いささか古い話で申し訳ないが、「飛鳥の会」について書いてみよう。
「飛鳥の会」と言っても「チャゲアス」では無く、箏の演奏団体の事である。
「飛鳥の会」は、小野衛が創設した「創明音楽会」に所属していた吉田光子が主宰した会の名である。
小野衛は宮城道雄に師事して箏・三絃を習い、養子に入って宮城衛を名乗った時もある。尺八も上手く、私が大学生の時に正月NHKFMから「春の海」の尺八が聞こえて来て、大変上手で感心した。ちょうどカセットテープに録音出来たので何度も聞いた。
衛先生は様々な事情があったらしく、小野姓に戻り、創明音楽会を設立した。
門下生には羽賀幹子を中心としたプロの演奏団体「さわらび会」があった。
私は縁があって「飛鳥の会」に所属していた家内と結婚して、結婚式には青木鈴慕夫妻、小野衛先生をお呼びした。
そのお陰で私は「飛鳥の会」に何回か尺八の賛助出演をした。過去に何回かブログに書いたが、失敗談は忘れられない。(安田生命ホールでの宮城道雄作曲「初鶯」)
しかし今となっては、懐かしく面白い経験をしたなと思う。
吉田光子先生は昭和4(1929)年生まれで、昨年(2022年)に亡くなった。93歳だった。
私が最後に出演したパンフレットが見つかったので、その思い出を掲載してみたい。
「飛鳥の会」第37回筝曲演奏会は、平成18(2006)年3月19日に府中グリーンプラザけやきホールで行われた。実は吉田先生にとって最後の演奏会だった。
私が出演した曲は、「初鶯」「里の暁」「尾上の松」「軒の雫」「岳陽楼に登りて」の5曲であった。今となってはよく何曲もやったなぁという思いだ。
下合わせも思い出す。本番の1週間前に吉田先生宅に伺ったが、10時から午後3時まで行い、ちょうどその時は父の一周忌の法事で飯田市に帰るスケジュールで、4時には中央道八王子からバスに乗り、私としては忙しかった。
「軒の雫」の箏は80歳過ぎの高齢のNさんで、三絃は吉田先生であった。
Nさんは「暗譜で挑戦してみたい」とおっしゃっていたが、下合わせでは未だおぼつかなかったので少し心配はしていた。
本番では心配していた通り、途中で止まってしまい、顔を見合わせて掛け合いから再び演奏を開始した。冷や汗ものだった。
野村祐子作曲「岳陽楼に登りて」の岳陽楼は中国の洞庭湖湖畔にある、木造3階建ての楼閣の名である。
従って曲のイメージは「中国的」であり、5音階の変わった面白い曲だった。最初に楽譜を頂いた時は都山流楽譜であり、難しそうだったので躊躇したが、6寸管で何とか演奏出来た。
ちなみにパンフレットの「飛鳥の会」の字入れは義父であり、版下は家内が作成し、印刷に回した。
その後、吉田先生は高齢となり少しずつ認知症が進んで「飛鳥の会」を解散した。
それでも家内は少しでも認知症が進まないようにと稽古に通った。直近の事は忘れるが、地唄などしっかり演奏出来たから不思議だと家内は言っている。
しばらくは、めじろ台の行きつけのフランス料理「ルトン」のランチで良くお会いした。吉田先生はご夫婦で週2回ほど通ったらしく、お会いすると家内の事は分かっていたが、私の事は段々分からなくなって来ていた。
昨年(2022年)ご主人が亡くなって2か月以内に吉田先生も故人となってしまった。
私が知った頃には美人で、箏も三絃も素晴らしく綺麗な音で歌も上手かった。的確な演奏で「さわらび会」の3人に匹敵するほどの評価があった。
「先生、お世話になりありがとうございました。」