もっとゆっくりと、時間が流れてくれればいいのに……。
昨夜の酒が残っている気怠い身体を、僕は無理矢理に起こした。だが、目覚めようとする気持ちとは裏腹に、半分も開かない重たい瞼。
そんな寝ぼけ眼のままベッドを降りて、ヨロヨロと窓際まで歩み寄った。いつもより、やたらと白さが増しているように感じられるカーテンを一気に開けると、二日酔いの神経には眩し過ぎる朝日が突き刺さってきた。顔を顰めながらも窓ガラスを開けると冷たい空気が鋭く入ってくる。僕は全身を目一杯伸ばし、大きく深呼吸して、新鮮な空気を体内に摂り込む。そして、吐き出す。こうすると、なんだか身体の中の悪いものも一緒に吐き出されてゆくような気がする。しかしそれは、やはり気のせいであるということが、何回かの深呼吸を繰り返しても一向に治まらない頭部の鈍痛から窺い知れる。
初秋の朝。外はやや冷え込んではいるものの寒さを感じるほどではない。なにより、好天に恵まれているので朝日の射し込む辺りは程よい暖かさがある。そのぬくもりに包まれながら、しばしの間ぼんやりと外を眺めていると、ついうつらうつらとしてしまう。
だが、今日は、こんなのんびりとはしていられないのだ……。
僕は先程の深呼吸とは一変して、小さな溜息を吐いた。と、同時に、ベッドが小さく揺れるのを目の端に捉える。
溜息の理由、《彼女》がベッドの片隅で微かな寝返りをうっていた。
○
もう、どれくらい経ったのだろう……。
彼女に振り回され続けている日々は。一ヶ月くらいか? いや、半年は経っただろうか? それとも……。
勝手気ままな彼女のおかげで、近頃では時間の感覚がとてもあやふやなものになってしまっている。彼女といると、なにもかもが夢心地なのだ。そもそも彼女の存在自体が、神秘的且つ空虚であるせいだ。
彼女は全くもって、つかみどころがない。あっちにフラフラこっちにフラフラ……それはまるで、種々の花の蜜に誘われる蝶の如く、ひとつ処に落ち着くことがない。だがその姿はとても優雅で気品に満ちていて、見ているものに厭味を与えることはない。むしろ癒しを与えてくれる。
彼女は媚びない。とても、クールだ。愛敬を振りまいて近付いてこようとする輩を、ことごとくあしらう。しかしその冷淡な振る舞いこそが、彼女の大いなる魅力となっていることは確かだ。その冷淡さの中で垣間見せる、彼女独特の愛くるしい上目遣い、そしてちょっぴりハスキーな甘え声。それらがなんとも蠱惑(こわく)的で、誰も彼もが彼女に魅了され、手を差し伸べずにはいられなくなる。
それは持って生まれた才能なのだろうか? はたまた、この世知辛い世の中を生き抜いてゆくために自然と身についた技術なのであろうか? 或いは、《女》の本能とでも言ったものであろうか?
それがどんなものであろうと、僕は構わない。すでに彼女の虜となった僕にとっては、彼女が傍にいることが何よりも重要なことなのだ。彼女と一緒にいる時間。それはとても穏やかで、優しさに満たされた心持ちになれる特別な時間。この時間が、ずっと続けばいい……。
しかし、永遠なんてものは、この世には存在しないようだ。平穏な世界がいつまでも続かないように、僕と彼女の穏やかな時間も、やがては終わる。その終わりの時が、刻一刻と迫ってきている。
その事を考えると頭がずんずん重たくなり、ともすれば胸焼けを起こし胃酸がせり上がってくるようだ。そりゃ、二日酔いのせいもあるだろうけど、なにより彼女との終わりに打ちひしがれる心痛によるところが大きい。
などと、少々嘔吐(えず)きながら思っていたら、また彼女が寝返りをうち、こちらのほうに顔を向けた。僕はそっと彼女の顔を覗き込む。
まだ僅かに、あどけなさを残したその寝顔は、朝日の眩しさを感じてか、眉間の辺りにやや険しさを表している。彼女はその眩しさから逃げるようにゴロリと身体を反転させ、元の位置よりも、もう少し深くその身を布団に埋めて、また静かな寝息をたてはじめた。
そんな彼女の愛くるしい仕草を見ていると、自然と頬が緩み、心痛は緩和される。が、それと同時に耐え難い哀しみにも、襲われる。
「キミを見つめるほどに、愛しさと切なさが溢れてくるよ」
まだ抜けきっていないアルコールのせいだろう。我ながら陳腐でうすら寒いセリフを平然と吐いたのはいいが、すぐさま照れ臭くなり、そっとその場を離れて、キッチンへ二人分のコーヒーを淹れにいくことにした。
○
初めて彼女に出逢った日、外はひどい雨降りであった。仕事を終え、帰宅した僕はアパートの前にずぶ濡れの姿で佇んでいる彼女の姿を見つけた。彼女は微かに震えながらも、毅然とした表情で僕を見つめてきた。最初僕は、そのあまりにも不躾な視線に不信感を覚えはしたものの、瞳を逸らすことは出来なかった。それは彼女の瞳から、好奇や戸惑い、安心や不安、救援や拒絶、そんな様々な彩(いろ)が不安定に揺れているのが窺えた……ような気がしたから……。そしてそんな曖昧さの中において、一際僕に訴え出てきていたのは、「誘惑」の艶(いろ)であった……と思っている……。
従って僕は、一瞬の躊躇いはあったものの、ある種の予感めいた気持ちにとり憑かれ、玄関の鍵を開け、ドアを手で押し開いたまま、声もかけずに、ただ視線で促すようにして待ってみた。
彼女はそれを見てとると、さもそれが当然であるかのように、何の躊躇いもなく、優雅に歩き、やってきた。そして彼女はドアを支えている僕に一瞥もくれることなく部屋の中へ入っていった。
ドアを閉めた僕は、とりあえず彼女の濡れた身体をどうにかしなければと、すぐさまタオルを掛けてやったのだが、彼女は「自分で拭く気は更々なくてよ」といったふうに立ち尽くし、僕のほうを見遣る。仕方なく僕は、おずおずと手を伸ばし、タオルを手に取り、緊張しているのを気取られないように、そうっと撫でるように頭から足の爪先まで、ゆっくりと拭ってやった。彼女は恥らう様子もなく、目を閉じて気持ち良さそうな表情を見せる。時折うっすらと瞼を開け僕を見つめる。それはまるで、女王が下僕にささやかな許しを与えてやる、そんな眼差しであった。
彼女の白い肢体はとても滑らかで、ともすれば壊れてしまいそうなほど華奢であった。その繊細な身体を柔らかく包み込みたい、という気持ちと、壊れるまできつく抱きしめたい、という気持ちが心の裡で綯交ぜになってゆき、しだいに僕の欲望は狂おしい変貌を遂げていった。
僕は完全に、彼女の魔力に陥ってしまった。
しばらくの間は僕の許に落ち着いていた彼女であったが、ある日の午後、いつものようにじゃれあった後、少し眠気がさしてきた僕が目を閉じていると、彼女が僕の頬に軽くキスしてくるのがわかった。僕は幸せのくすぐったさに包まれながら、するすると眠りに浸っていった。
ふと、目を覚ますと彼女の姿がどこにも見当たらなかった。この部屋にやってきて以来、一度も外に出たがらなかった彼女だったので、かなりの不安を感じたのだが、如何せん僕は彼女の素性をまったく知らないし、どんな行動範囲を持っているのかもわからないので、とにかく僕には、彼女が戻ってきてくれるのを待つほかなかった。
しかし僕は思いのほか彼女への依存が高くなっていたらしく、一日、二日と時が経つにつれて、不安と焦燥に胸を焦がされ、日常生活もままならない程になっていった。
街へ捜しに行ってみようか? でも、その間に戻ってきたら……。
そんな想いに駆られて身動きがとれない状態に陥っていた。
だがもちろん、仕事にも行かなければならない。何日かの有休を取って待ってみたりもしたが、それを続けるわけにもいかない。やむなく僕は日常に戻らざるを得なくなった。
四六時中、彼女のことを想いながら……。
そんなある日、偶然街中で彼女を見つけた。しかし彼女は誰とも知れぬ男に寄り添って歩いているところだった。僕は友人と一緒だったのだが思わず立ち止まり、その光景を凝視していた。不審を抱いた友人が僕の視線の先に目を遣った。
「ああ、アイツ、また違う人間に可愛がられてるみたいだな」
「知っているのか?」
僕は努めて冷静を装って訊ねた。
「この辺じゃ有名だぜ。色んな奴のところを渡り歩いてるって、まぁそれがアイツの生き方なんだろうけれど……あ、もしかして、お前もアイツと関わったことがあるクチか?」
「ハハッ……まさか」
友人は些か疑いの眼差しを向けてはきたが、それ以上の言及はせず、巷に流れる彼女の噂を一通り教えてくれた。
彼女のことを「アイツ」と馴れ馴れしく呼ぶところが気に障るが、どうもその口ぶりからして、コイツも彼女に振り回された一人なのではないか? と思えてきて、幾分同情的にもなれた……ような気もした。
友人と別れて部屋に帰った僕は、寂寥感と遣る瀬無さに打ちひしがれた。彼女にとっては自分も大勢いるパトロンの一人に過ぎないのか、と。
それでも逢いたい。そしてもう一度、彼女に触れたい。そう切実に願わずにはいられなかった。
そんな身を切るような想いが通じたのか、数日後、彼女が戻ってきた。初めて出逢った時と同じ、雨降りの夜に。
鬱々としながらも、僕は虫の知らせめいたものに衝き動かされ、玄関のドアをそっと開けてみた。するとそこにはあの日と同じように、ずぶ濡れになりながらも毅然とした面持ちで佇んでいる彼女の姿があった。僕は歓喜のあまり思わず叫びだしそうになったが、それをグッと堪え、そろそろとドアを開け放ち、彼女を迎え入れるようにした。彼女は以前と変わらず、なんら躊躇うことも、そして悪びれる様子もなく、部屋に戻ってきた。
その姿に僕は、ただただ狂おしいほどの愛しさを感じ、もう振り回されようが裏切られようが構わない。とにかく今、この瞬間、彼女が傍にいるという現実を、この時間を、大切にしようと心に決めたのだ。
○
二人分のコーヒーが沸くと同時に、来訪を告げるベルの音が部屋中に鳴り響いた。ベッドの彼女はそれに反応して、「ビクリ」と小さな身体を揺らす。そうして目を覚ました彼女は玄関のほうを警戒するように見つめた。そんな彼女を、僕はそっと撫でながら、「ここで待ってな」と言い置いて、まさに絶望の縁を歩くように玄関口へと向かった。
ついに、この時が来てしまったか……。
僕は昨夜からこの時のことばかり考えながら酒を飲んでいた。そこから逃げよう逃げようとするために、ついつい飲み過ぎた。でも、それでよかったと思う。未だぼんやりと残っているアルコールの力を借りなければ、到底耐えられる現実ではないのだから。
玄関口でそんな思いを巡らせていると、再度ベルが鳴り響いた。一先ず深呼吸をして、覚悟を決めると、誰なのかは知れているのだが「はい……どちら様?」と訊ねてみた。
「わたしよ! 早く開けてよ!」
予想通り。ドアの向こうから荒立たしげに怒鳴ってくるのは、僕の《カノジョ》加奈子であった。
僕は鍵を外し、薄くドアを開いた。
「まだいるんでしょ! アイツ! どういうつもりよ、今日中に追い出してって言ったでしょ!」
「いや、今日中って……まだ、朝じゃないか……」
朝っぱらから、玄関前にも関わらず怒鳴り声をあげる加奈子に圧倒されながらも、とにかく中へ入るように促した。
「嫌よ! それよりアイツを早く追い出してよっ!」
取り付く島もない。
部屋の奥に目を遣ると明らかに彼女は怯えている。気の強い彼女をこれ程までに怯えさす加奈子に、今更ながら戦慄を覚えた。
僕はうろたえながらも彼女に「大丈夫だから」と声を掛けるが、「大丈夫じゃないわよ!」と加奈子に喚かれ、確かに大丈夫ではないな……と、しどろもどろの態ではあるが、とにかく加奈子に落ち着いてもらおうと懸命に宥め透かしてみた。それでも頑として中に入ろうとしない加奈子であったが、程なく、騒ぎに気付いた隣近所の人たちが好奇の視線をもってチラホラと顔を覗かせてきたので、やむなく部屋に入らざるを得なくなった。
加奈子は彼女のいる奥の部屋を睨んだまま靴を脱ぎ、深い溜息と共にキッチンの椅子に腰を下ろした。
僕は〝加奈子のために淹れておいたコーヒー〟を、自分の分と均等にカップへ注いで、テーブルに置いた。
「何よ、それ」
「え? いやぁ、加奈子が来るって分かってたから、加奈子の分のコーヒーも淹れておいたんだけど……」
「じゃなくて、その、テーブルの隅っこにあるモノのことよ」
それは、熱いモノが苦手な彼女のために、一度温めてから適温に冷ますために置いてあるミルクのことだった。朝食も用意してある。
「ねぇ、わたしはあなたのなんなの?」
僕は加奈子の視線を逸らしながら、「カノジョ、です……」と答えた。
「そうよね。だったら分かるでしょ? 自分がどんなにひどいことをしているかって。わたしが来るのを分かっていたのに、それでもアイツを追い出していない! しかも呑気に朝食まで用意している!」
ぐんぐんヒートアップしてゆく加奈子を慌てて制する。
「よせよ! さっきから彼女は怯えきっているんだ。本当に、これで最後だから。これを食べたら出て行ってもらうから」
少しきつい口調で言うと加奈子はうな垂れてしまった。でもすぐに顔を上げ、救いを求めるように訊いてきた。
「わたしはあなたの、カノジョなのよね?」
僕は強く頷く。
「なら、わたしのこの苦しみも、分かってくれてるのよね?」
また、頷く。
「だったら早くしてよ! もうわたし、耐えられないのよ!」
今にも発狂しそうな勢いの加奈子が、次第に鼻声になり、涙目になってゆく。
「わたし、アイツの噂、聞いたわよ。ひどいもんじゃない……今ここを追い出されたって、すぐにまた、別の誰かのところへ身を寄せるんでしょうよ。あなたに恩なんてちっとも感じることなく……」
「よせ! もういい! 分かったから、もう本当に、今日で終わりにするんだから!」
彼女のことなんてちっとも知らないくせに、噂話だけを鵜呑みにして彼女のことを中傷する加奈子に憤り、叫んだ。
ついに堪え切れなくなったのか、加奈子は涙をボロボロと零しだした。鼻水も、とめどもなく。
「だってあなた、このところアイツのことばっかりで、わたしのことなんてちっとも考えてくれてやしないでしょ? わたし、淋しくって……悔しくって……」
ぐしゃぐしゃになりながら加奈子は切実に訴えてくる。そんな加奈子を見ていると、己の欲望のためだけに大切な人を傷付けてしまっていた自分が、今更ながらとても卑しく愚かしい、恥ずべき人間に思えてならなくなってきた。
「わたしのこと、嫌な女だと思ってるんでしょ……でも、こればっかりはどうしようもないのよ……」
僕はそっと加奈子を抱き寄せて首を振る。
「悪いのは、僕だ。ごめんよ……つらい想いをさせて」
僕らは久しぶりに、互いの存在を確かめるように、静かに、きつく、抱きしめ合った。
そんな、いい雰囲気の二人の足元に、いいかげん腹を空かせたらしい『彼女』が懇願するように擦り寄ってきた。
「ミャア~」
猫アレルギー体質の加奈子がそれに気付き、僕の体を思いっきり突き放し罵声を浴びせる。
「さっさとこの猫追い出してよっ! もう、さっきから目と鼻が痒くて痒くてしょうがないんだから!」
すでに加奈子の怒声には慣れたのか? それとも余程腹が減っているのか? 彼女は僕らの諍いなど物ともせず、テーブルに跳び乗ると、程よい冷め具合となったミルクを舐めはじめた。
(了)
昨夜の酒が残っている気怠い身体を、僕は無理矢理に起こした。だが、目覚めようとする気持ちとは裏腹に、半分も開かない重たい瞼。
そんな寝ぼけ眼のままベッドを降りて、ヨロヨロと窓際まで歩み寄った。いつもより、やたらと白さが増しているように感じられるカーテンを一気に開けると、二日酔いの神経には眩し過ぎる朝日が突き刺さってきた。顔を顰めながらも窓ガラスを開けると冷たい空気が鋭く入ってくる。僕は全身を目一杯伸ばし、大きく深呼吸して、新鮮な空気を体内に摂り込む。そして、吐き出す。こうすると、なんだか身体の中の悪いものも一緒に吐き出されてゆくような気がする。しかしそれは、やはり気のせいであるということが、何回かの深呼吸を繰り返しても一向に治まらない頭部の鈍痛から窺い知れる。
初秋の朝。外はやや冷え込んではいるものの寒さを感じるほどではない。なにより、好天に恵まれているので朝日の射し込む辺りは程よい暖かさがある。そのぬくもりに包まれながら、しばしの間ぼんやりと外を眺めていると、ついうつらうつらとしてしまう。
だが、今日は、こんなのんびりとはしていられないのだ……。
僕は先程の深呼吸とは一変して、小さな溜息を吐いた。と、同時に、ベッドが小さく揺れるのを目の端に捉える。
溜息の理由、《彼女》がベッドの片隅で微かな寝返りをうっていた。
○
もう、どれくらい経ったのだろう……。
彼女に振り回され続けている日々は。一ヶ月くらいか? いや、半年は経っただろうか? それとも……。
勝手気ままな彼女のおかげで、近頃では時間の感覚がとてもあやふやなものになってしまっている。彼女といると、なにもかもが夢心地なのだ。そもそも彼女の存在自体が、神秘的且つ空虚であるせいだ。
彼女は全くもって、つかみどころがない。あっちにフラフラこっちにフラフラ……それはまるで、種々の花の蜜に誘われる蝶の如く、ひとつ処に落ち着くことがない。だがその姿はとても優雅で気品に満ちていて、見ているものに厭味を与えることはない。むしろ癒しを与えてくれる。
彼女は媚びない。とても、クールだ。愛敬を振りまいて近付いてこようとする輩を、ことごとくあしらう。しかしその冷淡な振る舞いこそが、彼女の大いなる魅力となっていることは確かだ。その冷淡さの中で垣間見せる、彼女独特の愛くるしい上目遣い、そしてちょっぴりハスキーな甘え声。それらがなんとも蠱惑(こわく)的で、誰も彼もが彼女に魅了され、手を差し伸べずにはいられなくなる。
それは持って生まれた才能なのだろうか? はたまた、この世知辛い世の中を生き抜いてゆくために自然と身についた技術なのであろうか? 或いは、《女》の本能とでも言ったものであろうか?
それがどんなものであろうと、僕は構わない。すでに彼女の虜となった僕にとっては、彼女が傍にいることが何よりも重要なことなのだ。彼女と一緒にいる時間。それはとても穏やかで、優しさに満たされた心持ちになれる特別な時間。この時間が、ずっと続けばいい……。
しかし、永遠なんてものは、この世には存在しないようだ。平穏な世界がいつまでも続かないように、僕と彼女の穏やかな時間も、やがては終わる。その終わりの時が、刻一刻と迫ってきている。
その事を考えると頭がずんずん重たくなり、ともすれば胸焼けを起こし胃酸がせり上がってくるようだ。そりゃ、二日酔いのせいもあるだろうけど、なにより彼女との終わりに打ちひしがれる心痛によるところが大きい。
などと、少々嘔吐(えず)きながら思っていたら、また彼女が寝返りをうち、こちらのほうに顔を向けた。僕はそっと彼女の顔を覗き込む。
まだ僅かに、あどけなさを残したその寝顔は、朝日の眩しさを感じてか、眉間の辺りにやや険しさを表している。彼女はその眩しさから逃げるようにゴロリと身体を反転させ、元の位置よりも、もう少し深くその身を布団に埋めて、また静かな寝息をたてはじめた。
そんな彼女の愛くるしい仕草を見ていると、自然と頬が緩み、心痛は緩和される。が、それと同時に耐え難い哀しみにも、襲われる。
「キミを見つめるほどに、愛しさと切なさが溢れてくるよ」
まだ抜けきっていないアルコールのせいだろう。我ながら陳腐でうすら寒いセリフを平然と吐いたのはいいが、すぐさま照れ臭くなり、そっとその場を離れて、キッチンへ二人分のコーヒーを淹れにいくことにした。
○
初めて彼女に出逢った日、外はひどい雨降りであった。仕事を終え、帰宅した僕はアパートの前にずぶ濡れの姿で佇んでいる彼女の姿を見つけた。彼女は微かに震えながらも、毅然とした表情で僕を見つめてきた。最初僕は、そのあまりにも不躾な視線に不信感を覚えはしたものの、瞳を逸らすことは出来なかった。それは彼女の瞳から、好奇や戸惑い、安心や不安、救援や拒絶、そんな様々な彩(いろ)が不安定に揺れているのが窺えた……ような気がしたから……。そしてそんな曖昧さの中において、一際僕に訴え出てきていたのは、「誘惑」の艶(いろ)であった……と思っている……。
従って僕は、一瞬の躊躇いはあったものの、ある種の予感めいた気持ちにとり憑かれ、玄関の鍵を開け、ドアを手で押し開いたまま、声もかけずに、ただ視線で促すようにして待ってみた。
彼女はそれを見てとると、さもそれが当然であるかのように、何の躊躇いもなく、優雅に歩き、やってきた。そして彼女はドアを支えている僕に一瞥もくれることなく部屋の中へ入っていった。
ドアを閉めた僕は、とりあえず彼女の濡れた身体をどうにかしなければと、すぐさまタオルを掛けてやったのだが、彼女は「自分で拭く気は更々なくてよ」といったふうに立ち尽くし、僕のほうを見遣る。仕方なく僕は、おずおずと手を伸ばし、タオルを手に取り、緊張しているのを気取られないように、そうっと撫でるように頭から足の爪先まで、ゆっくりと拭ってやった。彼女は恥らう様子もなく、目を閉じて気持ち良さそうな表情を見せる。時折うっすらと瞼を開け僕を見つめる。それはまるで、女王が下僕にささやかな許しを与えてやる、そんな眼差しであった。
彼女の白い肢体はとても滑らかで、ともすれば壊れてしまいそうなほど華奢であった。その繊細な身体を柔らかく包み込みたい、という気持ちと、壊れるまできつく抱きしめたい、という気持ちが心の裡で綯交ぜになってゆき、しだいに僕の欲望は狂おしい変貌を遂げていった。
僕は完全に、彼女の魔力に陥ってしまった。
しばらくの間は僕の許に落ち着いていた彼女であったが、ある日の午後、いつものようにじゃれあった後、少し眠気がさしてきた僕が目を閉じていると、彼女が僕の頬に軽くキスしてくるのがわかった。僕は幸せのくすぐったさに包まれながら、するすると眠りに浸っていった。
ふと、目を覚ますと彼女の姿がどこにも見当たらなかった。この部屋にやってきて以来、一度も外に出たがらなかった彼女だったので、かなりの不安を感じたのだが、如何せん僕は彼女の素性をまったく知らないし、どんな行動範囲を持っているのかもわからないので、とにかく僕には、彼女が戻ってきてくれるのを待つほかなかった。
しかし僕は思いのほか彼女への依存が高くなっていたらしく、一日、二日と時が経つにつれて、不安と焦燥に胸を焦がされ、日常生活もままならない程になっていった。
街へ捜しに行ってみようか? でも、その間に戻ってきたら……。
そんな想いに駆られて身動きがとれない状態に陥っていた。
だがもちろん、仕事にも行かなければならない。何日かの有休を取って待ってみたりもしたが、それを続けるわけにもいかない。やむなく僕は日常に戻らざるを得なくなった。
四六時中、彼女のことを想いながら……。
そんなある日、偶然街中で彼女を見つけた。しかし彼女は誰とも知れぬ男に寄り添って歩いているところだった。僕は友人と一緒だったのだが思わず立ち止まり、その光景を凝視していた。不審を抱いた友人が僕の視線の先に目を遣った。
「ああ、アイツ、また違う人間に可愛がられてるみたいだな」
「知っているのか?」
僕は努めて冷静を装って訊ねた。
「この辺じゃ有名だぜ。色んな奴のところを渡り歩いてるって、まぁそれがアイツの生き方なんだろうけれど……あ、もしかして、お前もアイツと関わったことがあるクチか?」
「ハハッ……まさか」
友人は些か疑いの眼差しを向けてはきたが、それ以上の言及はせず、巷に流れる彼女の噂を一通り教えてくれた。
彼女のことを「アイツ」と馴れ馴れしく呼ぶところが気に障るが、どうもその口ぶりからして、コイツも彼女に振り回された一人なのではないか? と思えてきて、幾分同情的にもなれた……ような気もした。
友人と別れて部屋に帰った僕は、寂寥感と遣る瀬無さに打ちひしがれた。彼女にとっては自分も大勢いるパトロンの一人に過ぎないのか、と。
それでも逢いたい。そしてもう一度、彼女に触れたい。そう切実に願わずにはいられなかった。
そんな身を切るような想いが通じたのか、数日後、彼女が戻ってきた。初めて出逢った時と同じ、雨降りの夜に。
鬱々としながらも、僕は虫の知らせめいたものに衝き動かされ、玄関のドアをそっと開けてみた。するとそこにはあの日と同じように、ずぶ濡れになりながらも毅然とした面持ちで佇んでいる彼女の姿があった。僕は歓喜のあまり思わず叫びだしそうになったが、それをグッと堪え、そろそろとドアを開け放ち、彼女を迎え入れるようにした。彼女は以前と変わらず、なんら躊躇うことも、そして悪びれる様子もなく、部屋に戻ってきた。
その姿に僕は、ただただ狂おしいほどの愛しさを感じ、もう振り回されようが裏切られようが構わない。とにかく今、この瞬間、彼女が傍にいるという現実を、この時間を、大切にしようと心に決めたのだ。
○
二人分のコーヒーが沸くと同時に、来訪を告げるベルの音が部屋中に鳴り響いた。ベッドの彼女はそれに反応して、「ビクリ」と小さな身体を揺らす。そうして目を覚ました彼女は玄関のほうを警戒するように見つめた。そんな彼女を、僕はそっと撫でながら、「ここで待ってな」と言い置いて、まさに絶望の縁を歩くように玄関口へと向かった。
ついに、この時が来てしまったか……。
僕は昨夜からこの時のことばかり考えながら酒を飲んでいた。そこから逃げよう逃げようとするために、ついつい飲み過ぎた。でも、それでよかったと思う。未だぼんやりと残っているアルコールの力を借りなければ、到底耐えられる現実ではないのだから。
玄関口でそんな思いを巡らせていると、再度ベルが鳴り響いた。一先ず深呼吸をして、覚悟を決めると、誰なのかは知れているのだが「はい……どちら様?」と訊ねてみた。
「わたしよ! 早く開けてよ!」
予想通り。ドアの向こうから荒立たしげに怒鳴ってくるのは、僕の《カノジョ》加奈子であった。
僕は鍵を外し、薄くドアを開いた。
「まだいるんでしょ! アイツ! どういうつもりよ、今日中に追い出してって言ったでしょ!」
「いや、今日中って……まだ、朝じゃないか……」
朝っぱらから、玄関前にも関わらず怒鳴り声をあげる加奈子に圧倒されながらも、とにかく中へ入るように促した。
「嫌よ! それよりアイツを早く追い出してよっ!」
取り付く島もない。
部屋の奥に目を遣ると明らかに彼女は怯えている。気の強い彼女をこれ程までに怯えさす加奈子に、今更ながら戦慄を覚えた。
僕はうろたえながらも彼女に「大丈夫だから」と声を掛けるが、「大丈夫じゃないわよ!」と加奈子に喚かれ、確かに大丈夫ではないな……と、しどろもどろの態ではあるが、とにかく加奈子に落ち着いてもらおうと懸命に宥め透かしてみた。それでも頑として中に入ろうとしない加奈子であったが、程なく、騒ぎに気付いた隣近所の人たちが好奇の視線をもってチラホラと顔を覗かせてきたので、やむなく部屋に入らざるを得なくなった。
加奈子は彼女のいる奥の部屋を睨んだまま靴を脱ぎ、深い溜息と共にキッチンの椅子に腰を下ろした。
僕は〝加奈子のために淹れておいたコーヒー〟を、自分の分と均等にカップへ注いで、テーブルに置いた。
「何よ、それ」
「え? いやぁ、加奈子が来るって分かってたから、加奈子の分のコーヒーも淹れておいたんだけど……」
「じゃなくて、その、テーブルの隅っこにあるモノのことよ」
それは、熱いモノが苦手な彼女のために、一度温めてから適温に冷ますために置いてあるミルクのことだった。朝食も用意してある。
「ねぇ、わたしはあなたのなんなの?」
僕は加奈子の視線を逸らしながら、「カノジョ、です……」と答えた。
「そうよね。だったら分かるでしょ? 自分がどんなにひどいことをしているかって。わたしが来るのを分かっていたのに、それでもアイツを追い出していない! しかも呑気に朝食まで用意している!」
ぐんぐんヒートアップしてゆく加奈子を慌てて制する。
「よせよ! さっきから彼女は怯えきっているんだ。本当に、これで最後だから。これを食べたら出て行ってもらうから」
少しきつい口調で言うと加奈子はうな垂れてしまった。でもすぐに顔を上げ、救いを求めるように訊いてきた。
「わたしはあなたの、カノジョなのよね?」
僕は強く頷く。
「なら、わたしのこの苦しみも、分かってくれてるのよね?」
また、頷く。
「だったら早くしてよ! もうわたし、耐えられないのよ!」
今にも発狂しそうな勢いの加奈子が、次第に鼻声になり、涙目になってゆく。
「わたし、アイツの噂、聞いたわよ。ひどいもんじゃない……今ここを追い出されたって、すぐにまた、別の誰かのところへ身を寄せるんでしょうよ。あなたに恩なんてちっとも感じることなく……」
「よせ! もういい! 分かったから、もう本当に、今日で終わりにするんだから!」
彼女のことなんてちっとも知らないくせに、噂話だけを鵜呑みにして彼女のことを中傷する加奈子に憤り、叫んだ。
ついに堪え切れなくなったのか、加奈子は涙をボロボロと零しだした。鼻水も、とめどもなく。
「だってあなた、このところアイツのことばっかりで、わたしのことなんてちっとも考えてくれてやしないでしょ? わたし、淋しくって……悔しくって……」
ぐしゃぐしゃになりながら加奈子は切実に訴えてくる。そんな加奈子を見ていると、己の欲望のためだけに大切な人を傷付けてしまっていた自分が、今更ながらとても卑しく愚かしい、恥ずべき人間に思えてならなくなってきた。
「わたしのこと、嫌な女だと思ってるんでしょ……でも、こればっかりはどうしようもないのよ……」
僕はそっと加奈子を抱き寄せて首を振る。
「悪いのは、僕だ。ごめんよ……つらい想いをさせて」
僕らは久しぶりに、互いの存在を確かめるように、静かに、きつく、抱きしめ合った。
そんな、いい雰囲気の二人の足元に、いいかげん腹を空かせたらしい『彼女』が懇願するように擦り寄ってきた。
「ミャア~」
猫アレルギー体質の加奈子がそれに気付き、僕の体を思いっきり突き放し罵声を浴びせる。
「さっさとこの猫追い出してよっ! もう、さっきから目と鼻が痒くて痒くてしょうがないんだから!」
すでに加奈子の怒声には慣れたのか? それとも余程腹が減っているのか? 彼女は僕らの諍いなど物ともせず、テーブルに跳び乗ると、程よい冷め具合となったミルクを舐めはじめた。
(了)
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