トルファンの歴史ほど複雑なものはない。とにかくこの中央アジアに近い地域は、様々な民族、国家が勃興し、そして衰退を繰り返してきた地域である。
簡単におさらいしてみよう。
1:古くは前漢の時代に車師国があった。
2:そこに匈奴が攻め込んできて車師国は匈奴の属国になった。
3:その後、漢の武帝が河西回廊を匈奴から奪い、そして車師国にも攻め込み、車師国は漢の属国となった。
4:漢が王莽によって一時的に崩壊。新建国の混乱で、車師は匈奴の元で独立し、ふたたび匈奴の属国となる。
5:光武帝の後漢の元に再び匈奴に侵攻し、またもや車師は漢の属国に。
6:匈奴と漢が、あいついでこの地に侵入し、そのつど車師はどちらかの属国になることを繰り替えす。匈奴が弱体化し、北匈奴・南匈奴に分裂してもこれが繰り返される。これが五胡十六国の乱までつづく。
7:五胡十六国の乱の最中も、華北の西側の勢力(前秦・後秦・北魏)などの属国になることを繰り返す。
8:匈奴系・もしくは月氏系ともいわれる北涼によって車師は滅ぼされ、高昌国となる。
9:高昌国は、かつて鮮卑の属国でありその後草原の覇者と成り代わったツングース系ともモンゴル系とも言われているが実態はよくわからない柔然という国に滅ぼされ、突厥のなどの影響下の元で王が立てられることが続いたが、最終的には唐に滅ぼされる。
10;唐の支配が弱まる9世紀から、天山ウイグル王国によってこの地は支配される。
11:モンゴル帝国に飲み込まれる
12:ティムール帝国に支配される
13:清、ジュンガル帝国で奪い合いになり、最終的には清が勝利し、清の支配下におかれる。
とまぁ、駆け足で大雑把に説明するとこういう歴史である。
いかにこの地の歴史が複雑なのかがお分かりいただけると思う。
さて、今回の写真はまず「高昌故城」から始めよう。一日タクシーチャーターの最初の観光場所は、ここ高昌故城である。
この城(実際には町)は、4世紀~唐の滅亡の9世紀辺りまで栄えたもので、玄奘三蔵も訪れたとか。
この遺跡についての詳しいことはあまり分かっていない。
玄奘三蔵の為に仏堂を立てたということくらしか知らない。現存する建築はたぶん唐の時代のものなのだろうが、詳しいことは申し訳ないが私の不勉強でよく分からない。
これが仏堂らしいが、よくわからん。
しかし、この写真の建築様式だけを見ると、ペルシャやギリシア、ローマの様式によく似ている。
穴が空いているのは、なんだろう?よく分からない。
この窪みには、仏さんの絵が描かれている。
この穴は、おそらく2階の境目なんだろう。西洋の建物(城)などの城跡にも同じような穴が等間隔に空いている。ここに木の柱を嵌めこんで、床板を載せたのだろうと思う。
写真右側に卵形にくぼんだ所には仏像があったのだろう。
むこうにアーチの門が見える。
建築様式を見る限りでは、中国風というよりかは西洋・ペルシア風というべきか。
そうは思いませんか?
ロバに乗るのは20元(往復)
油断すると40元取られるので注意。