ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

オリジナル

2010-06-08 15:35:08 | Weblog
少し前に、酔っぱらって「どこからがオリジナルの作品か」という話をした。
これだけメディアが発達すると、どこかで見たことがあるような作品、というのをたくさん目にする。
絵にしても音楽にしても、知らず知らずのうちにまねてしまうことはあるし、
故意にまねて自分の作品として発表する人も出てくる。

でも、ふと立ち止まって「オリジナルの作品とは」と考えてみると、
なかなか万人を説得できるような定義をワンフレーズで言い切ることは難しい。

文字は偉大な発明だけど、誰でも使えるものであって、それ自体は「作品」ではない。
でも、いったん「書」として紙に書かれると、それは「作品」になる。
何人もの人が同じ文字を書いたとしても、ある人が書いたものは「作品」として認められ、
また、違う人が書いたものは「作品」とは呼ばれない。

数ある芸術の世界の中でも、
特に「書」の世界は、文字という記号をベースとしているだけに、
「オリジナル」の定義がとても難しいと思う。
作者を知らされていない「書」を前にして、
「これは、オリジナルの作品だと思いますか」と聞かれたら、
きっと私は、答えにつまる。
誰か有名な人の真筆である可能性があるのか、などと考え過ぎて、
「誰の作品だと考えられているのですか?」と逆に聞くだろう。

そう思うと、拡大解釈して、
中国では、長い歴史上「書」がひとつの芸術界を為してきただけに、
彼らが「オリジナル作品」について、少し違う感覚を持っていても、
ある程度はしょうがないのではないかと思えてくる。

それに、誰もが知っているような超有名な作品でもない限り、
「ボクは作品として認めるよ」「いやいや、ボクは認めないね」というローカルルールのもと、
いろいろな人がいろいろなところで転載したり、
もじって使ったりしはじめるのは防ぎようがないので、
本当に著作権保護されている作品かどうかも、次第にわからなくなってしまう。
別にコピーを擁護するわけではないし、悪質な海賊版は取り締まるべきだとは思っている。

王羲之の書をまねて書いた自分の文字を発表して、
たとえそれでお金を儲けたとしても、「オリジナル作品への冒とく」とは誰も言わないだろう。
でも「これが王羲之の蘭亭序の真筆ですよ」と偽って商売をするのは詐欺だ。
ああ、そうか。
要は、相手をだまして商売をする詐欺かどうかが問題なのかな。