気づかいは裏切られ、
社交は続かず、
感情労働は挫折する。
そんな破綻の先で、
人はようやく
他者と出会えるのかもしれない―
「見えないものと見えるもの」
著者 石川 准 (医学書院)
http://fuji.u-shizuoka-ken.ac.jp/~ishikawa/mienaimieru.htm
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障害学という学問に出会ったのは、東大の福島先生の影響があったからだ。
福島先生の優しさに触れたときに、障害についての概念がとてつもなく変化した。
どのようなことかといえば、通常、社会で言われる障害者とは、精神・身体を指すわけだけれども、
私が交通事故受傷によって障害者のレッテルを貼られた後に感じてきたことは、
健常者側が気づいていない、健常者自身の障害の存在だった。
つまり、心が捻じ曲がっているというのか、なにしろ荒んで、醜く、見ていて気の毒で仕方なかった。
追記すれば、障害者を生み、障害者から金を巻き上げている輩もいるわけで
(これは社会的地位のある職業に就いている方々のことで、決してやくざなど特別な世界の話ではない)
そうした現実を当事者として関与してくると、もういい加減にしてくれ・・・というのが私の本音になった。
他者と出会える。
もしかしたら、本気で他者と向き合えるのかもしれないと私も思ってきた。
障害を持ったことで見えなかった世界や人間の本質のような部分が浮き彫りになって(本人含む)
私自身は世の中を見る目も自身の人生観までもが、今までのそれとは相違してきた月日があって、
そこでしか成立しない奥深い人間関係に支えられて、今まで生きてきたように振りかえる。
恋人との出会いも、現在継続する関係性においても同様で、
他者ともう二度とこのような付き合い方はできないと思うような、
愛情や優しさに護られている安心感があるからこそ、いろいろな人とも会えるし、
面倒な交通事故処理にも対応できるのだと理解している。
障害って本当はなんなのだろう・・・とよく考える。
障害があっても幸せな人もいれば、障害がなくても不幸な人もいる。
たぶん、答えなんて、その程度のシンプルなものなのだろう、きっと。