少し前に、酔っぱらって「どこからがオリジナルの作品か」という話をした。
これだけメディアが発達すると、どこかで見たことがあるような作品、というのをたくさん目にする。
絵にしても音楽にしても、知らず知らずのうちにまねてしまうことはあるし、
故意にまねて自分の作品として発表する人も出てくる。
でも、ふと立ち止まって「オリジナルの作品とは」と考えてみると、
なかなか万人を説得できるような定義をワンフレーズで言い切ることは難しい。
文字は偉大な発明だけど、誰でも使えるものであって、それ自体は「作品」ではない。
でも、いったん「書」として紙に書かれると、それは「作品」になる。
何人もの人が同じ文字を書いたとしても、ある人が書いたものは「作品」として認められ、
また、違う人が書いたものは「作品」とは呼ばれない。
数ある芸術の世界の中でも、
特に「書」の世界は、文字という記号をベースとしているだけに、
「オリジナル」の定義がとても難しいと思う。
作者を知らされていない「書」を前にして、
「これは、オリジナルの作品だと思いますか」と聞かれたら、
きっと私は、答えにつまる。
誰か有名な人の真筆である可能性があるのか、などと考え過ぎて、
「誰の作品だと考えられているのですか?」と逆に聞くだろう。
そう思うと、拡大解釈して、
中国では、長い歴史上「書」がひとつの芸術界を為してきただけに、
彼らが「オリジナル作品」について、少し違う感覚を持っていても、
ある程度はしょうがないのではないかと思えてくる。
それに、誰もが知っているような超有名な作品でもない限り、
「ボクは作品として認めるよ」「いやいや、ボクは認めないね」というローカルルールのもと、
いろいろな人がいろいろなところで転載したり、
もじって使ったりしはじめるのは防ぎようがないので、
本当に著作権保護されている作品かどうかも、次第にわからなくなってしまう。
別にコピーを擁護するわけではないし、悪質な海賊版は取り締まるべきだとは思っている。
王羲之の書をまねて書いた自分の文字を発表して、
たとえそれでお金を儲けたとしても、「オリジナル作品への冒とく」とは誰も言わないだろう。
でも「これが王羲之の蘭亭序の真筆ですよ」と偽って商売をするのは詐欺だ。
ああ、そうか。
要は、相手をだまして商売をする詐欺かどうかが問題なのかな。
これだけメディアが発達すると、どこかで見たことがあるような作品、というのをたくさん目にする。
絵にしても音楽にしても、知らず知らずのうちにまねてしまうことはあるし、
故意にまねて自分の作品として発表する人も出てくる。
でも、ふと立ち止まって「オリジナルの作品とは」と考えてみると、
なかなか万人を説得できるような定義をワンフレーズで言い切ることは難しい。
文字は偉大な発明だけど、誰でも使えるものであって、それ自体は「作品」ではない。
でも、いったん「書」として紙に書かれると、それは「作品」になる。
何人もの人が同じ文字を書いたとしても、ある人が書いたものは「作品」として認められ、
また、違う人が書いたものは「作品」とは呼ばれない。
数ある芸術の世界の中でも、
特に「書」の世界は、文字という記号をベースとしているだけに、
「オリジナル」の定義がとても難しいと思う。
作者を知らされていない「書」を前にして、
「これは、オリジナルの作品だと思いますか」と聞かれたら、
きっと私は、答えにつまる。
誰か有名な人の真筆である可能性があるのか、などと考え過ぎて、
「誰の作品だと考えられているのですか?」と逆に聞くだろう。
そう思うと、拡大解釈して、
中国では、長い歴史上「書」がひとつの芸術界を為してきただけに、
彼らが「オリジナル作品」について、少し違う感覚を持っていても、
ある程度はしょうがないのではないかと思えてくる。
それに、誰もが知っているような超有名な作品でもない限り、
「ボクは作品として認めるよ」「いやいや、ボクは認めないね」というローカルルールのもと、
いろいろな人がいろいろなところで転載したり、
もじって使ったりしはじめるのは防ぎようがないので、
本当に著作権保護されている作品かどうかも、次第にわからなくなってしまう。
別にコピーを擁護するわけではないし、悪質な海賊版は取り締まるべきだとは思っている。
王羲之の書をまねて書いた自分の文字を発表して、
たとえそれでお金を儲けたとしても、「オリジナル作品への冒とく」とは誰も言わないだろう。
でも「これが王羲之の蘭亭序の真筆ですよ」と偽って商売をするのは詐欺だ。
ああ、そうか。
要は、相手をだまして商売をする詐欺かどうかが問題なのかな。