>ブラジルのボルソナロ大統領はツイッターに日本で花見に集まった人々の動画を載せ、「これが日本のウイルスだ。自宅待機を要請しても混乱とウイルスが同時に起きるだけだ」と皮肉った。
という記事を読みました。
「これが日本のウイルス」という言い方にはけっこう賛成はするが・・・
日本人は桜が咲く頃にそわそわして花見に行かねばと、もぞもぞする遺伝子を大方の人が持ち合わせているのではないかと思います。いわば「桜もぞもぞウイルス」((^_^))
例えば、次の「古今和歌集」に出てくる和歌。中学の国語の教科書にあります。
桜が咲くと、のどかな気持ちでいられない、散らないうちに行かねば、の思いがあふれています。
桜の花の散るをよめる 紀友則
久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
(ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しずこころなく はなのちるらん)
「久方」は光など天文に関わる言葉につく枕詞、語調を調える言葉の1つで意味はありません。
解釈は、春ののどかな日なのに、なぜ桜はせわしなく散ってしまうのだろうか
(もう少し咲いておいてほしいものだなあ)
次は 新古今和歌集に収録されている和歌。これも教科書に載っています。
藤原定家
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮
(みわたせば はなももみじも なかりけり うらのとまやの あきのゆうぐれ)
解釈は、見渡してみても、桜も紅葉も見たらないなあ。入り江に粗末な漁師小屋だけある、なんとわびしい秋の夕暮れであろうか,という感じです。
花=桜・・平安以降、古文で「花」と出てきたら「桜」と考えて、と私は教えています。
ちなみに奈良時代は,花=梅でした。
うら寂しい秋の夕暮れを見ても、歌人(詩人)達の脳裏には桜があったのです。そして、秋の紅葉が「見えた」のですね。
最後は次の和歌。
西行法師
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ
(ねがわくは さくらのしたにて はるしなん そのきさらぎの もちづきのころ)
平安末期、武士から出家僧となった佐藤義清。西行法師として、全国を行脚します。
そしてその最晩年に歌ったのがこれ、です。
叶うならば、桜が咲いたその下で死にたい、時は如月(旧暦2月、今の3月下旬)の望月(満月)のころに。
如月の望月の頃というのは、お釈迦様が涅槃にはいられた日(亡くなられた日)でもあります。歌人としての願いと僧としての思いがこめられているわけです。
穏やかな春の日の中で咲く桜、風もないのにちらりちらちらと散る・・そんな中で夢うつつで死ねたら・・気持ちいいだろうな。
私も西行法師に共感します。
実際、西行法師はこの歌のとおりに2月15日を一日過ぎた2月16日に亡くなっていることです。言行一致?です。凄すぎ!
国語塾のブログらしく、ここまで書いてきましたが。
そもそも日本人にとって,春は別れと出会いの季節です。
「入学式に桜が咲いているといいね」いうのは、よく聞きます。
春の日差しを写すぴかぴかのランドセルを背負った1年生に桜が散る情景はまさに日本の4月。
日本人は「桜キチガイ」「桜狂い」なのです。
得体の知れない新型コロナウイルスが怖くても、遺伝子レベルでそわそわして、つい散策したくなる・・・これはやはり一種「気狂い」ですね。
そうそう「桜狩り」という言葉も平安時代からあります。コロナ疲れで桜狩りに出かけた方々、どうか感染していませんように、クラスターとなられませんようにと祈るばかり。
しかしまあ、巣ごもりがベストです。
小池知事ではありませんが、桜は来年も咲きます、って。
という記事を読みました。
「これが日本のウイルス」という言い方にはけっこう賛成はするが・・・
日本人は桜が咲く頃にそわそわして花見に行かねばと、もぞもぞする遺伝子を大方の人が持ち合わせているのではないかと思います。いわば「桜もぞもぞウイルス」((^_^))
例えば、次の「古今和歌集」に出てくる和歌。中学の国語の教科書にあります。
桜が咲くと、のどかな気持ちでいられない、散らないうちに行かねば、の思いがあふれています。
桜の花の散るをよめる 紀友則
久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
(ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しずこころなく はなのちるらん)
「久方」は光など天文に関わる言葉につく枕詞、語調を調える言葉の1つで意味はありません。
解釈は、春ののどかな日なのに、なぜ桜はせわしなく散ってしまうのだろうか
(もう少し咲いておいてほしいものだなあ)
次は 新古今和歌集に収録されている和歌。これも教科書に載っています。
藤原定家
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮
(みわたせば はなももみじも なかりけり うらのとまやの あきのゆうぐれ)
解釈は、見渡してみても、桜も紅葉も見たらないなあ。入り江に粗末な漁師小屋だけある、なんとわびしい秋の夕暮れであろうか,という感じです。
花=桜・・平安以降、古文で「花」と出てきたら「桜」と考えて、と私は教えています。
ちなみに奈良時代は,花=梅でした。
うら寂しい秋の夕暮れを見ても、歌人(詩人)達の脳裏には桜があったのです。そして、秋の紅葉が「見えた」のですね。
最後は次の和歌。
西行法師
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ
(ねがわくは さくらのしたにて はるしなん そのきさらぎの もちづきのころ)
平安末期、武士から出家僧となった佐藤義清。西行法師として、全国を行脚します。
そしてその最晩年に歌ったのがこれ、です。
叶うならば、桜が咲いたその下で死にたい、時は如月(旧暦2月、今の3月下旬)の望月(満月)のころに。
如月の望月の頃というのは、お釈迦様が涅槃にはいられた日(亡くなられた日)でもあります。歌人としての願いと僧としての思いがこめられているわけです。
穏やかな春の日の中で咲く桜、風もないのにちらりちらちらと散る・・そんな中で夢うつつで死ねたら・・気持ちいいだろうな。
私も西行法師に共感します。
実際、西行法師はこの歌のとおりに2月15日を一日過ぎた2月16日に亡くなっていることです。言行一致?です。凄すぎ!
国語塾のブログらしく、ここまで書いてきましたが。
そもそも日本人にとって,春は別れと出会いの季節です。
「入学式に桜が咲いているといいね」いうのは、よく聞きます。
春の日差しを写すぴかぴかのランドセルを背負った1年生に桜が散る情景はまさに日本の4月。
日本人は「桜キチガイ」「桜狂い」なのです。
得体の知れない新型コロナウイルスが怖くても、遺伝子レベルでそわそわして、つい散策したくなる・・・これはやはり一種「気狂い」ですね。
そうそう「桜狩り」という言葉も平安時代からあります。コロナ疲れで桜狩りに出かけた方々、どうか感染していませんように、クラスターとなられませんようにと祈るばかり。
しかしまあ、巣ごもりがベストです。
小池知事ではありませんが、桜は来年も咲きます、って。