天気のいい日曜日にはふさわしくないけれど、忘れられない話を。
「かなしい物語です」
やつはまず、敵として現れた。
だいたい最初に会った頃がよくない。春の訪れからか、次々と世にいう修行に出かけたか愛すべきねこのやつらの姿が見えなくなり、今日も来なかった、今日も来ないと胸がきりきりいっていた頃なのだ。離れ部屋の玄関脇、集まる常駐外ねこ、パートタイム外ねこどもがキャネットに群がった時、初めて会ったやつはすぐには確認できない、四月に丈を伸ばした草むらに潜んでいた。
灰色のやつの容姿は、一言でいってこわい。小さい頭は草原のネコ科肉食獣のようだし、目つきは何も信じるものはないといった不良のそれのよう、首筋に入った段々はさしずめレッドキングのようだ。それが多くののんきねこどもの隙をついてキャネットにありつくべく、息を潜めて姿勢を低くして、草むらから狙っている。推定年齢はそうだな、10歳はいっていそう。田舎につき自由ねこはよくうろうろしているが、初めて見る顔だ。
大事なねこどもを失いつつあった私は、直観的に、すなわち単純にこう理解した。どこからかこいつが来たからうちのやつらはどこかに行ってしまったのではないか、いや、凶暴なこいつのことだから、のほほん暮らしのうちのねこどもに決定的な傷を負わせてしまったのではないか。
ねこ博愛主義を標榜する私であるが、こいつだけにはキャネットをやるべきではない。そう決めて知った顔たちがカリカリする中、近くで機会をうかがうやつを牽制し続けた。そうでないとあのレッドキング首が、わんわんとキャネットを独占してしまう。のろまなキャサリン・アーンショーなど、いつまでたってもカリカリできない。
と、そんな日々がしばらく続く。大事なやつらは帰って来なかったが、やつは頼みもしないのに玄関側にいる。自由人と呼ばれるもののこっちも無限にフリーなわけではないだけに途中で見張りを断念することもあったから、その間にレッドキングネックで凄味を利かせて平和をむさぼるうちねこどもを追い払ってカリカリしていたのだろう。どうやら、常駐組に参入しようとしていた。
ある夜、車で帰って来ると、いつものほかの常駐組や室内組がどやどや集まって来る中、なぜかやつもみんなといっしょに進み、後ろを振り返りながらにゃあにゃあいっている。それはレッドキングが仲良くしようとしているようで滑稽ではあったが、私もいなくなった大切なやつらの不在を受け容れようとすると同時に、このレッドキングにもそんなに冷たくしないでいいのではという気になっていた。
最初はこのいかついねこが来ると逃げるばかりだった平和ボケ組も、いつの間にやらいっしょにカリカリしても平気なようである。それがやつらの偉いところだ。
そんな日々は、でも一週間もなかったろう。
確か三月三十一日の日曜だった。仕事に行く直前、うちでは伝統的にバラックと呼ばれる物置の方から、まさに怪獣の雄叫びのようなニャーという声が聞こえてくる。行ってみると置いてあった赤い座布団の上で、レッドキングが叫んでいた。どうしたのかわからないが、鼻のあたりが黒ずんで苦しそうだ。
しかし仕事には遅れられない。まあなんかよくわからんけどがんばってくれよと言い残し、ネクタイを締めて出かけた。
帰ってから見に行くとレッドキングは座布団の上で、それまでに見た中でもっとも静かになっている。そんな関係だから私は、やつの寝顔なんて見たことがあるはずがない。
でかいからだでも余計なぜい肉などないそのなきがらを、うちのねこどもの墓場にしている前の道との三本辻に穴を掘って埋めた。けっこう大きいし、長く生きたからだだから、敬意を表して少し深く掘った穴の側には、誰にも注目されなくても足しも引きもしない青をたたえたホトケノザが咲いている。
土をかけながら、ほとんど知らないやつの一生を思う。多分十年くらい百戦錬磨で生きてきて、その終わりの二十日間ほどをこの近くで過ごした。それは映画くらいでしかみたことのない、生まれた土地から遠く離れた縁もゆかりもない赴任地でわけのわからぬまま死んでいく兵士のようなものだろうか。
ちょうど日本で一番きれいな、集団で咲くことで愛される花の下で多くの人々が幸福に酔いしれていた四月の最初。誰にも愛されない小さな花を咲かせるホトケノザの近くで眠ることは、やつにはふさわしいことに思えた。
人間に愛されて生きるねこがいる一方でおそれられるねこもいて、しかもどちらもどうしようもなく美しい。
博愛主義。私はねこについても、そうありたいと願っている。
博愛主義に現実性はないから、いつも敗れるということも十分承知している。それでも決して達されるはずのないことを希求することはねこどもにはできない私たち人間だけの特権なのだから、それがどんなに悲しくても享受するべきではないだろうか。だから博愛の精神を持たない人間を私は信用できない。
はぐれてこの地に流れ着いたレッドキングのような首をした灰色のやつを、ハグレイキングと名づけよう。そして、やつがキャネットを狙っていた時のこわくて美しい獣性と、ほんの少しだけ見せた安心と期待の振り返りにゃあにゃあと、お終いに求めた救いの声をおぼえておこう。
墓碑銘にはこの言葉ども、花はホトケノザを。
(Phはきっとやつもこのアングルから見たことがあるだろうホトケノザで、この先に眠っている。BGMはちょっと棚をみて、やつに獣性が似つかわしいオーティス・レディングでさっきちょうど "I've been loving you" でも、I've been loving you の後に続くのは too short。レディングが死の直前に録音したという "(siitin' on) the dock of the bay をもう一度きこう。watchin' the time...)
なお、レッドキングは
http://pulog1.exblog.jp/71891/
「かなしい物語です」
やつはまず、敵として現れた。
だいたい最初に会った頃がよくない。春の訪れからか、次々と世にいう修行に出かけたか愛すべきねこのやつらの姿が見えなくなり、今日も来なかった、今日も来ないと胸がきりきりいっていた頃なのだ。離れ部屋の玄関脇、集まる常駐外ねこ、パートタイム外ねこどもがキャネットに群がった時、初めて会ったやつはすぐには確認できない、四月に丈を伸ばした草むらに潜んでいた。
灰色のやつの容姿は、一言でいってこわい。小さい頭は草原のネコ科肉食獣のようだし、目つきは何も信じるものはないといった不良のそれのよう、首筋に入った段々はさしずめレッドキングのようだ。それが多くののんきねこどもの隙をついてキャネットにありつくべく、息を潜めて姿勢を低くして、草むらから狙っている。推定年齢はそうだな、10歳はいっていそう。田舎につき自由ねこはよくうろうろしているが、初めて見る顔だ。
大事なねこどもを失いつつあった私は、直観的に、すなわち単純にこう理解した。どこからかこいつが来たからうちのやつらはどこかに行ってしまったのではないか、いや、凶暴なこいつのことだから、のほほん暮らしのうちのねこどもに決定的な傷を負わせてしまったのではないか。
ねこ博愛主義を標榜する私であるが、こいつだけにはキャネットをやるべきではない。そう決めて知った顔たちがカリカリする中、近くで機会をうかがうやつを牽制し続けた。そうでないとあのレッドキング首が、わんわんとキャネットを独占してしまう。のろまなキャサリン・アーンショーなど、いつまでたってもカリカリできない。
と、そんな日々がしばらく続く。大事なやつらは帰って来なかったが、やつは頼みもしないのに玄関側にいる。自由人と呼ばれるもののこっちも無限にフリーなわけではないだけに途中で見張りを断念することもあったから、その間にレッドキングネックで凄味を利かせて平和をむさぼるうちねこどもを追い払ってカリカリしていたのだろう。どうやら、常駐組に参入しようとしていた。
ある夜、車で帰って来ると、いつものほかの常駐組や室内組がどやどや集まって来る中、なぜかやつもみんなといっしょに進み、後ろを振り返りながらにゃあにゃあいっている。それはレッドキングが仲良くしようとしているようで滑稽ではあったが、私もいなくなった大切なやつらの不在を受け容れようとすると同時に、このレッドキングにもそんなに冷たくしないでいいのではという気になっていた。
最初はこのいかついねこが来ると逃げるばかりだった平和ボケ組も、いつの間にやらいっしょにカリカリしても平気なようである。それがやつらの偉いところだ。
そんな日々は、でも一週間もなかったろう。
確か三月三十一日の日曜だった。仕事に行く直前、うちでは伝統的にバラックと呼ばれる物置の方から、まさに怪獣の雄叫びのようなニャーという声が聞こえてくる。行ってみると置いてあった赤い座布団の上で、レッドキングが叫んでいた。どうしたのかわからないが、鼻のあたりが黒ずんで苦しそうだ。
しかし仕事には遅れられない。まあなんかよくわからんけどがんばってくれよと言い残し、ネクタイを締めて出かけた。
帰ってから見に行くとレッドキングは座布団の上で、それまでに見た中でもっとも静かになっている。そんな関係だから私は、やつの寝顔なんて見たことがあるはずがない。
でかいからだでも余計なぜい肉などないそのなきがらを、うちのねこどもの墓場にしている前の道との三本辻に穴を掘って埋めた。けっこう大きいし、長く生きたからだだから、敬意を表して少し深く掘った穴の側には、誰にも注目されなくても足しも引きもしない青をたたえたホトケノザが咲いている。
土をかけながら、ほとんど知らないやつの一生を思う。多分十年くらい百戦錬磨で生きてきて、その終わりの二十日間ほどをこの近くで過ごした。それは映画くらいでしかみたことのない、生まれた土地から遠く離れた縁もゆかりもない赴任地でわけのわからぬまま死んでいく兵士のようなものだろうか。
ちょうど日本で一番きれいな、集団で咲くことで愛される花の下で多くの人々が幸福に酔いしれていた四月の最初。誰にも愛されない小さな花を咲かせるホトケノザの近くで眠ることは、やつにはふさわしいことに思えた。
人間に愛されて生きるねこがいる一方でおそれられるねこもいて、しかもどちらもどうしようもなく美しい。
博愛主義。私はねこについても、そうありたいと願っている。
博愛主義に現実性はないから、いつも敗れるということも十分承知している。それでも決して達されるはずのないことを希求することはねこどもにはできない私たち人間だけの特権なのだから、それがどんなに悲しくても享受するべきではないだろうか。だから博愛の精神を持たない人間を私は信用できない。
はぐれてこの地に流れ着いたレッドキングのような首をした灰色のやつを、ハグレイキングと名づけよう。そして、やつがキャネットを狙っていた時のこわくて美しい獣性と、ほんの少しだけ見せた安心と期待の振り返りにゃあにゃあと、お終いに求めた救いの声をおぼえておこう。
墓碑銘にはこの言葉ども、花はホトケノザを。
(Phはきっとやつもこのアングルから見たことがあるだろうホトケノザで、この先に眠っている。BGMはちょっと棚をみて、やつに獣性が似つかわしいオーティス・レディングでさっきちょうど "I've been loving you" でも、I've been loving you の後に続くのは too short。レディングが死の直前に録音したという "(siitin' on) the dock of the bay をもう一度きこう。watchin' the time...)
なお、レッドキングは
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