寒くなりました。けど、まだ暖房は使わず、縮こまって耐えるのは嫌いではありません。
塾PCはキーボードがもうだめそうなので、1万5000円で富士通ノート1台購入。初めてXP機がやって来ました。こうやって機械を買い換えるととたんに快適になって、何で今まで不便で我慢してたんだ、ばかじゃねえか、と思うのが常ですが、まあそういうものでしょう。
そんなFMV-6700NU9/L の第1弾は「ねこ」の話を。
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事件が起こったのは先週のことだったか。
母屋にいると「いるかい」と近所の人が父を訪ねてきて、どうやら畑にいるようなので「ちょっと待って下さい」と呼びにいったところ、農業のその人も一緒についてきて「やってるねー」。じゃあ、と戻ってみると果たして、開けっ放しのドアからやつらが侵入していた。
父親はねこが嫌いだ。それでも、ブーブーいいながらもこんなにたくさんのねこをいさせてくれているのにはまあ感謝はしているのだが、母屋に入れるのはどうあっても許さず、ねこのやつらも知ってか知らぬか、少し開いたドアの隙間から入るということも普段はない。その一線を越えて侵入してきたのは、人間でいったら魔がさしたというやつか、いや何しろねこだから、まあ特性である気まぐれを起こして入ってみたというのが正解だろう。
と、入ってはみたものの、やつら、「何やってんだ、おめえら」と、これは口には出さず心の中でいいながら私が家に入った途端、ものすごい勢いで逃げようとする。以前に近所の自由獲得犬が部屋に接近した時に全員がそれこそ全盛期のエイシンワシントンのようなスタートダッシュを見せて驚いたことがあったが、まさしく犬の時と同じようなほうほうのていで飛び出していった。
そんな中、1名だけ逃げ遅れたのが「」(スペース)。閉まったドアのところで引き返し、「びやぁー!」と叫びながら絶望のパニックに陥っている。風呂場方面に逃走するも行き止まり、今度は居間に進路を変え、ガラスの向こうに仲間たちの姿を見るがこのケイ素の壁は通り抜けられない。わかったわかった、今開けてやるからな、とカギに手をかけると「びよぉー!」と和室へ。こっちは冷静そのものなのに、やつはひとりで盛り上がって騒いでいるから出られない。そんな状態がしばらく続き、何ら状況が変わったわけではないものの、ふとした拍子で脱出できた。穏やかな初冬の昼下がりのやれやれ。
まあ普段と違うところに来たのだからわからないでもないが、逆によく考えると、離れの部屋でも庭でも私が行けば必ず寄って来るやつらがなぜ別のロケーションでこうまで慌てるのかというは、まったくもって謎だ。人間的に考えると「おっ、やべえ」という感じに思えるが、だいたいなぜやばいのか。やましさとか罪悪感とか感じているようにも思えるが、そもそもそういう感覚がねこにあるとは思えない。当たり前そうなようで、実はよく考えれば考えるほどわからない行動だといえる。
カロンタンが冬に家出した時、数日後に庭で見つかったが、家の中では仲よくしていたのに外ではまったく近寄って来なかった。その時、カロンタンを連れて来たOGのSさんに「外のカロンタンと中のカロンタンは違います」というメールを書いたのだが、どうやらやつらは場所によって違う生命体になってしまうらしいというのが、私が抱く感覚に最も近い。場所によってねこは変わるのだ。
だが、さらに考えてみると、これはねこだけの話ではない。例えば普段は地味な制服やさえないジャージしか見たことのない中学生に盛り場、でなくともイトーヨーカドーあたりで会って、意外な格好をしているのを見て驚いたり。これはその中学生の方でも、「あちゃー、やばい」となぜか思うところも、違うロケーションでのねこと似ている。まあ、さすがに「びやぁー!」と叫びはしないだろうが。
さて、この「やばい」という感覚に関わっているのは、アイデンティティではないだろうか。いつも同じ自分、しかも「いい自分」、「周囲から期待される自分」であろうとするアイデンティティ。この「アイデンティティのくびき」は、思わってもみないほど私たちの行動を支配しているのではないか。
イトーヨーカドーで普段より少しだけおしゃれな格好をしたところでどうなるというわけでもないのに、なぜかそれを後ろめたくする不思議な心性。そしてそういう心性を持ち続けることは、思うよりずっときびしいことが多い。複雑になっていく社会のもとでは、きっとそれは重過ぎるのだ。
アイデンティティについて考える時、前に香山リカさんが書いていた「女の子はおせんべいみたいに自分を割ることが上手だから楽になれる。でもそれが下手な子、男の子に多いそういう子はきびしい」(記憶ゆえ大意のみ)という言葉をよく思い出す。自分をうまく割って、できるだけ破片を多くしていろんなところにばらまいた方がきっとずいぶん楽だし、できるだけ居心地のいい場所も見つかるだろう。少なくとも一つの場所しか知らないよりはずっといい。
そしていい場所が見つかったら、散らばった破片をできるだけ多く集めて、おこしみたいにゆるく固める。そこが違うな、と思ったらまた割ってしまえばいい。
いすに脚が一本しかなかったら簡単に倒れてしまうように、ほかに逃げ場がなかったら強くない心はたやすく崩れてしまうだろう。脚は、つまり気持ちの置き場は、少ないよりは多い方がいい。一本がだめでも、ほかが支えてくれるから。
と、話はねこの、「」(スペース)のことからずいぶんそれてしまったが、スペース(場所)が問題になっていることに変わりはないなどと強引に結びつけたりして。
でも、ねこはアイデンティティについて考えないから、ずいぶんと楽そうで幸せそうだし、時々道で車に向かって行くことがあったとしてもそれは一つの場所にいることでどうしようもなくなったからではなく、ほかの理由があるのだろう。今まで見聞きした中では、まだねこは上下運動しないものを動いているものと認識するまで進化していず、動かないまま進んでくる車は動いていないものと判断している、というのが最もすごい説明だった。
いずれにしても、うちにいる「」(スペース)と、庭にいる「」(スペース)と、普段入らないところに入った「」(スペース)、それどころか同じうちにいる「」(スペース)でも昨日の「」(スペース)と今日の「」(スペース)は、どうやら別の生命体なのだ、不思議でもなんでもなく。
そういえば、子どもの頃、家にいたねこによくせんべいをやっていたが、今となってはやつらがせんべいを好むとはあまり思えない。よし今度やってみよう。
(Phは庭で自由を満喫する今日の昼間の「」(スペース)。BGMは塾にF君が置いていった SHARP MP3 に入っている音源をシャッフルで。といってこれはすべて私の休養中PCから移植したもので、今かかっているのはキャロル・キングの『ナイチンゲール』)
塾PCはキーボードがもうだめそうなので、1万5000円で富士通ノート1台購入。初めてXP機がやって来ました。こうやって機械を買い換えるととたんに快適になって、何で今まで不便で我慢してたんだ、ばかじゃねえか、と思うのが常ですが、まあそういうものでしょう。
そんなFMV-6700NU9/L の第1弾は「ねこ」の話を。
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事件が起こったのは先週のことだったか。
母屋にいると「いるかい」と近所の人が父を訪ねてきて、どうやら畑にいるようなので「ちょっと待って下さい」と呼びにいったところ、農業のその人も一緒についてきて「やってるねー」。じゃあ、と戻ってみると果たして、開けっ放しのドアからやつらが侵入していた。
父親はねこが嫌いだ。それでも、ブーブーいいながらもこんなにたくさんのねこをいさせてくれているのにはまあ感謝はしているのだが、母屋に入れるのはどうあっても許さず、ねこのやつらも知ってか知らぬか、少し開いたドアの隙間から入るということも普段はない。その一線を越えて侵入してきたのは、人間でいったら魔がさしたというやつか、いや何しろねこだから、まあ特性である気まぐれを起こして入ってみたというのが正解だろう。
と、入ってはみたものの、やつら、「何やってんだ、おめえら」と、これは口には出さず心の中でいいながら私が家に入った途端、ものすごい勢いで逃げようとする。以前に近所の自由獲得犬が部屋に接近した時に全員がそれこそ全盛期のエイシンワシントンのようなスタートダッシュを見せて驚いたことがあったが、まさしく犬の時と同じようなほうほうのていで飛び出していった。
そんな中、1名だけ逃げ遅れたのが「」(スペース)。閉まったドアのところで引き返し、「びやぁー!」と叫びながら絶望のパニックに陥っている。風呂場方面に逃走するも行き止まり、今度は居間に進路を変え、ガラスの向こうに仲間たちの姿を見るがこのケイ素の壁は通り抜けられない。わかったわかった、今開けてやるからな、とカギに手をかけると「びよぉー!」と和室へ。こっちは冷静そのものなのに、やつはひとりで盛り上がって騒いでいるから出られない。そんな状態がしばらく続き、何ら状況が変わったわけではないものの、ふとした拍子で脱出できた。穏やかな初冬の昼下がりのやれやれ。
まあ普段と違うところに来たのだからわからないでもないが、逆によく考えると、離れの部屋でも庭でも私が行けば必ず寄って来るやつらがなぜ別のロケーションでこうまで慌てるのかというは、まったくもって謎だ。人間的に考えると「おっ、やべえ」という感じに思えるが、だいたいなぜやばいのか。やましさとか罪悪感とか感じているようにも思えるが、そもそもそういう感覚がねこにあるとは思えない。当たり前そうなようで、実はよく考えれば考えるほどわからない行動だといえる。
カロンタンが冬に家出した時、数日後に庭で見つかったが、家の中では仲よくしていたのに外ではまったく近寄って来なかった。その時、カロンタンを連れて来たOGのSさんに「外のカロンタンと中のカロンタンは違います」というメールを書いたのだが、どうやらやつらは場所によって違う生命体になってしまうらしいというのが、私が抱く感覚に最も近い。場所によってねこは変わるのだ。
だが、さらに考えてみると、これはねこだけの話ではない。例えば普段は地味な制服やさえないジャージしか見たことのない中学生に盛り場、でなくともイトーヨーカドーあたりで会って、意外な格好をしているのを見て驚いたり。これはその中学生の方でも、「あちゃー、やばい」となぜか思うところも、違うロケーションでのねこと似ている。まあ、さすがに「びやぁー!」と叫びはしないだろうが。
さて、この「やばい」という感覚に関わっているのは、アイデンティティではないだろうか。いつも同じ自分、しかも「いい自分」、「周囲から期待される自分」であろうとするアイデンティティ。この「アイデンティティのくびき」は、思わってもみないほど私たちの行動を支配しているのではないか。
イトーヨーカドーで普段より少しだけおしゃれな格好をしたところでどうなるというわけでもないのに、なぜかそれを後ろめたくする不思議な心性。そしてそういう心性を持ち続けることは、思うよりずっときびしいことが多い。複雑になっていく社会のもとでは、きっとそれは重過ぎるのだ。
アイデンティティについて考える時、前に香山リカさんが書いていた「女の子はおせんべいみたいに自分を割ることが上手だから楽になれる。でもそれが下手な子、男の子に多いそういう子はきびしい」(記憶ゆえ大意のみ)という言葉をよく思い出す。自分をうまく割って、できるだけ破片を多くしていろんなところにばらまいた方がきっとずいぶん楽だし、できるだけ居心地のいい場所も見つかるだろう。少なくとも一つの場所しか知らないよりはずっといい。
そしていい場所が見つかったら、散らばった破片をできるだけ多く集めて、おこしみたいにゆるく固める。そこが違うな、と思ったらまた割ってしまえばいい。
いすに脚が一本しかなかったら簡単に倒れてしまうように、ほかに逃げ場がなかったら強くない心はたやすく崩れてしまうだろう。脚は、つまり気持ちの置き場は、少ないよりは多い方がいい。一本がだめでも、ほかが支えてくれるから。
と、話はねこの、「」(スペース)のことからずいぶんそれてしまったが、スペース(場所)が問題になっていることに変わりはないなどと強引に結びつけたりして。
でも、ねこはアイデンティティについて考えないから、ずいぶんと楽そうで幸せそうだし、時々道で車に向かって行くことがあったとしてもそれは一つの場所にいることでどうしようもなくなったからではなく、ほかの理由があるのだろう。今まで見聞きした中では、まだねこは上下運動しないものを動いているものと認識するまで進化していず、動かないまま進んでくる車は動いていないものと判断している、というのが最もすごい説明だった。
いずれにしても、うちにいる「」(スペース)と、庭にいる「」(スペース)と、普段入らないところに入った「」(スペース)、それどころか同じうちにいる「」(スペース)でも昨日の「」(スペース)と今日の「」(スペース)は、どうやら別の生命体なのだ、不思議でもなんでもなく。
そういえば、子どもの頃、家にいたねこによくせんべいをやっていたが、今となってはやつらがせんべいを好むとはあまり思えない。よし今度やってみよう。
(Phは庭で自由を満喫する今日の昼間の「」(スペース)。BGMは塾にF君が置いていった SHARP MP3 に入っている音源をシャッフルで。といってこれはすべて私の休養中PCから移植したもので、今かかっているのはキャロル・キングの『ナイチンゲール』)