京極夏彦著、ぴあ刊
落語・狂言・講談の「豆腐小僧」「死に神」「狐狗狸噺」。
妖怪のお話は、人の心にひそむ「なにか」が形になったもの。
妖怪という存在には恐れや暗さのなかにも、どことなくユーモアがあり、親しみがある。
これは自分の心そのものだから。
もやもやに姿が与えられることによって、対象をそれとして認識することができ、
世界観のなかに居場所がうまれて、上手に整理できる。
迷信は、ときに必要。
だから思い出す人がいなくなったら、
人に必要とされなくなったら妖怪はいなくなってしまう。
「死に神」は、この本ではじめて読んだ物語だったけれども、
ついつい電車のなかで、声をあげて笑いそうになってしまった。
目の前で誰かが演じているのが見えるかのようなお話だった。
この本を読みながら電車に揺られ、ある人に会いにいき、
ちょうど目的地に着く直前に読み終わった。
昨日は、朝から怒りに心が曇りがちだったので、
会った当初は、あまり気分がのらず、気をつかわせてしまった。
全然関係ないのに、悪いことをしたと思う。
その後、なんとなく心のわだかまりを話していたら、
わたしが予想していたのとはまったく違う角度のことばをもらった。
そして、わたしの怒りも、しだいに愛嬌のある妖怪になっていった。
誰かと話すということは、ものごとを客観的にしていく作業。
相手を自分の思いどおりに支配しようとしていたら、人と話す楽しみなんかうまれない。
話しているうちに、
相手を尊重し守ることは、自分を尊重してもらい、守られることなんだなあ・・・、
となんとなく思った。
落語・狂言・講談の「豆腐小僧」「死に神」「狐狗狸噺」。
妖怪のお話は、人の心にひそむ「なにか」が形になったもの。
妖怪という存在には恐れや暗さのなかにも、どことなくユーモアがあり、親しみがある。
これは自分の心そのものだから。
もやもやに姿が与えられることによって、対象をそれとして認識することができ、
世界観のなかに居場所がうまれて、上手に整理できる。
迷信は、ときに必要。
だから思い出す人がいなくなったら、
人に必要とされなくなったら妖怪はいなくなってしまう。
「死に神」は、この本ではじめて読んだ物語だったけれども、
ついつい電車のなかで、声をあげて笑いそうになってしまった。
目の前で誰かが演じているのが見えるかのようなお話だった。
この本を読みながら電車に揺られ、ある人に会いにいき、
ちょうど目的地に着く直前に読み終わった。
昨日は、朝から怒りに心が曇りがちだったので、
会った当初は、あまり気分がのらず、気をつかわせてしまった。
全然関係ないのに、悪いことをしたと思う。
その後、なんとなく心のわだかまりを話していたら、
わたしが予想していたのとはまったく違う角度のことばをもらった。
そして、わたしの怒りも、しだいに愛嬌のある妖怪になっていった。
誰かと話すということは、ものごとを客観的にしていく作業。
相手を自分の思いどおりに支配しようとしていたら、人と話す楽しみなんかうまれない。
話しているうちに、
相手を尊重し守ることは、自分を尊重してもらい、守られることなんだなあ・・・、
となんとなく思った。