宇野信夫作
六代目三遊亭円生の噺、「小判一両」(こばんいちりょう)によると。
今戸の八幡様境内に茶店があって、そこにザルや味噌こしを商う安七(やすしち)が昼時弁当を使うので寄っていた。
今日も女将から、小金を残しているのでしょうと冷やかされていた。
冷やかされるようになれば一人前と親父によく言われました。
女房子供も居たが、子供は5歳の時に亡くし、追うように女房も亡くなり、ヤケになって博打、喧嘩をやり自由気ままにしていた。
名前の安七より賭場では半目が好きでグニ安と呼ばれていた。
親父が亡くなると聞いて、枕元に行くと「もう堅気になってくれ、これは一生掛かって貯めた金だ」と言って、布団の下から小判一枚を出した。
それで生まれ変わって働くようになった。
と、女将に述懐。
女将は用が有るからと店番を頼んで出掛けた。
まだ年端も行かない子供が凧を抱えて自分の物だと言い張っている隣で、凧屋が落とした凧だからけぇせと怒鳴っている。
その仲人としてざる屋の安七が凧屋に嘆願して、子供にくれてやってくれと言うが、凧屋は頑として受け付けない。
称福寺裏の長屋に住んでいるから、親に談じ込むんだと鼻息が荒い。
商売物をくれてやっていたら切りが無い。
どんなに頼んでもイヤだと言う。
買ってあげたいが、今日の商いは一つも無いからお金が無い、ザルと交換しようと言っても納まらない。
子供も納得しない。
買ってやるよ。
小銭が無いんだ。親父からもらった、1両出すからお釣りを出せ。
お釣りは無い。
出せ、出せないの繰り返しをしていると、女将が帰ってきて立て替えてくれた。
釣りはいらないと、顔面を殴って、喧嘩になった。
そこに浪人風の男が現れ、みんなに謝り、ざる屋とお茶を飲みながら、「私はそこの称福寺裏の弐兵衛店(だな)という長屋に住む小森孫一という浪人者です」。
「鳥越に住んでいる安七というざる屋です」、
「越後の高田から浪人として出てきましたが、妻は病で亡くし、私も病気がちで1年もすると手元も使い果たし、落ちぶれました」、
「お侍様は二度の主取りはしないからでしょ」、
「そうです」、
「貴方が悪いのでは無く、浪人させる世の中が悪いのだ。やな世の中だ」。
早く家に帰って、凧揚げをしようと子供がせがむので、先程の小判を子供に握らせた。
浪人は狼狽したが鳥居の脇から侍が出てきたので、顔を伏せるようにして引き下がって行った。
今の経緯(いきさつ)を鳥居の影で見ていた身なりの良い侍が、ざる屋を今戸橋の慶応寺を過ぎたあたりで呼び止め(右図;呼び止められた安七。
辻斬りと間違えて)、料亭・金波楼に案内し酒肴をご馳走して先程の行いを褒めた。
しかし、ざる屋は試し切りのつもりだろうと腹の中をうかがっていたが、それが目的で無いと分かるとホッとし(右図下;緊張が解けて)、酒の旨さも堪能した。
凧屋との一件を見ていて感服したと浅尾信三郎、人の世の美しさを見せてもらったと、金子を出したが受け取らなかった。
気持ちよく飲んでいたが、ざる屋が突然言うには、「酒は旨くない。貴方はでくのぼうだ。酒をご馳走するぐらいなら、浪人の生き方を一言褒めてあげないのか」、
「人の心は、侍同士だとなおのこと、遠慮しなくては成らないことが有る」、
「そんな人情の無い人と飲むのはイヤだ。もう帰る」、
「まて、わしが悪かった。謝る」、
「じゃ~、一緒に称福寺裏の小森孫一の所に行きましょう」。
長屋に入ると入口に「手習い指南所」の看板が掛かっていた。
入口が開かないので強く叩くと戸が外れ、仏壇に灯明が着いている。
おかしいと慌てて覗き込むと孫一は割腹して果てていた。
枕元に手紙と小判一両が置いてあった。
手紙を黙読すると浅尾は落涙している。
分かるように安七に話をするには、「大家さんに部屋を汚して申し訳ない。麻布古川町の縁者のところに子供を預けて欲しい。
浪人をしていて子供一人養えず、行きずりの他人から恵みの金子をいただき、我が身のふがいなさを見た」、
「行きずりの他人て言うのはこのざる屋の俺か。
恵んだのでは無い、あれは親父の形見の小判だ」、
「親切が仇になった」、
子供は親にしがみついて泣いている。
「こんな分からないことが有るか。坊や泣かないでくれ、考えているので静かにしてくれ。頭の中がこんがらがっている」、
「安七、良く聞け。およそ生ける者は、自負を持っている。橋の上の乞食、道ばたの物乞いでも、他人が見るほどさもしいとも哀れだとも思っていない。浪人は自負も望みも持っていたが、今日我が子の行い、見ず知らずの者に恵みをもらい、我が身を振り返った。その姿を己で見てしまった。もう生きていても用の無い自分を悟ったのだ。世に捨てられた人間の心が分かった」、
「・・・、わしが悪うございました。人の心が分かりました。『侍同士情けを掛けぬのが情けだ』と言った意味が初めて分かりました。私みたいな人間に情けを掛けられ、世の無常を感じた先生に申し訳ない。人間が分からないこんな屑のために、立派な人を死なせてしまった。生まれつきのお節介が、肌身離さず持っていた親父の形見の小判一枚が、とんだアダになってしまった。坊やここに来な。お前のお父っつぁんを殺したのはこの俺だ。俺がお父っつぁんの仇だ」、
「安七。済んでしまったことは悔やんでも仕方が無いことだ。情けがアダになったことは残念だけれども、そちのしたことは決して間違ってはいない。今の気持ちを忘れるなよ」。
浅尾信三郎の情けで小森孫一をねんごろに葬ってやり、麻布の縁者から小市を養子にもらい受け、信三郎は立派に小市を育て、安七も親戚同様の付き合いをした。