正教徒のプーチン・ロシア大統領(左から2人目)は12日、ロシア正教会のキリル総主教㊨と
北西部サンクトペテルブルクの修道院を訪れた=AP
ロシアが侵略を続けるウクライナでこの夏、キリスト教を巡る2つの大きな出来事があった。
一見何の関係もないが、実はいずれもロシア正教会の原理主義と深いかかわりがある。プーチン政権の野望を支えるのも、正教の再興を目指す原理主義だ。
古代ビザンチン風の複合施設がオープン
ロシアが2014年から占領するウクライナ南部クリミア半島に今年7月、「新ヘルソネス」と名付けた巨大な複合施設がオープンした。
軍港セバストポリ郊外の22ヘクタールの敷地に整備されたのは、古代ビザンチン風の様々な建物や公園だ。
ロシアで初のキリスト教博物館、クリミア・ノボロシア博物館、考古学公園――。正教や歴史をテーマとし、1日5万人を収容できるという。
式典では金色の祭服の正教幹部が聖水を振りまき、十字架を掲げて行進した。
開業式典が催された7月28日はロシアの記念日である「ルーシの洗礼の日」だった。
988年、この地で東スラブ(ロシア人やウクライナ人、ベラルーシ人)の古代国家ルーシを率いたウラジーミル大公が洗礼を受け、ビザンチン帝国から正教を受容した故事に基づく。
ロシア各地から多くの人が「新ヘルソネス」を訪れている(8月14日)=ロイター
「新ヘルソネスの建設に参加したすべての人に心より感謝したい、誰よりもまず、ウラジーミル・プーチン氏に」。式典でこうあいさつしたのは、ロシア正教のクリミア管区を統括するチーホン府主教だ。
ロシア正教会の重鎮が計画を担当
第1次世界大戦前に浮上したものの、お蔵入りしていた「新ヘルソネス」の建設計画を再び持ち出したのはプーチン大統領だ。そしてプーチン氏の指示を受け、チーホン府主教が計画を練った。
チーホン氏はロシア・メディアで「プーチン氏の懺悔(ざんげ)聴聞僧」と称される。1990年代後半、大統領になる前のプーチン氏と知り合い、宗教上の導師となった。ロシア正教会のトップ、キリル総主教の後継候補に名前も上がる重鎮だ。
チーホン氏にはもう一つの顔がある。
正教の教義と伝統を固守し、カトリック教会など米欧のキリスト教信仰に対して厳しい視点を持つ原理主義者としての顔だ。
米欧への不信感が強く、特に自由主義への批判をいとわない。ソ連時代に抑圧され、根絶の瀬戸際にあった正教の復興に向けて政権と協力関係を深めてきた。
そのチーホン氏がプーチン氏と一緒に、クリミアに聖地を復活させた。
ソ連崩壊で衰退の道をたどったロシアの国家復活を掲げるプーチン氏の事業に、「聖なるルーシ」再興の悲願を重ねた。
クリミアの聖地建設はその象徴となる。
政権幹部の多くが信心深い正教徒
ロシアは最も多くの正教徒を抱える国であり、正教会の原理主義はキリル総主教ら多くの幹部も共有する。その正教会もプーチン政権も、正教の再興と国家復活にウクライナが不可欠だと信じた。
プーチン氏はロシア人とウクライナ人を「ひとつの民」とみなす。
ウクライナは正教受容の地でもある。さらに米欧がウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟を支援し、ロシア衰退を企てているとの強迫観念に駆られ、侵略という暴挙に出た。
プーチン氏をはじめ政権幹部の多くは信心深い正教徒だ。正教会の原理主義の影響を受け、民族主義に傾いたプーチン政権の危うさが、同じ東スラブのウクライナの人々には身に染みて分かる。
ロシアと関係ある宗教組織の活動を禁止
もう一つの大きな出来事は、こうした危機感が引き金となった。ロシアと関係のある宗教組織の活動を禁じる法律がウクライナで発効したのだ。ゼレンスキー大統領が8月24日、法案に署名した。
プーチン政権を支持するロシア正教会のウクライナ国内への影響を遮断するのが目的だ。
ロシア正教会と関係があるウクライナ領内の聖職者や信者が侵略を助け、安全保障上の脅威になるともみなした。
ウクライナも正教徒が多数を占める国だが、宗教事情は複雑だ。1991年の国家独立に伴い、ウクライナの正教はロシア正教会の権威を認める正教会と、ウクライナ独自の正教会が並立した。今回の法律の規制対象になったのは前者だ。
両国関係が悪化していた2019年には独立系の正教会が、東方正教会の最高権威とされるコンスタンチノープル総主教庁によってロシア正教会からの独立を正式に認められた。
ロシア正教会はウクライナの正教会に対するソ連時代からの管轄権を失う形になり、猛反発した。
ロシア正教会がプーチン政権と侵略を支える理由が、ウクライナの正教会との勢力争いにあるとの見方もあるが、話はそう簡単ではない。
本質は国家と正教の存亡をかけた聖俗の狂信的な考えにあり、侵略を止めることはいっそう難しくなっている。
日本経済新聞出版は9月17日、「プーチンの帝国論 何がロシアを軍事侵攻に駆り立てたのか」(石川陽平著)を発刊した。
ロシアのウクライナ侵略は、なお終わりが見えない。なぜ兄弟民族が殺し合う悲劇が21世紀の現代に起きたのか、何がプーチン大統領を戦争へと駆り立てたのか。
今回の侵略にロシアという国家の姿や歴史が深くかかわっていることを、プーチン体制に決定的な影響を与えたロシア正教の原理主義と20世紀の思想家イワン・イリインに焦点を当てて明らかにする。
本稿では、その内容の一部を紹介した。