風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

休息を許さない社会とひと

2008年08月20日 08時49分13秒 | 医療





目覚めると同時に一筋の涙が頬をつたり枕を濡らす。
幾度もなくため息が漏れる。
なぜ?という疑問が頭の中をぐるぐると巡る。
疲れてしまった。
なにもかもに。
息をすることですら。

私には“約束”というキーワードがあるらしい。
感情が不安定になった理由は、娘の無理解と約束が守られないために起こる感情の起伏、
激しい自責の念にかられたかと思うと、今後はその怒りが他者へ、娘へ向かう。

通院日は友人を自宅には連れてくるなと何度も約束をしている。
が、娘はそれを守ってはくれない。
現に私は歩行困難な状況で2週間を過ごし、
今週は毎日の通院が予定されていると伝えてあった。
病院に付き添う約束をしていたにも関わらず、朝起きると娘はすでに出かけた後だった。
その後、彼氏と一緒に家に戻ってきた。
「自宅で療養しているのを何度も伝えてあるし、前もって私の予定の確認をとること、
大学受験前で優先順位を考えろ」と言った。

「約束の帰宅時間も守らず私から毎回注意を受けてもそれから帰宅するのはよくて1時間後、
私はあんたたちふたりの家政婦でもお手伝いでもない。
なぜ、通院しているのか? なぜ、救急車で運ばれたのか? なぜ、それを考えないのか?
お願いだから、ゆっくりと休息できる環境をつくる協力をしてほしい。
わかってくれなどとは言わない。ただし、休ませて欲しい。
無駄なことで感情を激しく揺さぶらないで。
障害は自分ではどうにもならないこと、ただ、その結果を突きつけられた後、
障害受容できていない私は、戸惑い、そして、発狂しそうになる心境を抑えるのに必死だ」

幾度となく娘の甘さを指摘するが、理解できているとはどうしても思えない。
家族が最大の休息を許さない集団である場合、
私には逃避の道しかすでに考えられなくなってしまっている。
しかも、彼らが容易に連絡できない海外へ・・・・だ。

TVでは、病気についての特集が毎日のように放送されている。
が、実際のところ、この国では病気になった時点で、
社会復帰の受け皿など用意されてはいない。

約束を守らなかった会社を退社した。
約束を守らない交通事故加害者と共謀者たち。
約束を守らない司法関係者。
約束を守らない医師。

約束が軽い時代において、私には約束が呪縛のように今でもそれを信じてしまう。
そして、なんども破られてしまうことで、自分が傷ついていく。
ずたずたに、切り刻んで、ポイとゴミ箱にでも、誰か捨ててくれ。



20年という歳月の介護

2008年08月19日 11時49分34秒 | 医療





ふたりの訪問看護師がお隣へ入って行った。
颯爽として、女からみても格好のいい、素敵な女性ふたりだった。

通りすがりに私が杖をついていることに気付いたようで、
道を譲ってくれた。
私は「ありがとうございます」と挨拶をして、自宅の玄関を開けた。

母は私を産んでからずっと「女とはこうあるべきだ」という妄想をぶつけ続けてきた。
娘としての「私」ではなく「女」として。
赤子の私は、当然のことながら母は母であり、女ではなかった。
だから私は・・・・・といえば「母親とはなんだろう?」という疑問を
常に小脇に抱えた状態で生活し
ライバルのように振舞う母をどんどんと遠ざけていくようになっていった。

この2週間、自力では歩行が困難な状況が続く。
昨日は検査のための通院があったため、どうにか杖をつきながら病院のある新宿へ向かった。
が、やっぱり人の流れにはついていけないせいか、
ゆっくりとしか歩けないものを、油と水の関係のように、混ざり合うことがないのだと痛感した。
何度も人が私にぶつかりそうになる。
でも、表情ひとつかえない。
まるで、ぶつかるような場所にいる私の方が悪いのだと言いたげだ。
人形のように、無機質で、表情がないのはむしろ健康な人たちだ。
私にはそう見えてしまう。
なぜだろう・・・・・・

そんな状態だから、下着も満足に自分で脱ぎ着できない。
で、娘に「悪いんだけど・・・・」と言って、お風呂に入る手助けや下着などの着脱をさせている。
「これって介護みたい」とへらへらとしている娘。
「介護みたい・・・じゃなくて、立派な介護です!!」と私。
「ありゃりゃ、いくつなのさ?」と娘。
「うるせー!!痛いときは痛いんじゃー!!さっさと脱がせろー!!」と私。

闘病4年・・・・・にもかかわらず、元気な印象しかない私に向かって
「写真撮ってもいい?」だと。
「いつか絶対にぶっとばしてやるーーーっ!!」と言われながらも
けらけらと声を出して笑い、
「まいちゃんの介護なら楽しい」とぬかした。
ふざけるな!!と私は毒を吐きながら、頭を洗ってもらい、その後、湯船につかった。

隣のばあちゃんが元気な頃の記憶がすでに失せている。
でも、部屋の中ではちゃんと生きている。
きっと、天井を眺める視線もおぼつかない中で、流動食の味気ない食事、
男しかいない息子たちに下の世話にもなり、さぞかし情けないだろうと思う。

私がふと思い出すのはばあちゃんの言葉なのだが、
元気な頃、裏のじいちゃんが寝たきりになったとき、
「あたしゃ、あんなじーさんの姿をみると反吐がでる」と繰り返し言っていた。
たぶん、私はまだ中学生で、東京大空襲の話を聞いた後、
ばあちゃんは裏のじいちゃんの悪口をいいはじめたのだった。
あたしゃ、あんなじーさんのようにはなりっこないから、と何度も何度も繰り返し言った。

そのばーちゃんが隣のうちで寝たきりになって20年になる。
ばーちゃんの息子4人のうち、ふたりは介護のために会社を早期退職した。
それは結婚していないため、自分たちで介護をしなければならない状況のためだ。
(お嫁さんがやるのが当然だという意味ではありません)

車椅子で散歩ができていたときはまだましだったものの、
それすらできなくなって15年。
でも、ばーちゃんは今日も生きている。
あの日の言葉を悔いているかもしれないし、まだまだ私は死ねないと歯を食いしばって
気丈に振舞っているかもしれない。

甘いものでも差し入れしに行こう。





考えるという趣味

2008年08月19日 11時09分57秒 | 医療





「君がなにを考えているのか頭の中をいつかかち割ってみてみたいと思う」と言われた。
今日でかれこれ10回になる。
しかも、同一人物に・・・・・だ。

その人は還暦を迎えてから3年を経過した元売れっ子編集長だ。
その人が言う。
「僕は物事を考えないという主義で今まで生きてきたから、
君のようにいろいろなことに疑問を持ったり、それを追求したり、探求していく姿勢は
作家のはしくれにでもなったつもりだから、やれていることか?」と。

すこし残念に思った。
いいや、残念ではなく、腹が立って仕方なくなってしまった。
久しぶりにまん丸の月をインドから持ち帰ったオーガンジーのコットンカーテン越しに眺めた。
白檀の香をたき、いつの間にか祖母の口癖“どっこいしょ”と言った。
どっこいしょのあとは起き上がって、ベランダに出るだけだ。
椅子に腰を掛けた。
寝ぼけた状態でとぼとぼと歩いて近づくシエルをそっと持ち上げ、抱きしめて、頬擦りした。
柔らかな風に月色の毛が私をくすぐるように首筋をなぞる。

書けなくなってしまったのではなく、
記憶力が日本語をまでも奪ってしまう結果に過ぎない。
きっと、これは経験した者でなければわからないのだろうが、
脳の伝達物質の異常は、私から記憶や根気やときに感情を波のように
一瞬にさらっていく瞬間がある。

ひとりごとを言っていても誰かに指摘されない限り自覚はない。
約束をしたことも然り、本人はまったく記憶になかったりする。
本を読む際、漢字がまったく読めない。
だから、前へ進むのに躓いてばかりいる。
それを自覚するのは、脳の伝達物質がどうの・・・というよりも前に
どうして自分がこんなにバカなのか?という情けない気持ちの方が一歩前へ出る。
そして、なにをどのように手をつけたらいいのか
今やるべきことにおいては思考が停止するのに、
常になにかを考えずにはいられない衝動に駆られる。
格好よくいえば、世界に無関心でいられない。
だからといって、積極的に偽善を振りまくつもりも、
行動を起こす体力も資金もないわけなのだが。

「考えるってそんなに馬鹿げたことに映りますか?」
すこしおどけてみせた。
「今の私のままでは作家になどなれっこないですよ。
なんの所為にもしません。言い訳もしません。
力がないというだけのことです。
でも、考えることはやめるつもりはないですし、趣味みたいなものですね」
わざとおどけてみせたのは、わかり難い私の優しさのつもりだったが、
「特殊な人間にしかみえない・・・・・」
と言われたとき、がくんと肩の力が落ちた。

優しさという積み木が、砂の城が、完成したジグソーパズルが、
跡形もなく消去してしまったときのように。

医療とかかわってしまった現在、
自分の権利を主張するだけでは物事がぐちゃぐちゃとなるだけだと学んだのだ。
医師も本当に過酷な労働下で「命」という有限を取り扱うにあたり、
なにかあれば(故意ではない結果でも)訴訟を起こされてしまえば
患者が恐怖にしかみえてはこないだろう。

患者も同様だ。
なにをされ、なにを見逃され、なにをどのように取り扱われるのかを考えない限り、
医師には当然のごとく、不信を抱く。
そして、それが双方が血だらけになる序章となり、
小さな“戦争”がはじまってしまう。

どうか私から“考えるという趣味”を奪わないでください。







存在の底

2008年08月17日 09時06分31秒 | 医療




東京は雷とバケツをひっくり返したような豪雨、
しばしそれが続いた後はけろっとして青空が広がる。
豪雨の中を娘と買い物にでかけ、子供のようにわざと水溜りに入り、
ばしゃばしゃと足を濡らした。

裸でマラソンしている人もいれば、
突然の雨、シャワーを浴びるように早足の人もいる。
でも傍目にはそれが気持ちよさそうにみえる。
空が怒っているのか、それとも恵みの雨か?
私たち親子にとっては後者だろう。
だって、子供にかえったようにきゃっきゃと声をあげて、はしゃいで、楽しんでいたのだから。

さて、明日は検査だ。
造影剤でショック症状を起こした後だから、正直、単純撮影MRIだとしても、
あの窮屈な空間で気力が持つのか・・・・自分でもわからない。

医師は紹介元の大学病院から「疑い・・・」という文言だけで、
すぐさま治療のための入院が4ヶ月先、費用の説明をしてきた。
私はといえば「ちょっと待ってください」とその治療への流れを遮って、
「完治した人を知らないし、リスクの高い治療はもとより検査もしません」と伝え、
リスクのない検査のみ行うことになった。

この医師はある程度の症例数を持っている。
だから、治療後の悪化なども口にはしないまでも、知らないはずがない。
まして、正直な人だから“医療が放置した私の予後や今後”を予想できるだろう。
きっと、治療時間ではままならないはずだから、面談でも申し入れ、意見交換をしたいと思う。

さて、4年にわたる検査漬けの日々。
不調を目前にしても所見がでないかぎり「ないもの」になってしまう怖さを学んだ。
そして、検査すらリスクが伴うことを身をもって知った今、
明日の検査は気が重いが、
検査後に新宿にあるタイ料理と花男(ちなみに花より男子の略・映画)でも再度観るから
頑張れと自分を誤魔化して、言い聞かせ、楽しみをみつけないとやりきれないような気がした。

とはいえ、よく頑張ってきた。
休息が最大の治療だと言われながらも、自宅療養で、大学受験前の娘と受験先を絞り、
作戦を立て、勉強をみる。
掃除も食事も誰かがつくってくれるわけではなく、
同居する両親ですら、病状の重篤さに気付かず月日だけが流れた。

悲観することはなにもないし、自分の体調との付き合い方や長い長い夏休みのような時間を
有意義に過ごしながら、
いろいろあったけど・・・・と笑っている自分が浮ぶ。
やっぱり私はしぶといらしい(笑


 

 


闇の子供たち

2008年08月07日 10時51分18秒 | 医療





これは、事実か、真実か、現実か
(パンフレットのコピーより)


広島に原爆が投下された日、私は娘と渋谷にある映画館(シネマライズ)へ向かった。
世界を知るために、現実を、私が海外で浴びせられてきた質問、
“日本人のあなたは日本人が行っている現実を知っているの?”と
再度、向き合うためでもあった。


原作、梁 石日(闇の子供たち 幻冬舎文庫)
監督、阪本 順治
出演、江口 洋介、宮崎あおい、妻夫木 聡、豊原 功補、鈴木 砂羽、佐藤 浩市 他
音楽、岩代 太郎 ・ 主題歌 桑田 圭祐
http://www.yami-kodomo.jp/


幼児売春宿、臓器密売の“闇”がテーマとなっている作品だ。
“値札のついた命”
生きたままって知っていましたか?
臓器を提供する子供です・・・・・・
http://www.yami-kodomo.jp/


21歳になったばかりの私は、当時まだビザの必要な韓国へ行った。
理由は戸籍の取り扱いについて、この国のシステムを知るためだった。
が、機内には男性客がほとんどで、女性は・・・といえば、数人、おそらく片手で足りただろう。

同行していた方は在日韓国人男性であったので、その異様な光景について、
“現実をみる覚悟があるなら案内する”として、男性客が韓国へ向かう理由を、現実を
衝撃的に目の当たりに突き付けてきたのだった。
現実をみろ、と言って。

セックス産業、つまり、カラオケと看板の書かれた店内で行われていたのは、
ストリップなど生易しい、公開セックスとでもいうのだろうか。
私は店外へ出て、食べたものがなくなるまで吐き、最後は胃液の苦味が口中に広がった。

その後、フィリピンへ。
性産業はもっと過激になっていた。
つまりどのようなことかと言うと、私がそのときに目にした子供の最低年齢は10歳の少女、
スラム街へ行けば父親が日本人だという子供を容易に目にすることができた。
もちろん、父親がわかっている子供もいる場合もあるが、養育しているはずはなかった。
なぜならば、日本には家族がいる。
責任など負うはずがないだろう。
(もちろん、日本人側が被害を受けている場合もあることは存じていますので
すべてではないことをどうかご了承ください)

宗教上の理由で、堕胎せず子供を産んでいる。
(堕胎を推奨するものではありません)
相手にする客を目撃できたので、その日本人は70歳近い人もいた。
またしても私は吐いた。
そして、日本人なのになぜフィリピンで起こっていることを知らないの?と叱咤された。

タイやカンボジアでも同じだった。
高級ホテルに泊まる外国人の客室から、
午前5時、朝食のビュッフェを楽しみにする客と鉢合わせしない時間帯に少女たちは帰宅する。

去年の9月に療養のために滞在したバンコクでは、
同行者たちの一部が買春目的だったようで、
夕食を共にするたびに、その話題で男たちは盛り上がっていた。
しかも高級ホテルやレストラン、
食事がすすむはずもなく、
私は周囲にいる日本人ビジネスマンたちの冷めた、軽蔑した視線にただ言葉もなく、
深々と頭をさげるのが精一杯だった。

その後、タイやインドでは臓器移植について尋ねられることが多かった。
尋ねられる・・・というよりも、あなたは知っているの?と厳しい言葉を浴びせられた。
それは“臓器提供者が生きたまま”であることだ。

“金持ちの国のやることは違うな。臓器まで買いにくるのか!”と
同じ日本人だということで、私が責められた。

私は金持ちでもなければ、日本は金持ちでもないと説明しても
高額な臓器を買える客は、日本人と欧米人が圧倒的なのだそうだ。


私は臓器移植についての賛否は正直持ち合わせていません。
それは、当事者でないので、わからないしか言えないからです。

大切な人、自分、家族の命を助けたいとは誰しもが思うでしょう。
それがお金でどうにかできるのであれば、工面し、最善の方法をと考えるのは自然です。
が、私たち日本人はそこに臓器売買が絡み、
助かりたいと藁をも縋る思いの人たちに忍び寄る魔の手を考えたことがあるでしょうか?

死んだ子供、人間の臓器を提供していると思うのはあまりにも性善説過ぎます。
ここには貧困という悪循環が関与し、
安い労働力で安く物を消費する私たちの生活全般に、
彼らの存在を垣間見ることができるのです。
冷静にニュースを見ていれば、
そうしたことが今後、日本でも多発することは予測できるでしょう。
現に安い賃金で外国人労働者は日本で従事しています。


私は作家でもジャーナリストでもありません。
見たことをそのまま湾曲せず、書いているに過ぎません。
なぜかわかりません。
が、20カ国の渡航先でみてきたものは、“人間の光と影の両面”、
その表裏一体である“現実”でした。

私は批判などするつもりは毛頭ありません。
が、それが人間なのでしょう。
私たちが生きている世界なのでしょう。

そして、自分のできることをこつこつと積み重ねていく。
それを再認識させられた映画でした。


ぜひ、劇場へ。
http://www.yami-kodomo.jp/




ある疾患と治療とリスク

2008年08月06日 07時13分36秒 | 医療




さらりと。
それはせせらぎのように、思わず「はい」と返答しそうになるほど、さらりとだった。

ある疾患における検査や治療について、
私が薬漬けになっていないことや一度も治療を行わずに
体力の底上げを実現できた成功を祝して、
“検査や治療後の変化について、大変に興味を持ちます”と言われた。

医師なら当然だろう。
しかも、この疾患について医学会で口演を行っている医師だ。

私も言った。
“私自身も医学的見地では非常に関心深いですし、どのような変化が顕著にあわられるか
知りたいと思っています”と。
“でも・・・・”と続けた。

“腰椎穿刺(硬膜外硬に注射針を刺す)を必要とする検査では、
針の太さは医療機関によって相違する。
成功率は高いといいながらも、失敗は20%~30%存在し、
その患者はその後、治療をするしか方法がないようですが、悪循環に迷い込む、
よくなっている人を知らないという意味では、
私は医学会で発表された内容と対峙する立場です”

医師は“確かによくなっていると言う背景には、僕たちは入院中しか診ていない”と言った。
“それでしか判断できないし、患者さんにもいろいろな人がいるから、
なんども治療(手術)を希望する人もいれば、通院しなくなる人もいる。
だから、把握しきれていないのが残念ながら現状です・・・・・”

正直な医師だと思った。
そして、ある大学病院の著名な教授からの紹介とはいえ、口演を聞いていたとはいえ、
真正面から向き合い、私にとって“なにがリスクないか”をふたりで考えていた。

発生率0.1%という造影剤による重い副作用に見舞われた私だ。
そして、もうあの重篤な疾患の症状に戻ることは死を意味すると同じだ。
完治を目指さず、この心身との付き合い方がわかった今、
制限がありながらも昨日よりは今日、確実に軽快している。

長期的視野で物事をみなければならず、約束なども即答を避けなければならないが、
心身の声にまず耳を傾けることは、決して私にとって苦ではなくなっている。

検査や治療や失敗した患者はどのように取り扱っているのですか?と最後の質問に宛てた。
同意書にも書いてあるとおり、その可能性、
つまり、合併症を引き起こす確率や再度、この手術とは違う処置が必要になる場合があるなど
この病院は私が知っている限りの情報を文書として提示し、患者に渡し、
説明している上での手術だと。

そこまで説明され、決断を下すのは患者自身になる。
リスクについてもわかるまで説明をするという。
その後、同意書を書く以上は「やる」「やらない」の判断は、患者自身が下したに等しい。

余談だが、脳血流を活性化させるために、
竹ふみのような足裏のつぼに強い刺激を与える自然素材のものを使っている。
20分程度/1日2回~3回を繰り返しているが、
それだけで頚椎痛や頭痛は激減した。
脚のむくみも軽快する。
別の主治医は興味深いと言って、せっせとカルテに書き、
他患者に参考事項として伝えてみよう、と笑った。

考える力が試される。
私が医療に関わる上で、それを痛感させられた。
自分を護るために、考えることを。




医師の激務

2008年08月01日 20時45分09秒 | 医療




医師4人に1人が36時間以上連続勤務
8月1日17時11分配信 
医療介護CBニュース


 地域の中核病院に勤務する医師の4人に1人が36時間以上の連続勤務を行い、
今の仕事について半数近くが「忙し過ぎる」と感じていることが、
現役医師らでつくるNPO法人(特定非営利活動法人)「医療制度研究会」
(理事長・中澤堅次済生会宇都宮病院院長)がまとめた「医師の勤務状況調査」で分かった。

 調査には、関東、東北地方の救急指定、研修指定などの
17病院に勤務する489人の医師が協力した。

 過去1週間で最も長かった連続勤務時間については、「36時間以上」が25%、
「30時間以上36時間未満」が26%と、
過半数の医師が30時間以上の連続勤務をこなしていた。
しかし、連続勤務の代休を「取れる」はわずか4%にとどまった。

 一週間の労働時間でも、「70時間以上」が26%、「60時間以上70時間未満」が28%などと、
過半数の医師が長時間勤務をしていることが明らかになった。
週休については、「取れない」が29%に上った。

 こうした勤務実態の中、仕事が「忙し過ぎる」が46%と半数近くに達し、
「限界に近い」も14%あった。

 自由意見では、▽「忙しい仕事の中で、手術件数は増やせ、
医療事故は起こすなには無理がある」
「年々、仕事がきつくなっており、せめて当直明けはゆっくり休みたい。
現在の当直は、夜間勤務に近い」
「仕事には誇りを持っているが、今の生活が続くと、
自分の体が壊れてしまうのではないかと心配」
「心臓外科を2人でやっており、定例の手術に緊急手術が加わると、
週の平均勤務時間が80時間を超えることもある。
2人で行う仕事量としては限界」-など、労働実態の改善を求める声が相次いだ。

 国に対しては、「医療費抑制のみにとらわれず、本当に必要な医療の需要と供給の均等化、
適切な人材、診療報酬の確保に努め、
そのために予算配分をしてほしい」という要望が寄せられた。

 同研究会では、
「医療現場の過剰な忙しさは、サービスの低下につながり、
患者への“危害”になる可能性があることを考えなければならない。

現場の考えが、なぜ政策に反映されないのか。
患者に対する医師の責任として真剣に考えよう」と呼び掛けている。


※すべてニュース記事からの引用



医療不信払拭への第一歩

2008年08月01日 09時41分11秒 | 医療





まず私が医療を必要としている理由は、
交通事故処理のため、不調を証明しなければ“詐病”で片付けられてしまう結果を
なんども突きつけられてきたためだ。

ある医師からは“俺に任せておけ!!”といいながら危険な麻酔治療を行い、
膨大な金額を儲けた人もいる。
また別の医師は“医療依存するな””医療の限界だ”として、私を叱咤した。

先にも記したように、昨日お会いした某大学病院の医師でもある教授は
私を他院に紹介しながらも、
同時に自分も責任をもって最後まで診るという意思表示をしてくれた。
診断に納得がいかない患者が起こす事件も多い昨今、
診察室には医師しかいない。
私はその勇気、腹の据わり方をみせられ、この医師となら二人三脚ができると確信した。

他院への紹介状もオープンだ。
通常は封印をして患者には内容をみせない場合が多い。
というか、それが当たり前だ。

が、内容を確認して、紹介先の医師も評判がいいし腕もいい。
その後の結果はこちらにも連絡が入るだろうけど、自分自身でも知りたいだろう。
だから、なにひとつ隠す必要がないと僕も思っているから、
なにを書き、どのような紹介をしたのかを僕も君にはみせられる、と言った。

すごい自信だ。
と共に苦労人であるこの医師の軌跡を考えざるを得なかった。
私はひとえにこの医師の下では医療不信のままでは終わりたくない、と考えていた。
だから、結果的に責任者である教授に迷惑がかかることに心を痛めながらも
食い下がらずにきた経過がある。

なぜ、同じ画像を診て、診断が相違するのだろう?
なぜ、わからない・・・としても、患者を突き放す医師もいれば、
患者を護ろうとする医師の存在もある。

その相違は“人間性”でしか語ることができない。
私は今回の出来事を通して、その“人間性”について考えさせられ、
学習し、医療不信を払拭できる第一歩という機会を与えてもらえた。

病気とは、なにも急性期のものばかりではなく、慢性的な疾患の方が果てしなく多い。
それは直接命の長短に関わらなくても、生活の質や日常生活を送る上では
非常に障害となり、困難を強いられ、困窮する。
その現実を知り、寄り添える医師しか、患者を診る資格はないのだろう。

対立ではなく共存を。
医師も過酷な状況下で激務をこなしているのは忘れてはならない。
そうした現実を私たちが知ることも、今後、必要であり、
また医師を理解する上では患者として最低限求めてもいい、必須事項なのではないだろうか。

余談だが、診察時間に30分も費やしてくれた教授、
その姿勢に心を打たれ、診察後、トイレに駆け込み涙した。
ひとつ間違えれば、私はクレーマーで片付けられていた患者だからだ。



深謝

 

 


某大学病院、最高責任者である教授との面談

2008年07月31日 08時59分07秒 | 医療






医療不信の決定打になったのは、伝統ある某大学病院から追い出されたときだ。
車椅子でしか移動できず、呼吸もままならない私を目前にした医師は
“わからない・・・”と言った後、自分を援護する言い訳だけを述べ、
私を追い出すために車椅子を手際よく診察室から廊下へ運んだ。

もちろんのこと、発作を起こしていた私は、その大学病院の救急外来に運ばれた。
突発的なものとはいえ、医師はこの状況をすでに診察室内で確認している。
そして、唯一の救いは、その状況をカルテに記載してあったため、
若い医師たちはいくつかの考えられる症状の中から、適切な判断を下し、処置を行った。

今日のこの日を迎えるにあたり、正直複雑な心境であることは言うまでもない。
どちらに落ち度がある・・・という議論ではなく、教授が直々に院内紹介した医師の不祥事を
やり過ごすことなく、患者である私が面会に出向くというのだから。

私にとって乗り越えなければならないことでもある。
今後、医療について書く場合も従事する場合も、この出来事が自信となり、
医療者にとっても患者にとっても有意義な経験となると信じる所以がそこにはあるからだ。

教授付きの秘書の女性が優秀であり、
冷静な判断をもって今回の面談を取り持ってくださったのだが
通常は有り得ないであろう。
まず、その御礼と最終的によくしてくださった教授が責任者だということで迷惑をかけた謝罪、
若い医師たちの素晴らしい仕事ぶりに感謝を伝え、
今後について私見をぶつかわせたいと思う。

予約から10ヶ月、初診から8ヶ月が過ぎた。
検査後、発作を起こすようになって5ヶ月、
ようやくこの日を迎える心境は言葉では表現できない。

医療は医療者にとっても患者にとっても“優しいもの”でなければ刃だけがメスのように
肉に食い込んで離れない。



“脳脊髄液減少症”という診断がついた後

2008年07月25日 10時45分12秒 | 医療





まず以下に記載する内容は私個人の体験のため、
すべての人にとって有効であるかは不明だ。
が、自分自身の記録目的として、この疾患名がついてしまった患者さんたちにとっても
多少の参考になれば・・・と願い公表することにした。
賛否があることは承知の上、
その辺はご理解いただきながら各自冷静な判断をいただきたく思う。


交通事故処理中であるため、事故日時、受診病院などの詳細は未記述とする。




交通事故に遭った後、診断は「左腕の脱力」「頚椎捻挫」の診断、全治2週間とされた。
が、救急搬送された病院ではMRI画像は撮影せず、安静にしていれば治るでしょう、と
それよりもまず待ち時間の多いERではなく、徒歩で行ける通院先をみつけた方がいいと
アドバイスを受けた。

が、そもそもそれが間違いの第一歩だった。
頚椎捻挫=むちうち症といわれるものは、実際のところ、研究などされてはいない。
衝突事故後に頚椎が痛む場合は、すべてがこの病名が付き、
安静にしていれば治る、とされる。

でも実際は難治性となる患者の存在を知ったのは、事故から数年も経ち、
自分自身がその「難治」となってからのことだった。
交通事故後にも関わらず、当時30代の私に対して「加齢のため」とした医師もあったし
「性格異常者だから治らないのだ」と言い切った医師もいる。

地域では比較的大きな個人医院である整形外科では「脳脊髄減少症」であろうと言いながらも
「バ・レリュー症候群」であるかもしれないとのこと、星状神経ブロック注射、
つまり、喉脇から5cm程深い場所に麻酔を打つ方法なのだが、
神経に直撃すると、気絶する。

が、当然のことながら入院施設はなく、注射後30分は安静、
その後はどのような状態でも病院から放り出されるを35回繰り返された。
その間の、初診時以外、診察室での診断は一切なく、
診断を申し入れても「よくなっているだろう?」と一喝、
聞き入れられることは皆無だった。

その後、脳外科へ受診、主治医となった若い医師は以前、勤務していた病院で
「脳脊髄減少症」の積極的診断、治療を行う医師の下にいた。
が、私にその治療を勧めない理由として「快復した者を知らない」ことをあげていた。

現に私もその診断が付いた相当数の方々と連絡を取った時期があるが、
私自身と酷似する症状ではあっても、
治療を行う前と後では不定愁訴の症状すら変化していた。
その詳細は残念ながらここでは記載できない。

結論として、私は食事療法、これは体力維持を目的とし、治癒力を高めるために行った。
また、症状が強いために、水分摂取指示(当時は6L/日)のかわりに
通院での点滴治療を毎日、日曜日も祝日も関係なく行えるように医師に頼み実現した。

どんなに痛みがあっても症状が強く出ても、若い医師は「投薬に自信がない」を理由に
交通事故後、3年間は一切の処方がなかったに等しい。
が、そのかわり、自分の心身がどのような状態で増悪し、
どのような状態で快復していくのかを観察することができた。
要は自分の心身をつかった人体実験さながら自己責任というならそこまで徹底しようと決め、
その詳細を経過観察時に医師にも伝えた。

嚥下障害(水分すら飲み込めない)が出現するようになり、
記憶低下が著しい状態になったとき、わずか一週間で体重は8kg減、
現在まで12kg減、それはいくら点滴を行っても頻脈がひどかったため、
体重増にはつながらない。

そして、最低130回/分ある脈が何ヶ月も続く中で、どんどんと体力だけが奪われていった。
が、主治医から院内紹介を受けた医師は「正常範囲内」だと診断し、
結果、“医療依存するな”と叱咤した。
依存はしていないと反論すると、“医療の限界だ”と締めくくり、病院から出されてしまった。
(実際、その病院は他問題があった)

投薬に自信がないので精神科の、投薬に精通した医師に相談するように・・・と
元主治医からは言われた。
が、紹介はない。
重篤な症状を抱えた私が、ゼロから病院を探すことは拷問に近い。

その状況を見かねた盟友から知恵を授かり救済されるのだが、
現在も私が唯一、認めている主治医の診察方法は、
ドクターショッピングをせざるを得なかった私がみてきた他医師とはすべてが異なっている。

どのようなことかといえば、薬の相性は体質などによって人それぞれ相違する。
そうした視点を持っていることで、症状が多少でも変化すると、即座に投薬を変える。
また相性の悪い薬を処方し続けるということは一切しない。
そのような姿勢によって、
私は一時、悪化した(しかも造影剤MRI検査によって)体調が
数ヶ月の間で底上げを実現できた。

また“完治を目的とせず、症状を悪化させず、
現状維持であれば御の字です”という意向を深く共感してくださり、今日に至る。

同盟なのだ。
名付けて“治療同盟”だ。
医師は研究はしている。
患者の入手できない情報も手中にある。

が、実際に症状を体験・経験していないために、
私見が入りやすいという難点を抱えている。
それは「絶対に有り得ない」と断言するような医師の下では、
患者は見殺しにされるも同然だ。
そう考えると医療は残酷な世界だと、私はこの数年の出来事を振り返る。

口からものを入れる。
食べられることは、体力向上に直結する。
口からものを入れられなくなってしまった時期は、
歩くことはもとより、話すことも困難になった。
それは鬱とは相違し、体力と気力が連動しているのだと知る機会となった。

脳脊髄液減少症と診断がついた時期がある。
私は脳萎縮は年齢に比例しない状況らしいが、
正常範囲内として片付けられてしまった。
それは他検査、腰椎穿刺もシンチグラフィーも研究段階である自血注入法(EBP)も
医師からは危険だと助言を受けてきた背景があり、
私も現状維持できるのであれば、あの重篤な状況に再度、
期間限定だとしても陥ることに耐えられるのだろうか?と
自信がないことも理由のひとつである。

ある文献を読むと、どれだけ患者に強いられる負担が多いかを医師の視点で語られている。
某医学学会にも出席した私だが、その席上ではずさんとしかいえない症例が述べられ、
当然のことながら反論は正論として質問にあてられた。

極端な疾患名となってしまった。
実際に私も病院を追い出された経験を持つ。
しかも、造影剤MRI検査でパニック障害を起こしたわけだが、
パニックという知識が私にも医師にもなかったがために「わからない」で済まされてしまった。
その後、2ヶ月近く歩行困難となり、パニックのために外出はもとより、
家族とも顔をあわせるのが辛く、性格も“自分でありながら自分ではない”となった。
その自覚ができてしまう苦悩は、おそらく経験した者でなければ理解できないだろう。
(実際、経験者同士でも、理解し合えるのかというと困難だろう、と自分をみていて感じる)

悪循環の中に突き落とされてしまう。
脳脊髄減少症の疑いがあり、治療を目的としていない、と伝え、
受け入れを表明してくれた病院ですら
医師によって「脳脊髄液が漏洩するなど有り得ない」と拒絶する者は少なくはない。
それはその病名が誤診であるなしにかかわらず、
目前にいる患者を診ていない。
それが現医療の問題点であり、患者自身も試行錯誤をして、
他病名であるかもしれないと疑うことが、最終的に自分を救済することに結びつく。

私自身、藁をも縋る思いであったし、症状も重篤であったことも事実だ。
海外の医療機関まで受診範囲に入れ、実際に数箇所の病院とは連絡を取っていた。
が、日本の医療が変わりつつあると、今は実感している。
と同時に、患者自身の医療への姿勢が、医療を動かす原動力となる。

追記として、それは決して数ではない。
個人の思いが医療を、医師を動かしていく。
その繰り返しなのだろう。

※まず、元主治医であるドクターの正直さに感謝したい。
 「投薬に自信がない」「治療を行った予後の問題点」については非常に参考になった。

※医療過誤、医療事故など問題を抱えた方々に対しては
  以上ではないことは承知しています。
  また、私自身も交通事故に遭うことで医療と向き合わざるを得ない状況に陥り、
  時間をかけるという視点で快復を目指すまでは、近道を考え、
  社会(仕事)からの孤立からどのように避けられるのかが主であり、
  本当の意味で療養環境に現日本がないことを痛感させられました。

  これは公表しておりますが、私自身の記録であることをどうかご理解ください。