らない暮らしだった中、小学生の孫を連れて知らない町に繰り出すのは、たいした冒険だったに違いない。もっともそれより前、幼稚園に上がる以前にも土産の納豆の包みを見ておやまゆうえんちに連れて行かなかった、約束を破ったと泣いたわがままな孫をなぐさめるため高崎のかっぱピアという遊園地に行き、せがまれて初めて乗ったジェットコースターで、「振り落とされちゃんなんねえと思って、目えつぶってずっと抱きしめてたん」という話は何十年も語り続けていたから、野球場くらい何でもなかったかも知れないけど。もちろんこの前橋行きも、その後の祖母の話のレパートリーに加わった一つだ。
また祖母自身、野球は嫌いではなかった。「小さい頃は野球じゃなくて、べえすぼうるっていったん。その頃は打てねえと投げ方がへただから打てねんだっていったんだけど、今は打てねえように投げるっつんだからおかしいねえ」といいつつ、「プロはつまんない。高校生がいつも走ってて気持ちがいい」とテレビをみていたから、まあ、そういう範囲の野球好きだったわけだ。
がんができたことを知ったのはその年の八月だったか。それ以降そのノートには書いたことだけど、貯金の整理に郵便局に連れてってくれといい、「もう治らない病気になりまして、長い間お世話になりました」と自分の三分の一くらいの年の女子職員に頭を下げたり、入院が近いからとよくそうしていたように果物ナイフとかはさみとかが入った入院セットをつくっていた祖母は、気丈で泣き言などいわないだけに見ているのがつらく、ちょうどその頃にシドニーの金メダル高橋尚子の残り5キロくらいではベッドから呼んできてほらほらと見せると、「よかったね、よかったね」と、でも病気を知らなかった1年前なら決してしなかったであろう少し悲しげな笑顔を見せた。
「何もできない」ということを本当の意味で知ったのは、愚かだけれども37歳だったその時かも知れない。何もできないからこそできることをその範囲でするしかなく、ちょうど時期だったなしをどんどん買ってきていっしょにしゃかしゃか食べ、祖母は「こんなになし食べたんは生まれて初めてだ」と喜んだりしていて、そうするうちにふと高校野球をみにいくという考えを思いついた。新人戦の季節だったのだ。
前の日は雨だったような気がする。念のため球場に問い合わせると、どっかとどっかの試合が2試合あるという。もちろん学校なんてどこでもいい。へたでもなんでも、元気のいい高校生が土のグラウンドを力いっぱい走り回っていれば、祖母はどんなに喜ぶだろう。だから誘ったのだ、「おばあちゃん、野球みにいこう。熊谷で高校野球やってんだよ」。
そのいくらか唐突な申し出に、「へえ」と祖母はしばし絶句する。そしてそれから私の目は見ずよくそうしていたように、少し祖母からするとやや左の方を見て、はずかしそうにうれしそうにいった。
「何でそんなにしてくれるん。へえ、男の子がこんなにしてくれるとは思わなかった……ありがとう」。
こんなにじゃないよ、それよりずっとたくさんのことをおばあちゃんはしてくれたんだよ、だからこんなのたいしたことないんだよと思いつつ、ほかにはいいようがないので「うん、じゃあ、野球いこう」と繰り返すと、祖母は今度は病気を知らなかった頃と変わらない笑顔でいう。
「どうするかなあ……いきたい気もするなあ…………でも……いいよ」。そうするしかないから、もう一度繰り返す、「何で、いこうよ野球」。なぜか祖母は、さっきよりさらに嬉しそうにいう、「うん、いいんだよ」。
この時、私は知った。達せられない方が美しく、達してしまう満足感よりも、その美しさの方を選ぶという心持ちがあることを。祖母はきっと、思いもよらなかった野球をみてしまうことでなく、みないまま心にしまう方を選んだのだ。この前の『ポプラの秋』の「てがみは、こころのなかで、かくことにします」のように、かたちにしない方が“いい”こともある。それまでに祖母からは多くを学んだけど、これはもっとも終わりにおそわったことの一つだ。
この時、祖母の心に広がっていた野球場のことを考えてみる。多分金属バットなんて知らないし、1チーム9人ってことすらわからないだろう。そこでは白いユニフォームで坊主頭の高校生が一所懸命走っていて、その素晴らしいべえすぼうるを楽しんでいる。
たとえば、もし新人戦でなく夏の大会に連れて行けていたら、スタンドにも1回戦でも応援団やブラスバンドが来ていて、「へえー、すごいねえ」と祖母を喜ばせたに違いない。だが、そんなありふれた本物の夏の地方球場の景色もいいけれど、祖母の心に広がったまったくのSFともいえる高校野球、またそれについて思いをめぐらすのもそれはまた貴重で幸福なことではないか。死者に対してできるのは、きっと思うことだけだろう。
その九月の野球場が心に描かれてから少しすると祖母は入院し、2ヶ月もしない6年前の今日11日の昼頃、帰らぬ人となった。もちろん単なる脳の中の電気信号のかたちに過ぎなかった野球場や高校球児も、いっしょにこの世から消えている。
けれど現在の私にも、その九月の午後の陽だまりいっぱいの部屋で祖母といっしょに味わった、目には見えない球児たちと、実際の野球場より彼らを選んだ祖母、さらにそういう祖母の心持ちを、言葉を使って伝えることならできないことはない。そういう奇妙な野球場の電気信号が、祖母から始まって、私、そしてこれを読む人の頭の中、つまり心に広がって行くとしたら、何と素晴らしいことだろう。電気信号が広がるとは「思う」こと。だから今の私は、田村隆一の名作のように、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」なんていえない。
祖母から電気信号が消えた日も今日みたいな青空で、帰ってきた時の南西の空には飛行機雲が高く伸びていたのを憶えている。この秋に何度も見た空と同じように。
(BGMはひざの上のねこチャーのごろごろと、祖母が好きだった庭の木の葉の風に揺れる影のリズム。Phはその庭に咲いたつばきとその上の杉の樹、さらに上の青い空。残念ながら飛行機雲はなし)
今日11月12日は、2000年に世を去った祖母の命日。母は自分が22歳と早いうちに死んだし、父は勤め人で帰っても酔っ払っているだけだったし、祖父はずっと家にいても姿で語るばかりであまりオーラル面でコミュニカティブルな人物ではなかったので、現在の時点でももっとも多く話をし、私というものをかたづくるのにもっとも影響が大きかったのはこの祖母でしょう。たとえば、友人宅に行ってバスタオルを借り、「これ、確かHの子どもが生まれた時、お返しにもらったやつだ」などと気がつき、「おめえは何でそんなこと憶えてんだ。わけわかんねえやつだ」と宇宙人扱いされるディテール記憶癖などは、幼児の頃から古い引出しをかき回しながら、「これは誰々に何々の時にもらったん」などと大切に扱っていた祖母の振る舞いから身についたものなのだと思えます。
そういえば昨年も、祖父と母の命日の記事は書いたのに祖母のこの日は多忙にかまけていてかないませんでしたので、今回は昨年の分まで。実は祖母が死んだ6年前の12日の夜、すでに父は酔っ払ってリタイヤの中、「今日はおばあちゃんといっしょに寝んべや」という祖父とともになきがらのそばで一晩過ごした時、でもすぐに祖父も寝てしまって、ウィスキーでもうろうとしながら書き始めてその後も時々書き足したイラスト混入祖母の思い出と祖母の死後のわが家の記録のノートがあって、それはしばらくして祖母の娘である叔母どもには公開されたものの未完といえば未完で、その最後に書こうと思っていたのがこれから書く2000年9月のある午後の話です。
・・・・・・・
「おばあちゃん、野球みにいこう」と誘ったのははるか30年ほど前の、幸福な記憶があったからである。
小学校3年だったろうから1972年の春か。野球に興味を持ち始めた私を、祖母が前橋で行われた巨人・大洋のオープン戦に連れて行ってくれた。当時地元出身で大洋にドラフト1位で入った竹内投手がいたこの試合をみに末娘のだんなの実家の父を頼りに出かけたわけだが、祖母は1909年生まれだから当時63歳か。電車なんてほとんど乗らない暮らしだった中、小学生の孫を連れて知らない町に繰り出すのは、たいした冒険だったに違いない。もっともそれより前、幼稚園に上がる以前にも土産の納豆の包みを見ておやまゆうえんちに連れて行かなかった、約束を破ったと泣いたわがままな孫をなぐさめるため高崎のかっぱピアという遊園地に行き、せがまれて初めて乗ったジェットコースターで、「振り落とされちゃんなんねえと思って、目えつぶってずっと抱きしめてたん」という話は何十年も語り続けていたから、野球場くらい何でもなかったかも知れないけど。もちろんこの前橋行きも、その後の祖母の話のレパートリーに加わった一つだ。
また祖母自身、野球は嫌いではなかった。「小さい頃は野球じゃなくて、べえすぼうるっていったん。その頃は打てねえと投げ方がへただから打てねんだっていったんだけど、今は打てねえように投げるっつんだからおかしいねえ」といいつつ、「プロはつまんない。高校生がいつも走ってて気持ちがいい」とテレビをみていたから、まあ、そういう範囲の野球好きだったわけだ。
がんができたことを知ったのはその年の八月だったか。それ以降そのノートには書いたことだけど、貯金の整理に郵便局に連れてってくれといい、「もう治らない病気になりまして、長い間お世話になりました」と自分の三分の一くらいの年の女子職員に頭を下げたり、入院が近いからとよくそうしていたように果物ナイフとかはさみとかが入った入院セットをつくっていた祖母は、気丈で泣き言などいわないだけに見ているのがつらく、ちょうどその頃にシドニーの金メダル高橋尚子の残り5キロくらいではベッドから呼んできてほらほらと見せると、「よかったね、よかったね」と、でも病気を知らなかった1年前なら決してしなかったであろう少し悲しげな笑顔を見せた。
「何もできない」ということを本当の意味で知ったのは、愚かだけれども37歳だったその時かも知れない。何もできないからこそできることをその範囲でするしかなく、ちょうど時期だったなしをどんどん買ってきていっしょにしゃかしゃか食べ、祖母は「こんなになし食べたんは生まれて初めてだ」と喜んだりしていて、そうするうちにふと高校野球をみにいくという考えを思いついた。新人戦の季節だったのだ。
前の日は雨だったような気がする。念のため球場に問い合わせると、どっかとどっかの試合が2試合あるという。もちろん学校なんてどこでもいい。へたでもなんでも、元気のいい高校生が土のグラウンドを力いっぱい走り回っていれば、祖母はどんなに喜ぶだろう。だから誘ったのだ、「おばあちゃん、野球みにいこう。熊谷で高校野球やってんだよ」。
そのいくらか唐突な申し出に、「へえ」と祖母はしばし絶句する。そしてそれから私の目は見ずよくそうしていたように、少し祖母からするとやや左の方を見て、はずかしそうにうれしそうにいった。
「何でそんなにしてくれるん。へえ、男の子がこんなにしてくれるとは思わなかった……ありがとう」。
こんなにじゃないよ、それよりずっとたくさんのことをおばあちゃんはしてくれたんだよ、だからこんなのたいしたことないんだよと思いつつ、ほかにはいいようがないので「うん、じゃあ、野球いこう」と繰り返すと、祖母は今度は病気を知らなかった頃と変わらない笑顔でいう。
「どうするかなあ……いきたい気もするなあ…………でも……いいよ」。そうするしかないから、もう一度繰り返す、「何で、いこうよ野球」。なぜか祖母は、さっきよりさらに嬉しそうにいう、「うん、いいんだよ」。
この時、私は知った。達せられない方が美しく、達してしまう満足感よりも、その美しさの方を選ぶという心持ちがあることを。祖母はきっと、思いもよらなかった野球をみてしまうことでなく、みないまま心にしまう方を選んだのだ。この前の『ポプラの秋』の「てがみは、こころのなかで、かくことにします」のように、かたちにしない方が“いい”こともある。それまでに祖母からは多くを学んだけど、これはもっとも終わりにおそわったことの一つだ。
この時、祖母の心に広がっていた野球場のことを考えてみる。多分金属バットなんて知らないし、1チーム9人ってことすらわからないだろう。そこでは白いユニフォームで坊主頭の高校生が一所懸命走っていて、その素晴らしいべえすぼうるを楽しんでいる。
たとえば、もし新人戦でなく夏の大会に連れて行けていたら、スタンドにも1回戦でも応援団やブラスバンドが来ていて、「へえー、すごいねえ」と祖母を喜ばせたに違いない。だが、そんなありふれた本物の夏の地方球場の景色もいいけれど、祖母の心に広がったまったくのSFともいえる高校野球、またそれについて思いをめぐらすのもそれはまた貴重で幸福なことではないか。死者に対してできるのは、きっと思うことだけだろう。
その九月の野球場が心に描かれてから少しすると祖母は入院し、2ヶ月もしない6年前の今日11日の昼頃、帰らぬ人となった。もちろん単なる脳の中の電気信号のかたちに過ぎなかった野球場や高校球児も、いっしょにこの世から消えている。
けれど現在の私にも、その九月の午後の陽だまりいっぱいの部屋で祖母といっしょに味わった、目には見えない球児たちと、実際の野球場より彼らを選んだ祖母、さらにそういう祖母の心持ちを、言葉を使って伝えることならできないことはない。そういう奇妙な野球場の電気信号が、祖母から始まって、私、そしてこれを読む人の頭の中、つまり心に広がって行くとしたら、何と素晴らしいことだろう。電気信号が広がるとは「思う」こと。だから今の私は、田村隆一の名作のように、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」なんていえない。
祖母から電気信号が消えた日も今日みたいな青空で、帰ってきた時の南西の空には飛行機雲が高く伸びていたのを憶えている。この秋に何度も見た空と同じように。
(BGMはひざの上のねこチャーのごろごろと、祖母が好きだった庭の木の葉の風に揺れる影のリズム。Phはその庭に咲いたつばきとその上の杉の樹、さらに上の青い空。残念ながら飛行機雲はなし)