最近きいた教育と学びのはなし。忘れないうちに、メモ。
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「人が良くなろうとしている」ということを原点に考えたい。
なのに「教育」という言葉を口にしたとたん、
「人が良くなろうとしている」のではなくて、
「人を良くしてあげよう」という話になってしまう。
人は、そもそも、教えなければ学ばないのだろうか。
そうじゃない。
学びたいということが原点にあるからこそ、誰かに教えてもらいたいという話が正しいはずだろう。
それが、どうも「教育」という言葉を口にすると、「(私たちが)教えるから(彼らが)学ぶのだ」という勘違いにとらわれてしまう。
「教育」の結果としての「学習」ではなく、
「学ぶ」ということを根源に考えて、「学びたい」という人間が「教えてもらいたい」という気持ちになったときに、「教育」という活動があるのが本当ではないだろうか。
そして今、どうも、人々は「教えてもらいたくない」
「教えてもらうのはいやだ」という声が高まっている。
それが「学びからの逃走」だとか、「学ぶ意欲の低下」だとか言われているが、
それは、学びたくないからではない。
「教えるから学ぶのだ」というそのロジックに対する根源的な拒絶反応なのだと考えたい。
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ほんと、あの先生が話すといつも空気が変わる。
実践的なお話をしているわけじゃない。
証拠を持って話しているわけでもない。
でも、こうあるべきだろう、というメタ理論がいつも哲学的で、
こちらがはっとするような問いかけを持っている。
「数字にならないことしか本当じゃないの?」
「人間というのはきっとこんな存在だろう、きっとこれが本当だろう、そう思って追求するのが学問なんじゃないの? 数字になってもならなくても。」
ガツーン。
数字になることばかりを調整して集めて、それなりにデータとして表示して、
「はい、こんな成果がありました」って、
それは最初から偏っているのだよ、自分。
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「人が良くなろうとしている」ということを原点に考えたい。
なのに「教育」という言葉を口にしたとたん、
「人が良くなろうとしている」のではなくて、
「人を良くしてあげよう」という話になってしまう。
人は、そもそも、教えなければ学ばないのだろうか。
そうじゃない。
学びたいということが原点にあるからこそ、誰かに教えてもらいたいという話が正しいはずだろう。
それが、どうも「教育」という言葉を口にすると、「(私たちが)教えるから(彼らが)学ぶのだ」という勘違いにとらわれてしまう。
「教育」の結果としての「学習」ではなく、
「学ぶ」ということを根源に考えて、「学びたい」という人間が「教えてもらいたい」という気持ちになったときに、「教育」という活動があるのが本当ではないだろうか。
そして今、どうも、人々は「教えてもらいたくない」
「教えてもらうのはいやだ」という声が高まっている。
それが「学びからの逃走」だとか、「学ぶ意欲の低下」だとか言われているが、
それは、学びたくないからではない。
「教えるから学ぶのだ」というそのロジックに対する根源的な拒絶反応なのだと考えたい。
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ほんと、あの先生が話すといつも空気が変わる。
実践的なお話をしているわけじゃない。
証拠を持って話しているわけでもない。
でも、こうあるべきだろう、というメタ理論がいつも哲学的で、
こちらがはっとするような問いかけを持っている。
「数字にならないことしか本当じゃないの?」
「人間というのはきっとこんな存在だろう、きっとこれが本当だろう、そう思って追求するのが学問なんじゃないの? 数字になってもならなくても。」
ガツーン。
数字になることばかりを調整して集めて、それなりにデータとして表示して、
「はい、こんな成果がありました」って、
それは最初から偏っているのだよ、自分。