2024年5月14日、シャープは、テレビ向け液晶パネルの生産から撤退することを明らかにした。
同日発表した2024年3月期の連結最終損益は1499億円の赤字だった。
シャープは債務超過に陥り、2016年に台湾企業の鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入った。
その鴻海から派遣された戴正呉社長が、シャープ再建を成し遂げた。しかし、鴻海傘下に入って8年、初めて自己資本比率が10%未満にまで落ち込んだ。
このシャープの苦境に対する分析として、「テレビ向け液晶事業からの撤退が遅すぎた」「商品開発が悪い」「堺工場運営会社の子会社化が主因だ」など、様々な声がある。
しかし、いずれも後出しジャンケンのような論評に感じられる。
筆者は、シャープで、液晶の研究開発に約12年、太陽電池の研究開発に約18年間携わった。
その後、大学に移り、「技術経営(MOT)」を教育・研究した。研究テーマとして、シャープの事例を中心に、液晶産業、太陽電池産業などを選び、立命館大学から博士号(技術経営)を得た。この現場経験と技術経営の視点から、シャープ再崩壊を読み解いてみたい。
シャープ崩壊の窮地を救った戴元社長
そもそも、第10世代と呼ぶ大型液晶を生産するシャープの堺工場(大阪府堺市)は、最新世代のパネルをいち早く生産することで競争に勝つことができた亀山工場(三重県亀山市)の成功体験を基に建設された。
この堺工場への過剰投資が債務超過につながった。これが最初のシャープ崩壊の原因だ。
政府系ファンドの産業革新機構と経営権争奪戦の末、最終的にシャープの筆頭株主となったのが鴻海だった。そしてシャープを再建させた。
この陣頭指揮を執ったのが鴻海から派遣された戴正呉氏だ。筆者は2018年に当時社長の戴氏から招かれ、シャープ本社で面談したことがある。その時に、戴氏が話した言葉は忘れられない。
「正式に社長に就任してから2カ月で黒字になりました。前の経営者がなぜ黒字にできなかったのか? 今でも分かりません」
筆者は戴氏との面談から、その人柄は「清貧」で、経営に「創業者である早川徳次氏の精神」を取り戻そうとしていることを実感した。戴氏が発揮した「日本型リーダーシップ」が、シャープ再建の主因であると考えている。
戴氏の人柄や経営方針を象徴的に物語るエピソードを、社長室長(当時)の橋本仁宏氏から聞いたことがある。
「戴社長は、シャープの社員寮に住まわれています。
以前の旧本社近くの寮は、風呂・トイレが共同でした。堺工場に新しい寮『誠意館』が建設されてからは、この社員寮に移られました。新しい寮は個室に風呂・トイレが付いていますが、社員と同じ環境です」(橋本氏)
「戴社長は経費削減のため、本社を堺工場内に移転されました。この移転時に、創業者の早川徳次氏の銅像を旧本社から移設されました。
戴社長は、出勤時に、早川徳次氏の銅像に一礼するのを欠かされませんでした。シャープ社員でも、ここまでする人はいません」(橋本氏)
筆者が1971年4月にシャープに入社した時、創業者である早川氏の訓示を聞いた。早川氏は「他社がまねしてくれる商品をつくれ」と語り、独創性を何より重んじた。戴氏は早川氏の考え方を継承しようとしていた。
戴氏の陣頭指揮の下、驚異的な黒字回復を果たし、かつての創業時の精神を取り戻したはずのシャープ。それがなぜ再び大幅赤字に陥ったのか。
戴元社長がJDI救済で見せた現実経営
戴氏の社長在任時、シャープ以外の液晶メーカーは既にジャパンディスプレイ(JDI)に統合されていたが、赤字が続き窮地に陥っていた。
筆者はシャープの株主でもあり、たびたび株主総会に出席している。
2019年6月25日開催のシャープ株主総会に続いて行われた経営説明会で質問に立ち、シャープ会長兼社長(当時)の戴氏にJDIへの支援を求めた。戴氏からの回答は大きく2つの趣旨にまとめることができた。
1つは「日本の国と社会に同じ意識があれば援助したい」、もう1つは「日本のような大きな国で、シャープとJDIの2社のディスプレーの会社が生き残れないのはおかしい」というものだった。
つまり、日本の政府や国民の間で、シャープがJDIを救済すべきだという機運が高まれば援助する可能性はあるものの、合併などは考えていないということだ。
その後、シャープのJDI救済は、思わぬ形で実現した。JDIの白山工場(石川県白山市)の買収である。
同工場は、JDIが米Apple(アップル)からの借金で建設したiPhone用液晶パネル工場だ。
その後、アップルがiPhone用ディスプレーの主力を液晶から有機ELに転換したために、JDIの経営にとって白山工場は重荷になっていた。
戴氏は、白山工場の買収について、自著『シャープ 再生への道』(日本経済新聞出版)で次のように述べている。
「悩んだ末に買収を決断した。(中略)いわゆる『残存者利益』を狙う戦略が成立する経営環境にある」
しかし、この買収は経営戦略のブレだ。シャープ創業者の「経営理念」に沿えば、「残存者利益」を狙う経営戦略はあり得ない。独自性のある商品を開発して「先行者利益」を得る戦略が中心である。
経営には、「経営戦略」をつくる前に「経営理念」と「ビジョン」が必要だ。経営理念とは、企業活動に対する普遍的な価値観を示す。
ビジョンは、企業が数年の目標と達成時期を設定したものである。経営戦略は、ビジョンを実現するための具体的な道筋を示すものだ。
経営理念と“現実的な”経営戦略にギャップが生じることはままある。
ただし、経営理念は経営が戦略を立案する上でのよりどころであり、そこから外れたことをしてしまうと、結果として、力の入れどころが曖昧になり、進む方向を見失う。
このJDI救済は、戴氏の経営が経営理念から現実的な経営戦略に揺れた分岐点の1つだったといえる。
人材育成戦略でも生じるブレ
シャープは2022年5月11日に、呉柏勲氏が社長に就任すると発表し、当時会長だった戴氏は取締役からも退任する。
戴氏は、2018年に会長兼社長となり、後継者にはシャープ生え抜きの野村勝明氏を選んだ。しかし戴氏は、野村氏を2年で退任させ、最終的に鴻海出身者を選んだ。戴氏は、先に述べた筆者との面談でも次のように述べていた。
「鴻海からシャープの組織に入るのは私1人としました」(戴氏)
しかし、経営陣に鴻海出身者が増え、社長もまた鴻海出身者となった。人材育成戦略にもブレが見え始めた。
戴元社長の置き土産と再崩壊の原因
シャープは2022年6月27日に、堺工場の運営会社「堺ディスプレイプロダクト(SDP)」を完全子会社化した。
赤字を覚悟で完全子会社化したのは、当時社長の戴氏の決断である。
戴氏は前述の『シャープ 再生への道』の中で、SDPを完全子会社化した狙いについて、「液晶パネルの安定調達」と「技術の優位性の維持」としている。
「完全子会社にした方がシャープの将来のためになるとの結論に至った」「日本に液晶パネル産業を残したい。(中略)『日の丸液晶2.0』の動きが出てくることに期待したい」と述べている。
SDPの完全子会社化は、戴氏が現実的な経営戦略から経営理念に揺れ戻った置き土産なのである。ここまで見てきたように、シャープ再崩壊の原因は、経営が経営理念と現実的な経営戦略の間で揺れ動いたことと考えている。
経営理念か、現実的な経営か。つまり、「シャープ流」か「鴻海流」かの間で、経営が揺れたのだ。
シャープ再崩壊への対応と今後取るべき戦略
シャープ社長の呉氏は2024年3月期の決算報告会において、「鴻海と資本的な協力を検討する」との方針を示した。
また、2024年秋に堺工場を操業停止し、データセンターへの転用を目指すと発表した。
経営危機にあるシャープをスタート地点に戻すには、まずは現実的な「経営戦略」が重要で、鴻海からの出資は必要であろう。
しかし鴻海流が過ぎると、縮小均衡で衰退する恐れが強い。
最近注目されている経営理論に「両利きの経営」がある。企業活動において「深化」と「探索」のバランスを取る考え方だ。
深化は、深掘りし、磨きこんでいく活動だ。探索は、新しい範囲に認知を広げていく活動で、新しいアイデアにつながる。
鴻海の経営方針は深化に偏っているが、探索とのバランスを取る必要がある。
つまり、シャープ流の経営理念を、どのようにして加味していけるかが、今後のポイントとなる。鴻海の支配力が強まるのは仕方がないが、経営陣の中に、経営理念を基にアドバイスできる人材を加えることが1つの対応だ。
また、探索として、今後、JDIとの提携も検討すべきだ。JDIの経営は好転する様子を見せず、2024年3月期に10年連続の連結最終赤字を計上した。
しかし、両社が逆境にある今こそ提携のチャンスだ。シャープは小型液晶の生産ラインを維持し、その工場で有機ELの駆動用TFT基板(バックプレーン)を生産して、当時世界最軽量の有機ELスマホを生産した実績がある。
有機EL部分は、JDIが「eLEAP」と呼ぶ次世代技術を持っている。シャープとJDIの提携は、相互の強みを生かし、独自性を生み出す糧となるはずだ。
中田 行彦(なかた ゆきひこ)
立命館アジア太平洋大学 名誉教授
神戸大学大学院卒業後、シャープに入社。以降、33年間勤務。液晶の研究開発に約12年、太陽電池の研究開発に約18年、その間3年間、米国のシャープアメリカ研究所など米国勤務。
2004年から立命館アジア太平洋大学の教授として、技術経営を教育・研究。2009年10月から2010年3月まで、米国スタンフォード大学客員教授。2015年7月から2018年6月まで、日本MOT学会企画委員長。
2017年から立命館アジア太平洋大学 名誉教授・客員教授。2020年から名古屋商科大学非常勤講師。共創イノベーションズ代表。京都在住。
日経記事2024.05.27より引用