ef24-105mmF4L
列車は朝6時に嘉峪関駅に到着。嘉峪関。ここは河西回廊の西側出口付近にある町。甘粛省の西の奥。ここから西に500キロメートルも進めば、そこはもう新疆ウイグル自治区である。嘉峪関の駅は小さく、駅前にも高層ビルはない。駅から観光地は遠くて、なかなか歩いていける距離ではない。さて、駅に着いから最初にやっておかねばならない仕事は、次の駅に行く切符を購入することである。くどいようだが、中国では列車の切符は入手しにくい。かつての国鉄よろしく、切符の売り手のほうが強いのだ。その証拠として、旅の最中に出会ったエピソードをここで一つ紹介することにしよう。
いつものように私は切符を買おうと列にならぶ。この時並んでいる人は少なくて、私の一つ前に並んでいる中国人が窓口にいる。その中国人はどうやら窓口の係員にクレームをつけているようだった。私は中国語が分からない。何の内容の話を喋っているのかも分からない。だが、言葉が分からなくても、雰囲気で分かるようなことはいくつもあるのだ。
中国人の客:○×△■(不満そう)
中国人の客:□☆●!(イライラしている)
中国人の客:×▲□××●○!!!!(イライラしている)
係官:▲□○×(ムッとした顔)
係官:×▲▲□□!!!(キレ気味)
係官:□○○×▲▲!!!!!(相手の言葉を遮って、キレ気味で話している)
係官:○×△▲□××○×▲××▲▲!!!!!!!(キレている)
係官:○●□▲▲!!!(まだもキレている)
中国人の客:▲□●×!(係員の反応にドン引きして、やや元気がなくなりながらも食い下がる)
係官:××●▲▲□!!!!!(すかさず反撃。怒っている)
しばし沈黙・・・・
中国人の客:●▲□……(かなり弱弱しくなってきた)
係官:●×! (短い言葉で強い語調)
しばし沈黙・・・
中国人の客:(お金を弱弱しく払う)
係官:(切符とおつりを放り投げるようにして返す)
中国人の客:(それを何も言わずに無言で受け取り、すごすごと窓口を後にする)
何の会話がなされているのかは分からないが、その力関係だけは明らかである。すなわち係官の勝利である。後ろに並んでいるお客は、その光景を見ても文句を言わない。恐るべし、中国の係官。百戦錬磨の猛将である。そりゃ切符を「売ってやる」という立場だから、無敵なのであるが…。
私の番に来た。第5志望まで書いたが、切符は「メイヨー(無い)」寝台車は全滅。硬座のみだという。今まさに18時間の硬座に乗ってきたばかりの私としては、「うそ~ん」と言いたくなるほど厳しい審判を受けたのである。嘉峪関駅から、次の目的地の柳園(敦煌最寄の駅)間の列車での所要時間は4時間半である。出発時刻は深夜の24時。「また夜を硬座ですごさないといけないのか…」と思い、気分が滅入る。が、それしか選択肢は無いので買うことにした。柳園への片道切符の値段は44元(572円)。4時間~4時間半の電車にのって570円前後の金額とは安い。千葉~東京間の運賃が650円であるから、その安さがよく分かるであろう。
さて、嘉峪関観光の話に戻る。到着は朝の6時なので、駅周辺にはひとが殆どいない。列車の乗降客くらいしか見当たらない。まぁ、それが普通なのである。いままで北京や西安などを見てきたが、朝の6時ごろから人ごみでごった返していた。あれが異常なのであって、通常はこの嘉峪関駅のような光景であろう。さて早朝の駅には、タクシー乗り場には無数のタクシーが列をなして停まっていた。中国人の乗客は、当然のようにそのタクシーを使って、それぞれ家路を目指して帰っていく。そこには公安警察が1人いて、タクシーの誘導をやっている。乗客は次々とタクシーに乗っていき、タクシーは次々と駅に到着するという光景が続く。私は当初、観光地までは歩いていこうかなと思っていたが、この光景を見てタクシーを利用することにした。というのは、このタクシーを現地の人間が使っているからである。しかも公安までいるということは、これはボッタクリのタクシーの類ではないからである。
タクシーでまず最初に案内してもらったのは、天下第一墩である。
天下第一墩。この手前まで万里の長城は延びている。だが、さすがに北京~嘉峪関までの全ての地を一本の線でつなぐように長城は伸びているわけではない。中国は山あり、谷ありの峻険な地形が多い。400メートル規模の山には長城も張り巡らせれているが、1000メートル以上の山には流石に設置しない。自然の要害を巧みに利用している。そして、ここ天下第一墩も、渓谷そのものが長城の役割を果たしているので、長城はこの先には無い。
位置関係が分かりやすいように、グーグルアースの画像を添付する。天下第一墩と書いてあるのが上の写真の位置である。地図上でもハッキリと渓谷が見える。この渓谷は遠く南の山脈「祁連山脈(チーリエン山脈)」まで伸びている。河西回廊(甘粛省)が細長くなっている理由は、その南の境にはチーリエン山脈が西から東へ伸びており、北には広大なゴビ砂漠が広がる。分かりやすく説明するために、もう一つ地図を紹介する。
河西回廊は、ゴビ砂漠の南端とチーリェン山脈の北端の間にある狭い「回廊」である。地形をみれば分かる通り、モンゴルと中国の国境線は西からアルタイ山脈、ゴビ砂漠、東の大興安嶺山脈といった峻険な地形によって分断されている。天山山脈から西は現在のカザフスタン共和国である。ヒンドゥークシュ山脈から西は現在のアフガニスタン、パキスタンである。南のインドとの国境線はヒマラヤ山脈を境にして分断されている。漢族にとって西との交易ルートは、事実上河西回廊を使用する他は海のルートを通るしかなかったのだ。そういった意味で、河西回廊を支配することは漢族にとっては戦略的に極めて重要であった。ここに嘉峪関という関を設けた理由もよく分かる。長城も西の果ての場所が敦煌のすこし西側までというのも、タクラマカン砂漠があるのと関係があるという事だろう。タクラマカン砂漠から西側の山脈を越えれば、そこはもうサマルカンドであり、そこはソグド人がいるペルシャの国である。嘉峪関以西の陸のシルクロードのコースはタクラマカン砂漠の南側を崑崙山脈・カラコルム山脈・パミール高原沿いのオアシスを西に進み(このルートも北に砂漠、南に山脈の細長い回廊である)、中央アジアに至るコースである。これが漢族の陸の交易ルートである。もしくは天山山脈の北麓を進む(トルファン・ウルムチを越える)天山北路を通るルート。または、楼蘭を通りタクラマカン砂漠の北側(天山山脈の南側)のオアシス都市を抜けていく漠北路を通るルートである。だが一番安定したルートは最初に書いたようにタクラマカン砂漠の南側を抜けるルートである。北の道にいけばいくほど、遊牧民との勢力争いが激しい地域になるので、北の道は時代によって使えたり使えなかったりしたのである。
では北方の遊牧民の交易ルートはどうだろうか?匈奴・鮮卑・突厥などの遊牧民は現在の内モンゴル自治区~モンゴル・極東ロシア一帯の広大な土地に広がっていた。彼ら遊牧民が西と交流・交易する為のルートはおもに二つ。一つは河西回廊である。もともと河西回廊は「月氏」とよばれる遊牧民が支配していた。それを匈奴の冒頓単于が奪い、そして遥か後年に漢の武帝に奪われることになる。漢の西に対する陸の交易ルートは、前述した通り河西回廊を通過し、タクラマカン砂漠の南側コース、北側コース、天山山脈北麓コースを通る。匈奴がまだ河西回廊を支配していた時は、この交易ルートも遊牧民は使っていた。これが遊牧民の交易ルートの第一。
第二は、いわゆる近年言われている「北のシルクロード」と呼ばれる道である。これは天山北路の事を指しているのではない。上の地図ではもはや表現しきれないので、文章で表現すると、モンゴルの大草原を西に行きアルタイ山脈北麓を通って西に行くルートもあれば、バイカル湖あたりから草原の道をつかって遥か西側、すなわちカザフスタン共和国の北端あたりを越えて、カスピ海の北側を抜けてイスタンブールに続く道を移動するコースである。カザフスタンの平原を南に降りると、そこはかつてパルティアと呼ばれた国があった地域である。もしくはアケメネス朝ベルシア、ササン朝ペルシアのあった地域である。
話が広がりすぎたので、元に戻そう。天下第一墩はこのような場所である。この場所から北側には、長城が嘉峪関と呼ばれる「関」までずっと続いている。
これが西域の長城である。土壁、土塁に近い。北京郊外にあるような長城とは違って壁も低い。2メートルほどである。
写真の左側奥に見える雪を湛えた山脈は「チーリエン山脈」である。あの山脈を越えたところは、もうチベット自治区である。
西域の崩れかけた長城に登る。私は北京郊外にあるシッカリとした石で建てられた長城よりも、この無骨でショボイ西域の長城の方が味があって好きである。長城は遥か北、嘉峪関を貫きさらに北に伸びている。写真を見てお分かりの通り、ここは砂漠と草原が混在した地域である。砂漠といっても、ここは我々のイメージするところの砂砂漠ではない。礫砂漠である。ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などは文字通り砂砂漠で、そこは植物が生えず、人がまったく住めない地域であるが、礫砂漠の場合は、植物などもちらほら見える。また地下水がある場所ではオアシスなどが形成され、付近には草原なども見られるのである。このように、砂漠といってもイロイロな種類があるのだ。
嘉峪関の「関」についてのレポートは次回にまわします。
列車は朝6時に嘉峪関駅に到着。嘉峪関。ここは河西回廊の西側出口付近にある町。甘粛省の西の奥。ここから西に500キロメートルも進めば、そこはもう新疆ウイグル自治区である。嘉峪関の駅は小さく、駅前にも高層ビルはない。駅から観光地は遠くて、なかなか歩いていける距離ではない。さて、駅に着いから最初にやっておかねばならない仕事は、次の駅に行く切符を購入することである。くどいようだが、中国では列車の切符は入手しにくい。かつての国鉄よろしく、切符の売り手のほうが強いのだ。その証拠として、旅の最中に出会ったエピソードをここで一つ紹介することにしよう。
いつものように私は切符を買おうと列にならぶ。この時並んでいる人は少なくて、私の一つ前に並んでいる中国人が窓口にいる。その中国人はどうやら窓口の係員にクレームをつけているようだった。私は中国語が分からない。何の内容の話を喋っているのかも分からない。だが、言葉が分からなくても、雰囲気で分かるようなことはいくつもあるのだ。
中国人の客:○×△■(不満そう)
中国人の客:□☆●!(イライラしている)
中国人の客:×▲□××●○!!!!(イライラしている)
係官:▲□○×(ムッとした顔)
係官:×▲▲□□!!!(キレ気味)
係官:□○○×▲▲!!!!!(相手の言葉を遮って、キレ気味で話している)
係官:○×△▲□××○×▲××▲▲!!!!!!!(キレている)
係官:○●□▲▲!!!(まだもキレている)
中国人の客:▲□●×!(係員の反応にドン引きして、やや元気がなくなりながらも食い下がる)
係官:××●▲▲□!!!!!(すかさず反撃。怒っている)
しばし沈黙・・・・
中国人の客:●▲□……(かなり弱弱しくなってきた)
係官:●×! (短い言葉で強い語調)
しばし沈黙・・・
中国人の客:(お金を弱弱しく払う)
係官:(切符とおつりを放り投げるようにして返す)
中国人の客:(それを何も言わずに無言で受け取り、すごすごと窓口を後にする)
何の会話がなされているのかは分からないが、その力関係だけは明らかである。すなわち係官の勝利である。後ろに並んでいるお客は、その光景を見ても文句を言わない。恐るべし、中国の係官。百戦錬磨の猛将である。そりゃ切符を「売ってやる」という立場だから、無敵なのであるが…。
私の番に来た。第5志望まで書いたが、切符は「メイヨー(無い)」寝台車は全滅。硬座のみだという。今まさに18時間の硬座に乗ってきたばかりの私としては、「うそ~ん」と言いたくなるほど厳しい審判を受けたのである。嘉峪関駅から、次の目的地の柳園(敦煌最寄の駅)間の列車での所要時間は4時間半である。出発時刻は深夜の24時。「また夜を硬座ですごさないといけないのか…」と思い、気分が滅入る。が、それしか選択肢は無いので買うことにした。柳園への片道切符の値段は44元(572円)。4時間~4時間半の電車にのって570円前後の金額とは安い。千葉~東京間の運賃が650円であるから、その安さがよく分かるであろう。
さて、嘉峪関観光の話に戻る。到着は朝の6時なので、駅周辺にはひとが殆どいない。列車の乗降客くらいしか見当たらない。まぁ、それが普通なのである。いままで北京や西安などを見てきたが、朝の6時ごろから人ごみでごった返していた。あれが異常なのであって、通常はこの嘉峪関駅のような光景であろう。さて早朝の駅には、タクシー乗り場には無数のタクシーが列をなして停まっていた。中国人の乗客は、当然のようにそのタクシーを使って、それぞれ家路を目指して帰っていく。そこには公安警察が1人いて、タクシーの誘導をやっている。乗客は次々とタクシーに乗っていき、タクシーは次々と駅に到着するという光景が続く。私は当初、観光地までは歩いていこうかなと思っていたが、この光景を見てタクシーを利用することにした。というのは、このタクシーを現地の人間が使っているからである。しかも公安までいるということは、これはボッタクリのタクシーの類ではないからである。
タクシーでまず最初に案内してもらったのは、天下第一墩である。
天下第一墩。この手前まで万里の長城は延びている。だが、さすがに北京~嘉峪関までの全ての地を一本の線でつなぐように長城は伸びているわけではない。中国は山あり、谷ありの峻険な地形が多い。400メートル規模の山には長城も張り巡らせれているが、1000メートル以上の山には流石に設置しない。自然の要害を巧みに利用している。そして、ここ天下第一墩も、渓谷そのものが長城の役割を果たしているので、長城はこの先には無い。
位置関係が分かりやすいように、グーグルアースの画像を添付する。天下第一墩と書いてあるのが上の写真の位置である。地図上でもハッキリと渓谷が見える。この渓谷は遠く南の山脈「祁連山脈(チーリエン山脈)」まで伸びている。河西回廊(甘粛省)が細長くなっている理由は、その南の境にはチーリエン山脈が西から東へ伸びており、北には広大なゴビ砂漠が広がる。分かりやすく説明するために、もう一つ地図を紹介する。
河西回廊は、ゴビ砂漠の南端とチーリェン山脈の北端の間にある狭い「回廊」である。地形をみれば分かる通り、モンゴルと中国の国境線は西からアルタイ山脈、ゴビ砂漠、東の大興安嶺山脈といった峻険な地形によって分断されている。天山山脈から西は現在のカザフスタン共和国である。ヒンドゥークシュ山脈から西は現在のアフガニスタン、パキスタンである。南のインドとの国境線はヒマラヤ山脈を境にして分断されている。漢族にとって西との交易ルートは、事実上河西回廊を使用する他は海のルートを通るしかなかったのだ。そういった意味で、河西回廊を支配することは漢族にとっては戦略的に極めて重要であった。ここに嘉峪関という関を設けた理由もよく分かる。長城も西の果ての場所が敦煌のすこし西側までというのも、タクラマカン砂漠があるのと関係があるという事だろう。タクラマカン砂漠から西側の山脈を越えれば、そこはもうサマルカンドであり、そこはソグド人がいるペルシャの国である。嘉峪関以西の陸のシルクロードのコースはタクラマカン砂漠の南側を崑崙山脈・カラコルム山脈・パミール高原沿いのオアシスを西に進み(このルートも北に砂漠、南に山脈の細長い回廊である)、中央アジアに至るコースである。これが漢族の陸の交易ルートである。もしくは天山山脈の北麓を進む(トルファン・ウルムチを越える)天山北路を通るルート。または、楼蘭を通りタクラマカン砂漠の北側(天山山脈の南側)のオアシス都市を抜けていく漠北路を通るルートである。だが一番安定したルートは最初に書いたようにタクラマカン砂漠の南側を抜けるルートである。北の道にいけばいくほど、遊牧民との勢力争いが激しい地域になるので、北の道は時代によって使えたり使えなかったりしたのである。
では北方の遊牧民の交易ルートはどうだろうか?匈奴・鮮卑・突厥などの遊牧民は現在の内モンゴル自治区~モンゴル・極東ロシア一帯の広大な土地に広がっていた。彼ら遊牧民が西と交流・交易する為のルートはおもに二つ。一つは河西回廊である。もともと河西回廊は「月氏」とよばれる遊牧民が支配していた。それを匈奴の冒頓単于が奪い、そして遥か後年に漢の武帝に奪われることになる。漢の西に対する陸の交易ルートは、前述した通り河西回廊を通過し、タクラマカン砂漠の南側コース、北側コース、天山山脈北麓コースを通る。匈奴がまだ河西回廊を支配していた時は、この交易ルートも遊牧民は使っていた。これが遊牧民の交易ルートの第一。
第二は、いわゆる近年言われている「北のシルクロード」と呼ばれる道である。これは天山北路の事を指しているのではない。上の地図ではもはや表現しきれないので、文章で表現すると、モンゴルの大草原を西に行きアルタイ山脈北麓を通って西に行くルートもあれば、バイカル湖あたりから草原の道をつかって遥か西側、すなわちカザフスタン共和国の北端あたりを越えて、カスピ海の北側を抜けてイスタンブールに続く道を移動するコースである。カザフスタンの平原を南に降りると、そこはかつてパルティアと呼ばれた国があった地域である。もしくはアケメネス朝ベルシア、ササン朝ペルシアのあった地域である。
話が広がりすぎたので、元に戻そう。天下第一墩はこのような場所である。この場所から北側には、長城が嘉峪関と呼ばれる「関」までずっと続いている。
これが西域の長城である。土壁、土塁に近い。北京郊外にあるような長城とは違って壁も低い。2メートルほどである。
写真の左側奥に見える雪を湛えた山脈は「チーリエン山脈」である。あの山脈を越えたところは、もうチベット自治区である。
西域の崩れかけた長城に登る。私は北京郊外にあるシッカリとした石で建てられた長城よりも、この無骨でショボイ西域の長城の方が味があって好きである。長城は遥か北、嘉峪関を貫きさらに北に伸びている。写真を見てお分かりの通り、ここは砂漠と草原が混在した地域である。砂漠といっても、ここは我々のイメージするところの砂砂漠ではない。礫砂漠である。ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などは文字通り砂砂漠で、そこは植物が生えず、人がまったく住めない地域であるが、礫砂漠の場合は、植物などもちらほら見える。また地下水がある場所ではオアシスなどが形成され、付近には草原なども見られるのである。このように、砂漠といってもイロイロな種類があるのだ。
嘉峪関の「関」についてのレポートは次回にまわします。