過去の展覧会を図録で振り返る企画の第6弾。
今回は
細川幽斎展
熊本県立美術館
開催年:2010年
細川幽斎は戦国時代を生き抜いた武将として、更に和歌・連歌に茶の湯などに長けた文化人としても有名で、特に「古今伝授」の継承者として特別な存在。
展示でも文化人・幽斎の面を強調していたのだが、その頃の私は幽斎の甲冑(紅糸威腹巻)や刀剣(古今伝授行平)に興味があり、それらの展示は疎かになっていた印象。
注目の展示は
明智光秀覚条々
(天正十年)六月九日付、細川藤孝・忠興父子に宛てたもの。
本能寺の変のわずか7日後に出されたもので、当初細川父子が味方してくれなかった事に腹を立てたが、思い直したので今後味方してくれる事を願うとし、味方してくれたら丹後の他に摂津、更に若狭を与える。
我等の行為は忠興などを取り立てる為で、情勢が安定したら、十五郎(光秀子息)や与一郎(忠興)の世代に支配を任せる。決して他意はない、とある。
光秀の焦りばかりが目に付く内容だ。
源語秘訣
一条兼良が著した「源氏物語」の注釈書(秘伝書)。
奥書によれば、当本は三条西実隆の自筆本で、孫の実枝が所持していたものを細川藤孝が無理を言って書写したとある。
「天正十年八月五日 兵部侍郎藤孝(花押)」とあり本能寺の変よりわずか二か月後の年紀が記されており、未だ身辺落ち着かぬ中、これを書写した藤孝の心中ははかり難い。
また天正十年(1582)には三条西実枝は既に死去(天正七年没)しており、奥書の年紀とのタイムラグが気になるところ。
島津龍伯古今伝授誓状写
天正十六年八月十六日付、薩摩太守・島津義久(龍伯)が細川幽斎に対し「古今伝授」を請うた誓状(の写し)。すでに島津義久は近衛前久より「古今伝授」を受けており、今回の伝授は義久の疑問とする箇所に限られていた。
この誓状を提出した11日後に義久は石田三成と幽斎に対し血判起請文を提出している。
豊臣秀吉への忠誠と三成・幽斎の取次としての活動に感謝し、今後も同様の殊遇あるべきことを乞うている。
前年、秀吉の九州攻めの後に降伏した義久は、その後上洛し次第に豊臣政権に組み込まれていく。その中で島津担当として幽斎の活動の一端を表している。
新古今集聞書
東常縁の著した「古今和歌集」の注釈本。それを文禄四年(1595)六月に幽斎が書写したとの奥書がある。さらに黒田如水が和歌の道に執心していることに感じて、本書を献上するという、慶長二年二月の書き込みがある。
この時如水は朝鮮出兵をひかえており、二月二十八日には如水の為に幽斎邸で連歌会が催されている事から、朝鮮出兵に対する幽斎より如水への餞別として贈られた事が分かる。
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