大好きなサッカー選手が、ある金融機関のチラシに出ていた。
顔のとなりには「夢」の文字。
最近、「夢」というキーワードは流行なのか。
確かに「夢」があれば、前に進めるのかもしれない。
「夢」があれば、毎日が楽しいかもしれない。
「夢」を実現していく情熱、精神的な強さと、ツキをもった人は素晴らしい。
周囲の人を元気にするかもしれない。
でも私は、「夢」をあきらめる強さも素晴らしいと思う。
というか、そう思いたい。
自分のことを振り返ってみると、やりたいことをあきらめた理由のほとんどは、
私以外の家族のことを慮った結果だった。
無理に自分を押し殺して、無理してあきらめる必要はなかったのかもしれない。
そして、
心のどこかに、家族を理由にして、努力することじたいをあきらめたのではないか、
自分に対して甘かったのではないか、という気持ちが残っている。
しょせん、私の「夢」など、私にとってその程度ではなかったのかと。
でも、あきらめた当時、私は「夢」を追うことを「わがまま」だと思っていた。
うちの経済状況では、将来、生活ができるかどうか不確かなものを、
いつまでも追いつづけていくような自分勝手はゆるされないんだから、と感じていた。
だから、「夢」は、ぜんぶ氷の下に閉じ込めた。
たまに溶け出して、うずいたこともあるけれども、そんな時はまた閉じ込めなおした。
「夢」なんて忘れてしまったほうが、よっぽど前向きに生きられた時期もあった。
そして、心のどこかが麻痺してしまったかもしれない。
でも、私にはその選択肢しかなかったと感じている。
もしかしたら、多くの人が「夢」をあきらめる理由は、
そんな自分勝手なことはゆるされない、という「他人に対するやさしさ」なのではないか。
いまの若い人は「夢」を持てないと、よく言われる。
でも、これは彼らの「やさしさ」の結果なのではないか。
子どもはわがままで、親は子どものためにがまんする、なんていう図式は、
観念と思い込みのなかにしかないと思う。
だから、私は「夢をもとう」というようなフレーズを見ると、
それだけで、イヤ~な気持ちになる。
「夢」があるからって、いいわけじゃない。
「夢」をあきらめないと前に進めないような、そんな時だってあるんだ、と言いたくなる。
まあ、そんなにアツくなることではないんだけど、
きれいな言葉でまとめないでよ、という気持ちが残る。
顔のとなりには「夢」の文字。
最近、「夢」というキーワードは流行なのか。
確かに「夢」があれば、前に進めるのかもしれない。
「夢」があれば、毎日が楽しいかもしれない。
「夢」を実現していく情熱、精神的な強さと、ツキをもった人は素晴らしい。
周囲の人を元気にするかもしれない。
でも私は、「夢」をあきらめる強さも素晴らしいと思う。
というか、そう思いたい。
自分のことを振り返ってみると、やりたいことをあきらめた理由のほとんどは、
私以外の家族のことを慮った結果だった。
無理に自分を押し殺して、無理してあきらめる必要はなかったのかもしれない。
そして、
心のどこかに、家族を理由にして、努力することじたいをあきらめたのではないか、
自分に対して甘かったのではないか、という気持ちが残っている。
しょせん、私の「夢」など、私にとってその程度ではなかったのかと。
でも、あきらめた当時、私は「夢」を追うことを「わがまま」だと思っていた。
うちの経済状況では、将来、生活ができるかどうか不確かなものを、
いつまでも追いつづけていくような自分勝手はゆるされないんだから、と感じていた。
だから、「夢」は、ぜんぶ氷の下に閉じ込めた。
たまに溶け出して、うずいたこともあるけれども、そんな時はまた閉じ込めなおした。
「夢」なんて忘れてしまったほうが、よっぽど前向きに生きられた時期もあった。
そして、心のどこかが麻痺してしまったかもしれない。
でも、私にはその選択肢しかなかったと感じている。
もしかしたら、多くの人が「夢」をあきらめる理由は、
そんな自分勝手なことはゆるされない、という「他人に対するやさしさ」なのではないか。
いまの若い人は「夢」を持てないと、よく言われる。
でも、これは彼らの「やさしさ」の結果なのではないか。
子どもはわがままで、親は子どものためにがまんする、なんていう図式は、
観念と思い込みのなかにしかないと思う。
だから、私は「夢をもとう」というようなフレーズを見ると、
それだけで、イヤ~な気持ちになる。
「夢」があるからって、いいわけじゃない。
「夢」をあきらめないと前に進めないような、そんな時だってあるんだ、と言いたくなる。
まあ、そんなにアツくなることではないんだけど、
きれいな言葉でまとめないでよ、という気持ちが残る。