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ビクトリア女王は初代インフルエンサー、現代の定番が次々と誕生 純白のウエディングドレスも無痛分娩も、19世紀英国「メディア君主」の影響力(日経2025.2.26)

2025-03-01 02:33:57 | 高級ブランド(LVMH、エルメス、グッチ、他)、ファッション

ビクトリア女王とアルバート公が飾りつけたモミの木。キャンドルやお菓子、紙飾りがついたクリスマスツリーは、ほどなく英国中の家庭に広がることになる。(Photograph by Heritage Image Partnership Ltd, Alamy Stock Photo)
ビクトリア女王とアルバート公が飾りつけたモミの木。キャンドルやお菓子、
紙飾りがついたクリスマスツリーは、ほどなく英国中の家庭に広がることになる。

 

 

定番となったクリスマスツリー

 ビクトリアの影響力はファッションにとどまらない。この一家のクリスマスの過ごし方が、今ではクリスマスの常識になっている。そのひとつが、定番となったクリスマスツリーだ。

 英国に飾りつきのクリスマスツリーを持ちこんだのは、ビクトリアの時代の数十年前、祖母であるドイツ生まれのシャーロット王妃だった。

 

しかし、それを定番といえるまでにしたのは、ビクトリアと、ドイツ生まれの夫アルバートだった。(参考記事:「英国初の黒人王妃? シャーロットの実像に迫る」

 ビクトリアとアルバートが飾っていたのはモミの木だったが、グッドサー氏はウィンザー・グレート・パークにあった木ではないかと考えている。<iframe id="google_ads_iframe_/54271731/NNG/teads_0" tabindex="0" title="3rd party ad content" name="google_ads_iframe_/54271731/NNG/teads_0" width="1" height="1" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" aria-label="Advertisement" data-load-complete="true" data-google-container-id="7" data-integralas-id-a7225551-1951-fc7a-e5f8-213fc7127950=""></iframe>

 

「居室のテーブルには、年長者とやがて9人になる子どもたちそれぞれのクリスマスツリーが置かれ、その下に包装されていないプレゼントがありました。

ツリーはカラフルな紙で作った輪飾りやしずく型の装飾がついており、火を灯したキャンドルやお菓子もありました」

 

 グッドサー氏によると、1848年にクリスマスツリーが描かれた王室の家族の絵がロンドンの新聞に掲載されたことで、この伝統が一気に広まった。(参考記事:「クリスマスツリーはいつ、どこで生まれたのか?」

 

 

スコットランドが人気の観光地に

スコットランドは、ビクトリアとアルバートのお気に入りの場所だった。このころは、英国全土に鉄道網が広がりつつあったため、旅行のハードルも低くなっていた。

 この夫婦のスコットランド愛のおかげで、その足跡をたどろうという観光客がやってくるようになった。たとえば、1847年に夫婦がスコットランドを旅行したあとには、同じ経路でスコットランド西部を巡るツアーを汽船会社が企画した。

 

ビクトリア女王はスコットランドがお気に入りだった。そのおかげで、スコットランドは流行の観光地となり、女王の足跡をたどろうとする多くの人が訪れるようになった。(Photograph by RockingStock, Alamy Stock Photo)
ビクトリア女王はスコットランドがお気に入りだった。そのおかげで、スコットランドは
流行の観光地となり、女王の足跡をたどろうとする多くの人が訪れるようになった。
 
 
2024年のバルモラル城。現在も英国王室のスコットランドでの本拠地となっている。アルバート公がビクトリアのために購入した1852年とほとんど変わっていない。(Photograph by Nick Brundle, Alamy Stock Photo)
2024年のバルモラル城。現在も英国王室のスコットランドでの本拠地となっている。
アルバート公がビクトリアのために購入した1852年とほとんど変わっていない。

 

かなりの頻度でスコットランドを訪れていたビクトリアとアルバートは、そこに居を構えることにし、1852年にハイランド地方にあるバルモラル城を購入した。

その結果、英国の富裕層の間で、スコットランドの土地があこがれの的になった。

 

 

クロロホルム麻酔で無痛分娩

 ビクトリアの影響力はレジャーの領域にとどまらない。9人の子どもたちの母であるビクトリアは、出産に対する考え方を変えるうえで大きな役割を果たした。

ビクトリアは妊娠を嫌がっており、1858年には「身動きがとれず、翼をもがれたよう」と書いている。

 
 
1846年、ビクトリア女王とアルバート公、そして5人の子どもたち。(Photograph by Glasshouse Images, Alamy Stock Photo)
1846年、ビクトリア女王とアルバート公、そして5人の子どもたち。
 
 
 
妊娠中の不便さはどうにもならなかったかもしれないが、出産時の苦痛は画期的な新手法によって和らげることができた。1847年から、麻酔薬のクロロホルムが使われるようになったからだ。
 

出産にクロロホルムを使うという手法は、医学界に激しい論争を巻き起こすことになった。出産時に母親の意識や反応が鈍くなることを懸念する医師もいれば、陣痛は母親が耐えるべき自然なものだと主張する医師もいた。

 

ビクトリアは、こういった議論をものともせず、1853年4月に8人目の子どもを出産したときに、クロロホルムを使った。女王はその効果に満足したようで、「心が落ち着き、計り知れない効果がある」と日記に記した。

 これを受けて、クロロホルムを使う女性が増え、出産は必ずしも苦しくあるべきではないという考えが広まった。自分が受ける医療を、女性がより主体的に選べるようになるきっかけとなったのだ。(参考記事:「無痛分娩で母親の重い合併症も顕著に減ると判明、命を救うかも」

 

生涯にわたって喪に服す

 出産に新たな選択肢をもたらしたビクトリアだったが、愛する人との別れは避けられなかった。1861年にアルバート公が亡くなると、ビクトリアの喪の服し方がこの時代の新たな型を生み出すことになる。

「ビクトリアは、1861年にアルバート公が亡くなった部屋をそのままにして、装身具や思い出の品を置いていました」とグッドサー氏は話す。

 

 ビクトリアの喪は、当時でさえも極端なものだった。クリスマン・キャンベル氏は、次のように話している。

「このころは、喪の服し方に細かい作法がありました。夫を亡くした女性は全身黒を身につけましたが、せいぜい数年でやめたり、グレーやラベンダーに変えたりするのが通例でした。しかしビクトリアは、生涯にわたってほとんど変わることなく黒を身につけ、公共の場での活動を控えたのです」

 
 
ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 日本版サイト 2025.2.26  より引用
 
 


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