明日は特別な日だ。
母と言葉が交わせなくなって、19年を迎える。
19年前の今日、いったいどんな会話をしただろう。
毎年、6月12日の前後には、いろいろなことを思い出し、懺悔をする。
いつも一番思うのは、
もし私が大学に行きたいなどと無理を言わなかったら、
母も過労で倒れるようなことはなく、
いまでも幸せに暮らせていたのではないか、ということだ。
そこまでの無理を強いて大学へ行って中国語を学ばせてもらったのに、
いま、それを活かしていない。
なにをやっているんだ、と思っている。
でも、今年はもうひとつ気づいたことがある。
母が倒れる少し前から、母はすごく疲れ、そしてイライラしていた。
なにかに追われているようで、しきりに、
「通帳や家の権利書はここに入っているから。一緒に写真を撮っておこう」と言われ、
私が「もうわかったから。やめてよ」と言うと、母は怒り始めた。
とにかく私にくっついてきて、
私が距離をおこうとすると、すごく怒られた。
そしてイライラしている母が疎ましくて、よけいに距離をとった。
あのとき、母の焦燥とちゃんと向き合い、
疲れの原因を解決するような話し合いをすべきだった。
私が一番後悔していたのは、大学へ行ったことではなくて、
おびえ、助けを求めていた母を見捨ててしまったことだったんだ。
思い出は、何年も経ったあとに、明確な言葉となって、
改めて心に刻まれることがある。
幼いころ、母に繰り返し言われたことは、
「心の目を大切にしなさい」ということだった。
心の目は、肉体の目と違って、視力が悪くなったことに気づきにくい。
だからこそ、心の目が曇らないように、いつも自分に問いかけなければならない。
そして、心の目を育ててくれるのは、自分の心の広さなのだから、
ものごとを見るときは、肉体の目だけでなくて、
心の目でも一緒に見つめるようにしなさい。
そう言われた。
というか、それしか言われなかったに近い。
怒られるときもしかられるときも、常に基準は私の心にある目だった。
だから、怒られても納得した。
93年に北京に1年間留学して、日本に戻ってきたあと、
当時は1年に1回くらいしか会わなかった父と会った。
日本はまだバブルで、ものやサービスのない中国から戻ってきた私からすると、
すごくすごく無駄が多くて、うわべで浮かれていて、居心地が悪かった。
父にそう言うと、
「コップの水ではなくて、海の水になればいいんだよ。海には、清い水も、
工場の排水も、ぜんぶ流れ込む。でも、海の水は海の水なんだ。
一握りの塩くらいでは、味もかわらない。最近こう思うんだよな」と言われた。
ふと立ち止まり、最近、自分の視野を広く保つ努力を怠っていたことに気づいた。
これ以上、道をそれていたら、それこそ両親の心の磁場に触れることすら
かなわなくなっていただろう。
いま、心の目を振り返る機会が訪れたことに感謝する。
母と言葉が交わせなくなって、19年を迎える。
19年前の今日、いったいどんな会話をしただろう。
毎年、6月12日の前後には、いろいろなことを思い出し、懺悔をする。
いつも一番思うのは、
もし私が大学に行きたいなどと無理を言わなかったら、
母も過労で倒れるようなことはなく、
いまでも幸せに暮らせていたのではないか、ということだ。
そこまでの無理を強いて大学へ行って中国語を学ばせてもらったのに、
いま、それを活かしていない。
なにをやっているんだ、と思っている。
でも、今年はもうひとつ気づいたことがある。
母が倒れる少し前から、母はすごく疲れ、そしてイライラしていた。
なにかに追われているようで、しきりに、
「通帳や家の権利書はここに入っているから。一緒に写真を撮っておこう」と言われ、
私が「もうわかったから。やめてよ」と言うと、母は怒り始めた。
とにかく私にくっついてきて、
私が距離をおこうとすると、すごく怒られた。
そしてイライラしている母が疎ましくて、よけいに距離をとった。
あのとき、母の焦燥とちゃんと向き合い、
疲れの原因を解決するような話し合いをすべきだった。
私が一番後悔していたのは、大学へ行ったことではなくて、
おびえ、助けを求めていた母を見捨ててしまったことだったんだ。
思い出は、何年も経ったあとに、明確な言葉となって、
改めて心に刻まれることがある。
幼いころ、母に繰り返し言われたことは、
「心の目を大切にしなさい」ということだった。
心の目は、肉体の目と違って、視力が悪くなったことに気づきにくい。
だからこそ、心の目が曇らないように、いつも自分に問いかけなければならない。
そして、心の目を育ててくれるのは、自分の心の広さなのだから、
ものごとを見るときは、肉体の目だけでなくて、
心の目でも一緒に見つめるようにしなさい。
そう言われた。
というか、それしか言われなかったに近い。
怒られるときもしかられるときも、常に基準は私の心にある目だった。
だから、怒られても納得した。
93年に北京に1年間留学して、日本に戻ってきたあと、
当時は1年に1回くらいしか会わなかった父と会った。
日本はまだバブルで、ものやサービスのない中国から戻ってきた私からすると、
すごくすごく無駄が多くて、うわべで浮かれていて、居心地が悪かった。
父にそう言うと、
「コップの水ではなくて、海の水になればいいんだよ。海には、清い水も、
工場の排水も、ぜんぶ流れ込む。でも、海の水は海の水なんだ。
一握りの塩くらいでは、味もかわらない。最近こう思うんだよな」と言われた。
ふと立ち止まり、最近、自分の視野を広く保つ努力を怠っていたことに気づいた。
これ以上、道をそれていたら、それこそ両親の心の磁場に触れることすら
かなわなくなっていただろう。
いま、心の目を振り返る機会が訪れたことに感謝する。