Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

15:憧れの敦煌

2010年10月18日 04時46分35秒 | 中国旅行記2010年8月
敦煌。学生時代からずっとこの地に行きたいと憧れていた。ちょうどその頃は映画「敦煌」が上映されていたし、NHKがシルクロードの旅で「敦煌」を取り扱っていた。なんでも砂漠の中に町がある。この言葉を聞いて以来、敦煌という場所に一種のロマンを覚えていた。敦煌が中国の西域にあることは当時から知っていた。その頃の私は中国史といったら、漫画の三国志くらいしか知らなかった時である。三国志の中では敦煌はまったく出てこない地名である。敦煌が中国史の中で大きく取り上げられるのは、漢の武帝の頃である。紀元前100年くらいの時に、漢の武帝は敦煌を時の支配者である「匈奴」から奪い、ここに郡を設置した。
ここは甘粛省の最西端。ここから西は、もう新疆ウイグル自治区である。敦煌は武帝の時代、大宛(フェルガナ)攻略の拠点であった。フェルガナは現在ウズベキスタンの都市となっている。ここに汗血馬という、三国志の赤兎馬のような名馬がワンサカいたという。武帝はこの馬が欲しかったようで、配下の李広利に大宛攻略を命じた。李広利は一度は大宛に敗北して敦煌に撤退した。武帝は「敦煌の玉門関から内側に入ったら殺す!」と脅したので、李広利は焦って、玉門関の外側の長城で踏みとどまり、再び大宛攻略を行い今度は成功させたという。これによると、漢の時代に既に敦煌の玉門関まで長城が設置されていたのが分かる。文書上の万里の長城の西端は、玉門関までということになる。(玉門関は、敦煌から西北90キロくらいのところにある。私はここには行かなかったが・・・)

さて、列車は早朝に敦煌の最寄の駅である「柳園駅」に到着。駅前は暗い。嘉峪関の駅も寂れていたが、ここはさらに上手で電灯がほとんど点いていない。道路もアスファルトではなく、土の大地だ。あまりにも有名な「敦煌」の最寄の駅がこんなに寂れているとは驚きを禁じえなかった。ところで、私は柳園駅を「敦煌の最寄の駅」と書いたが、これは実は正しくない。正しくは「最寄の駅だった」のである。ここ数年前に、中国は敦煌の町のすぐ近くに駅を作った。だがその駅に直通する列車の本数は依然として少ない。しかも乗り換えが必要である。主要幹線から外れる乗り換えを要するということは、その乗り換え地で一泊をすることを意味する。なぜなら、この国では切符を手に入れるのが容易ではないからである。発車時刻の予定も立たず、切符入手困難に中国においては、乗り換えという行為はかなりリスクが高いのだ。従って、かつて「最寄の駅だった」柳園駅を私は選んだのだが、いくら早朝4時ごろとはいえ、あまりにも明かりが少ない。死んだ駅前である。これは誇張ではない。今になってみれば写真に撮っておけばよかったと思うが、この駅に降り立った瞬間に感じたものは、「警戒せよ」であった。ちょっと怖い。駅前にはタクシーが溢れ返っているが、タクシーのおっちゃんも仕事モードに入っているものは殆どいない。だが流石中国。タクシーの運ちゃんの商魂たくましいこと。私を見つけると、早速乗ることを薦めてきた。
値段交渉が始まる。敦煌の町までは、車で片道二時間もかかる。いったいいくらで行ってくれるのだろうか?嘉峪関で半日タクシーチャーターの金額を覚えているので、無茶な金額なら強く交渉しようと思っていると、先方は150元という。正直、嘉峪関のタクシーとは比較にならないほど高い。が、選択肢はない。このタクシー群の中でどれかを選ばなければならない。この駅前付近は本当に暗い。怖い。一人で先に歩ける状態ではない。私は恐れをなしてしまい、150元の言い値で承諾してしまった。
タクシーは早朝、まだ空が暗い中を走る。柳園から敦煌への道は、ほぼ直線道路である。時速100キロくらいで走る。ちなみに柳園~敦煌までの距離は130キロ以上はあると思われる。これは、タクシーに乗っているとき、道路の標識に「敦煌:128キロ」と書いてあったからである。道はひたすら真っ暗。ネオンや街灯などは一切無い。民家もまったく見受けられない。時々対向車がすれ違うだけ。私はタクシーに乗りながら不安になった。これは本当に敦煌に向かっているのか?どこか人けの少ないところに走らせて停めて、私を脅して有り金を巻き上げようとしているのではないか?などと不審に思っていると、30分くらい走らせたところで、車を急に側道に停めるではないか。周りは明かりは一切なし。道はただひたすら直線に伸びている。対向車も非常に少ない。「これはヤバいか?」と警戒していると、タクシーのおっちゃんは「眠くなった」というような事をいって、車を停めて外にでた。外はほんのりと寒い。寒気を身に当てることによって眠気を覚まそうとしているのだろう。襲われるのではないということがわかって、ホッとした。さて、私もその時一緒に車の外に出たのだが、空が凄い事に成っている事にこの時初めて気づいた。空はまるでプラネタリウムのように星、星、星であった。月明かりで影ができるような夜の明るさを経験された方もいるだろう。あれに似ている。星明かりで影ができるほどは明るくない。しかし満天の星空である。天の川がハッキリ見える。天の川が白い。そう白く見えるのだ。英語で「ミルキーウェイ(ミルクの道)」と言うが、まさにその喩えの通り、ハッキリと白い帯が見える。四方には街灯や明かりがまったくない。しかも敦煌あたりは砂漠が近く、田舎で空気も澄んでいる。その気候がこれほどの星空を作っているのだろう。オリオン座を発見する。だが、オリオン座の中に無数の星を発見できるほど、多くの星が見えるのだ。日本でオリオン座を見ると、ベテルギウスとシリウスがよく見えるだけで、あとはスカスカ。オリオン座の中にある星などは見えず、ただ暗闇だけであるが、ここ中国柳園付近はそうではない。天の川が、まるで夜空にかかる「雲」のように、ハッキリと識別できる。これには本当に感動した。
さて、2時間が過ぎ、タクシーは敦煌市内まで来る。まだ夜明け前なので、町は暗い。街灯はついているが、人は活動している時間ではない。北京や西安とは大違いである。いよいよ西域に来たな、という感じがした。さて、タクシーのオヤジはこの辺りからそわそわし出した。私はタクシーに乗るときに、行き先を敦煌市内の○○ホテルに行ってくれと注文したのだが、いざ到着してみると、そのホテルは閉まっていた。私はもともと別に、ホテルに泊まるつもりはなかった。既に柳園に到着した時点で、次の行き先である吐魯蕃(トルファン)行きの切符を買ってしまっていたから、敦煌のホテルなんかに泊まるつもりは毛頭なかったのである。タクシーも2時間で150元という金額は、そんなに安くはないと思っていたので、敦煌の町まできたら、別のタクシーを探そうとしていたのだ。だから、ホテル前についた時点で、このオヤジとはおさらばしようと思っていたのである。だが、オヤジには「ホテルまで頼む」といってしまった以上、彼は代わりのホテルを探し出した。正直迷惑な話で、オヤジは「ここが良い」とか言い出して案内しだす。オヤジがそわそわしている。そうする理由は明らかだ。彼は私にホテルを確保させて、すぐにでも観光に連れ出したいのだ。要するにタクシー代を稼ごうと考えているのである。ここに至って、私はこのオヤジが疎ましくなってきた。オヤジ困ったことに一緒にロビーまでついて来るではないか。レセプションで私に代わって値段まで聞いている。額は忘れたが280元くらいだったと思う。高い。もともと泊まるつもりがないので、私は拒否してホテルを去る。

さて困った。もういい、あとは自分で探すというそぶりを見せても、このオヤジはなかなか私を放さない。「見つけた獲物は逃がさない」という感じの執拗さである。とはいえ、私としてもまだ暗い敦煌の街中で、タクシーを捜すのは心細い。そこで、このオヤジに敦煌の観光地である「莫高窟」まで連れて行ってもらってもいいかな・・・と思い始めた。執拗なオヤジの押しに負けたという感じだったかもしれない。値段をきくと往復で150元。ガイドブックには往復100元が目安と書いてあったので、高い。交渉するも、なかなかしぶとく値下げを受けないので、片道の75元にすることにした。帰りは違うタクシーを拾っていこうと考えたからである。
さて、交渉について一言。やはり交渉というのは「他にも選択肢はある」という状況下で行わないと負ける可能性が高い。故に早朝とか深夜などに交渉するのは極力避けるべきである。人がいないということは、それだけ心細くなり、交渉も有利に進められない。決裂を恐れてしまう。



さて、タクシーは莫高窟に向けて走り出す。莫高窟とは仏教遺跡のことで、これが作られ始めたのは五胡十六国の乱の頃である。三国志の100年ほど後の時代である。三国志は、魏の家来であった司馬懿がクーデターを起こし、その孫の司馬炎が「晋」の皇帝となる直前に終わる。その後、晋は内紛が起こり、江南に逃れ「東晋」になるが、華北は遊牧民族の打ち立てた王朝の勢力争いによって混乱期を迎える。
まず漢王朝と遊牧民族匈奴の王家の血が入った「劉淵」が、漢を打ち立てる(これは劉邦の漢とは連続していない)。その子が後継争いで内紛が起き、後継者争いに勝った劉淵の子孫が「趙」という国を打ちたて、皇帝に即位するが、後年家臣の裏切りによって趙は「前趙」「後趙」に分裂し、家臣の打ち立てた「後趙」に「前趙」は滅ぼされる。これも遊牧血統による王朝だが、ここにきて漢族のレコンキスタが始まり、漢人が反乱、「魏」を打ちたてる。(曹操の魏ではない。後の魏である)だが、この魏も傍若無人に振舞ったために、漢人にも背かれ、遼西から入ってきた鮮卑の部族が打ち立てた「前燕」に領土をもぎ取られていく。また同時に西側では、氐よ呼ばれるチベット系の遊牧民が打ち立てた「前秦」という国が同じく魏の領土を奪い、こうして魏は滅亡し、華北の西に前秦、東に前燕という国が睨み合う形となった。結果としては、西の前秦が前燕を圧倒して華北を統一することになるのだが、莫高窟はこの「前秦」がこの地を支配する時代に作られたようである。西暦355年、あるいは366年頃といわれている。隋、唐の時代もこの寺院は存続し、宋~元の時代になって廃れ、忘れられた存在になっていったという。莫高窟が栄華を誇ったのは4世紀~10世紀頃までの500年間といえる。

さて写真は、早朝の空。莫高窟手前の公安詰所においてである。来るのが早すぎたとみえて、まだ入場できないので、1時間ほどここで時間を潰すことになった。




莫高窟の拝観料は160元。しかもここでは撮影禁止となっている。カメラは持ち込むことができない。窟内は勿論、入場したら外からでも撮影はしてはいけない。うるさい公安が、まわりをウロウロして見張っている。写真は入場前の柵の外から撮ったものである。まぁ、この後iphoneで、盗み撮りすることになるのだが・・・。ここでタクシーのオヤジとはお別れする。妙に寂しそうな顔をしていたが、もう空は明るく、人も多く、タクシーも沢山いたので仕方がない。ここで日本のように甘い顔をしていると、トコトンまで付込まれるので、スイッチを切り替えて「帰りは遅くなるのでここでいいよ、じゃーね」と心を鬼にして断った。
外国では人格のスイッチを変えないと、カモられるので、精神的には疲れるけれどもビシッといわねばならない。






莫高窟といえば、この写真。あまりにも有名な建物の中には仏像が鎮座している。まるで奈良の東大寺のように、この中には巨大な仏像がいるのである。
その大きさは奈良の大仏よりも遥かに大きい。写真でお見せできないのが残念だがビックリする大きさである。




さて、iphoneでの盗み撮り写真については、次回に動画と共にUPしようと思う。