ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

どこでも韓流

2009-07-18 17:35:08 | Weblog
今日のお昼、韓国の方と和食をいただいた。

韓国では、どんな料理でもキムチとコチュジャンが出てくるんだ!
向かいに座った韓国人のおじさんは、
スズキの刺身にコチュジャンをつけ、白菜に巻いて食べていた。
スズキの味がしなくなるでしょう。と突っ込みたくなったけど、
韓国語が話せないので、そのままスルーした。

お味噌汁には、なぜか一味が浮いていて、
煮魚には、醤油ではなく、たっぷりのコチュジャンが乗っていた。
天ぷらで緑色のものがあったので、なんだろうと思いながら食べたら、青唐辛子だった。
むちゃくちゃ辛かった。
和食のお店でも、やっぱり韓国風にアレンジされているんだな。
いろいろと面白かった。

韓国や台湾の人は、ちゃんと列をつくって静かに並んで待ってくれる文化がある。
中国に比べると格闘技系の体力消耗がない分、少し楽だと思う。

そういえば、トイレの個室で携帯電話で話しながら用を足しているおばさんに遭遇した。
こういうところは、もしかしたら中国的なのかもしれない。

昨晩は、TBSという韓国のラジオで、なぜか突然中国語の放送が始まった。
「日本人は韓流にはまっててね・・・」という時事ネタ?の番組だった。
久しぶりに聞き取れる外国語を聞いて、少しだけ癒されたんだけど、
中国語で癒されるなんて・・・、とてもとても久しぶりだ。
でも、なんでそんな内容のことを中国語で放送していたんだろう。

さて、夕飯を食べて、島田荘司さんの本を読んで、寝よう。

先端恐怖症

2009-07-17 22:22:08 | Weblog
自分が先端恐怖症だと認識したのは、幼稚園のとき。
友人のお母さんが自転車に乗っていて、そのブレーキハンドルの
銀色に光ったバーが、とてつもなく恐ろしく感じた。

金物屋は苦手。
量販店でも、袋に穴があいていて、それを棒に通したり、
フックを棒に引っ掛けるようなディスプレイの売り場からは
まず、落ち着いて商品がとれなくて、いつも諦める。

そんな先端恐怖症も、症状は一定している訳ではなくて、
精神的に疲れがたまっているときは、怖いものが増える。

今日の夕方は、かなり疲れていたようだ。
車の後部座席に座り、ボーっと車外を眺めていたら、
センターラインに置かれている赤と白のシマシマのポールが、
ものすごーく恐ろしく見えた。

眉間の間をグーッと押されて、前頭葉の中をゴリゴリされているような気分。
自分で車を運転していたのだったら、発狂していたかもしれない。

そろそろ家で引きこもるべきサインだなあ、と思ったけど、
仕事の都合上、そうはいかない。
せめて夕飯は美味しいものでありますように、と祈ったら、
本当に、格別に美味しいものをご馳走になった。

韓国ソウル、63ビルの中の和幸という日本料理屋で、お刺身をいただいた。
これがまたうまい。
お吸い物も、みそ汁も、何もかもが美味しい。

なぜか最後のほうに、付け合わせでキムチが出て来たけれど、
それ以外は、日本のかなりかなりいいお店に匹敵する。

そういえば、今回のソウル行きではアシアナ航空を使ったんだけど、
日本で積んだはずの機内食にも、ちゃんとキムチがついていた。
食事が配られた瞬間、機内にキムチのにおいが充満した。

キムチは美味しいけど、味もにおいも、すべてもっていかれてしまうので、
場合によっては、遠慮したいこともある。

刺身と一緒にキムチを食べる気持ちは理解できないけれど、
あそこの和食は美味しいので、出張でお腹をこわせないときには、
これからも利用するだろう。
高そうだから、自費ではいけないけど。

讃岐うどん

2009-07-16 21:51:50 | Weblog
今日は、高松で讃岐うどんを食べた。
立ち食い、トッピング系ではなくて、
市内のビルのなかで、ゆったりと座っていただいた。
老舗が展開しているチェーン店だということだった。

数年前、郊外の讃岐うどん屋めぐりをしたことがある。
あの時は、お店もあまりこぎれいではなかったし、
雰囲気もとても慌ただしかったけれど、
ものすごく美味しかった印象が残っている。

今日のもそこそこ美味しかったと思うけど、以前の印象に勝るものはなかった。
きっとこれは、雰囲気の差なんだと思う。

一緒に食べた同僚は、新宿のうどん屋のほうが、
汁のダシがしっかりしていて、美味しいと言っていた。
私は、その新宿のうどん屋の汁は、正直、しょっぱくてそんなに好きではない。

これは、すき焼きを食べても、いつも感じること。
東京で生まれ育ったけれど、東京の外食の立派なところは、総じて味が濃くて、
後でノドがかわく。

夜は、東京で蕎麦を食べたけど、汁がしょっぱくて、いま猛烈にノドがかわいている。
歳をとって、うけつけられる味覚の幅が、少し狭くなった。

許容範囲が狭くなったということでは、飛行機の揺れも同じ。
むかしは、少々揺れても、怖くも何ともなかったし、
かえって楽しむくらいのところがあったけれど、
最近は、揺れて胃が浮く感じがすると、もう身体がついていかない。

今日乗った飛行機は少し揺れたので、思わず寝てごまかした。
でも、寝ていると耳抜きがうまくできないから、
起きてから猛烈に耳が痛くなるし、頭も痛くなる。
そして、とても不安な気持ちがおそってくる。

あまり飛行機で遠出はできなくなってきたのかもしれない。

備前焼

2009-07-15 21:35:20 | Weblog
せっかく倉敷を通るのに、備前焼を見る時間がないなんて・・・。

焼き物のよさがわかるほど、目はよくないんだけど、
備前焼は、なんだかとっても好き。

内向的で、質素で、
それでいて、あらぶる火の勢いが、そのまま閉じ込められているような雰囲気。
なんともずっと付き合いたくなる。

仕事で岡山県を横断する機会があるのに、
今回は、岡山がメインではないから、
横目で備前焼の姿をチラ見しながら、通り過ぎるしかない。

ああ、残念だ。

なんとも街道をゆく車の動きが、のんびりしている。
山並みは、いまは緑の盛り。

本当は、日本って、こんな美しい姿をしているんだよな、と思った。

死と身体―コミュニケーションの磁場

2009-07-14 21:39:16 | Weblog
内田樹著、医学書院刊。

レヴィナスの本をよく翻訳している内田さんの書き下ろし。
帯には、「人間は、死んだ者とも語り合うことができる」と。

人は「喪」の作業を行う。確かにそう思う。
お線香をあげて手を合わせると、死者たちと会話をしたような気分にもなる。

でも、ある朝、夢から覚めた瞬間に、永遠の喪失感を味わうことがある。
ふとしたときに、「もう話すことはできないんだ」と思うことがある。

これは、失恋した相手に、もう二度と会えないと思う感覚に似ている。
ただ単純に、会えない、のだ。

「喪」の作業とは、人の死という現実を引き延ばして受け止めるものなのだろうか。
四十九日など、宙ぶらりんな状態が慣習としてあることは、
実感はあまりないけれど、一応知っている。
これは、「死」を引き延ばしたいからあるものなのか・・・。

「死者」は、「モノ」でもなく「生者」でもない。
だからその中間のどちらでもない領域に死者たちは宙づりにされなければならない。

本当にそうなのだろうか。

では、自分の「生」を生きられない人は、「死者」なのか。
「植物状態の人間」は、すでに「死者」なのか。
「生者」と「死者」は、どこに境界線があるのか。
いま元気に仕事をしている人のうち、自分をだましだまし毎日を過ごしている人は、
どちらに属しているのか。

この本を読んで、すごくすごく納得したこともあれば、
レヴィナスの本を読んだ後のような、「これは?」「あれは?」と考えるような
感覚も残った。
これこそが、読書がくれる刺激というもの。
だからこそ、わたしはどんなに忙しくても読書をやめられない。

わたしの喪の作業は、決してスムーズだとはいえない。
七転八倒だ。

先日、高野山の母のお寺さんから、お盆の案内が来た。
「ろうそく祭り」に行きたいけど、今年も仕事があって無理。

最近思う。
私は死んだら、父と弟のいる埼玉のお墓と、母のいる高野山とに分骨してもらいたい。
埼玉は、どうしても父祖の地という気持ちがしない。
でも、高野山は、訪れただけで血が喜ぶような感覚を味わう。

去年は仕事が忙しくて高野山に行けなかったんだけど、今年は行きたいなあ。

住みやすい場所

2009-07-13 20:42:29 | Weblog
うちの観葉植物のヘデラさん。愛称へーちゃん。
3月頃にうちに来てから、ずっと引きこもりにさせてしまった。
かわいそうだな、と思ったので、
日光浴、そして風にあたらせてやろうと思い、
1週間ほど、ベランダに出しておいたら、しおれた。

おいおいおい、と思って、部屋の中に入れ、
住環境としてはあまりよくない冷蔵庫の隣に置いて2日。
みるみる元気になった。

どうして、こんな場所がいいのか、と思う。
電磁波はたくさん出てるだろうし、お日さまはあたらないし、
なんといっても風もあたらなければ、鳥のさえずりもほとんど聞こえない。
ずっと、冷蔵庫のジーっという音がしている。
植物が好む環境とは思えない。

でも、みるみる葉の色はよくなり、つややかになった。
きっと、へーちゃんには、住み心地がいい場所なのだろう。

今日、会社の同僚が、会社を辞めると言った。
私も転職をしたときのことを思い出したけど、
退職を決めると、ほとんどの人は生き生きとする。

でも、私は今日一日、その同僚の気分の変化を
まったく感じ取ることができなかった。
すごく近くに座っているのに、ほとんど存在を感じなかった。
それは今日に限らず、思い返してみると、ずっとだった。

帰りがけ、それに気がついたときに、
「ああ、居心地が悪かっただろうな」と思った。

どんなに引っ込み思案な人でも、
「自分の意見を言う」ということと、「自分の存在を感じてもらう」ということとは、
根本的に違うことなんだと思う。

その人は、確かにコミュニケーションが得意なほうではないのだと思う。
思い返せば、その人が入社してすぐのころ、
「わからないことがあったら、質問してね」と言ったら、
「わたしは自分から話しかけるのが苦手なほうなんで」と言われて、
何と声をかけてあげたらいいのかわからなくなり、
あまり親切ではない私は、そのまま放置したのだった。

う~ん、反省すべきところもあるな。

そういえば、先日、私の友人も会社を辞める宣言をしてきたらしい。
新しい門出の時期なのかな。

最近、仕事が忙しくて、読書量が減っている。
今日はこれから本を読もう。

感覚的な理由

2009-07-11 12:36:31 | Weblog
20年ほど前に、母が株をやっていた。

ずっと放置していて、存在すら忘れていた。
さきほど証券会社の人から電話がかかってきて、
何年かぶりにその存在を思い出した。

かなり金額は減ったのだと思うけれど、
そもそもいくらあったのかすら覚えていない。
というか、きっと最初から知らなかったのだろう。
まったく思い入れがないし、今後も興味をもつことはないと思う。

できれば解約したいから用紙を送ってください、と言ったら、
店頭まで来てください。そのほうが早いので、と言われた。
でも、平日しか店頭はやっていないから、まず行けない。
また当分、放置することにした。
まあ、解約に対して、そんなに親切ではないだろう。

私は理性的な判断というのが苦手で、
どちらかというと、直感というか、その日の気分で判断する。
常に感覚的な理由が優先する。

つまり、今日は、これから休日出勤だし、
そもそも「ないもの」と思っていたお金について、
あれこれ話すだけの気分的な余裕がないというわけだ。

先日から、ずっと「合理的な理由」って、どんなものだろう。
果たして、私という「個人」に完結するかたちで、
「合理的な理由」なんてものが見つかるのだろうかと考えていた。

昨晩おそくあたりに、合理的な理由なり判断なんて、私には無理だ。
そもそも客観性ないし。
と、思いいたったので、当分は感覚的理由を優先することにした。

頭と心、理性と感情は、どちらかが優位で、どちらかが低いわけではない。
感情に左右され、それをそのまま出してしまう人は、
その波で他人をビックリさせてしまうことはあるけれど、
だからといって、それが間違っているわけではない。
顰蹙をかうかどうか、という点だけの違いだ。

そろそろ歳をとってきて、むかしみたいな体力もないことだし、
つまり、体がだまされてくれることもなくなってきたわけなので、
もう一度ここらで、体がいう声を聞いて、
心身のバランスをシフトしていきたいと思うようになった。

合理的な理由

2009-07-09 23:09:16 | Weblog
基本ネガティブな人間だと思う。

よく過去のことを思い出しては、くよくよするし、
これから起こるかもしれない未来を予想しては、自己嫌悪になっている。
そのくせ、忘れっぽい。

言うなれば、ヒマな人間、なのだと思う。

自分を納得させたいがために、いろいろぐるぐると考える。
そして、合理的な理由を作り出そうとする。
そんな時間があるのなら、もっと何かワクワクどきどきするような、
みんなと楽しめるような生産的なことをすればいいのに、
と、自分でも思うけれど、
まず、こういう考えにとらわれているときは、身動きがとれなくなる。

もし、そんな状態の自分を、幽体離脱して外から見ることができたなら、
きっと、ただ、ボーっとしているのんきな人に見えるだろう。
内面は、ものすごい勢いで複雑に絡み合っているというのに、
ただの自意識過剰がこうじているだけだから、まあ端から見ればヒマ人そのものだ。

今日は、朝の電車のなかで、ひとつ合理的な理由を見つけた。
なぜ、私は「ある一点」において、他人に譲歩したのか、ということへの理由。
要は、自分のキャパシティをこえて他人に親切にしてしまい、
それが常態化して、疲れてしまったことへの自分なりの合理的な理由を探していたのだ。

私には、よく、この手のくよくよがある。
気が強いくせに、あるとき断りきれないことがあって、後でずっと後悔するのだ。
しかも、いったん引き受けてしまったがために、なかなか断れなくなる。
とにかく、変にプライドが高くて、自分に辟易する。

朝の電車のなかで思いついた理由というのは、
去年の11月、ダライ・ラマが来日したおりに、講演会を聴きにいった。
その時えらく感動し、「利他」「慈悲」について実践してみたいというあこがれがつのり、
思わず人に深切にしてしまったけど、
それは、ただのあこがれであり、心が入れ替わったわけではなかったから、
いま、そのひずみで苦しんでいる、ということ。
確かに、あの慣習がはじまったのは、ダライ・ラマの講演会の翌週ではあった。

そして、先日『華厳経』を読んだことが、
この「合理的な理由」を思いついた、ひとつのトリガーとなったのだろう。

朝は、この考えで、ふと合点がいき、気が楽になった。
でも、夜になって考え直してみると、これが本当に合理的な理由だとは思えなくなって来た。
つまり、またぐるぐるしだした。

そしていま、最大の感心ごとは、今晩は上の家の子どもが静かかどうかということ。
昨晩は、1時半過ぎまで、上はドタバタ騒いでいた。
集合住宅には、たまにこういった試練がある。
そして、また忘れ、またぐるぐる考える。

逆効果、では

2009-07-08 22:57:50 | Weblog
都議選は、やたらと気合いが入っているようだ。

先日、我が家にも、ある政党の候補者の事務所から電話がかかってきた。
とても丁寧なおじさんの声で、私の名前を確認され、名乗られた。

「あの、うちの電話番号は電話帳に載せていないんです。
○○党さんに、個人情報をお渡しした記憶もないのですが、
どうしてうちの電話番号をご存知なのでしょう」と、
昼寝を邪魔され、かなり不機嫌だった私は訊ねた。

すると、「私はバイトなので、よくわかりません」と
人のよさそうなおじさんは素直に答えた。

素直すぎるっちゅうの!
「バイトだからわかりません」は、「新入社員なんでわかりません」と同じように、
やってはいけない電話応対として、マニュアルに載っているじゃない。
再選をねらっている候補者の事務所なら、そのくらい準備しててよ!と言いたくなった。

それとも急遽、電話攻撃を始めたために、バイト教育が追いついていないのか。
とはいえ、あの声の年齢のおじさんなら、平日はふつうの会社で
きっと立派な会社員をやっているのだろうから、
そのくらいは、ちゃんと機転をきかせて対応してほしいところだった。

そう、私はその日、本当にうつくしい昼寝をむさぼっていたところだったので、
邪魔されて、気が立っていたのだ。

名簿を手に入れる方法がいくらでもあることくらいは知っている。
だから、個人情報を入手したことは、何とも思っていない。実は。

そもそも、バイトを使って名前を売るためだけの電話をかけてこられたって、
その候補者の政策について詳しく質問できるわけでもないし、
私の場合、かえってイメージダウンとなる。
本当は、票を入れようかと思っていた政党の人だったけれど、
もう、ぜったい票は入れない、と思った。

電話攻撃は、本当に逆効果だと思う。
無差別テロそのものだ。

それよりも、ちゃんと候補者の主張なり党の政策なりを、
わかりやすくまとめてくれたパンフレットをくれるほうが助かる。
ちゃんと読むよ。活字好きだし。
電話攻撃をするお金があるなら、もっとやれることはあるだろう。

さて、どこに票を入れようか。

本能的な苦痛

2009-07-08 01:10:16 | Weblog
今日、友人と話していて、なんだか明確になったことがある。
それは、私にとっての本能的な苦痛について。

基本的に、男性はM、女性はSだと思う。
でも、男性にとって、最上級の快楽は、パワハラにあると思う。
それは、ある意味、Mの裏返しだ。

実際の行為に及ぶかどうかは問題ではない。
だれか女性、だれか他人の生殺与奪権を握っているような錯覚におちいること。
それは、ドMの裏返しとなった、究極の快楽なのではないかと思った。

これまでの十数年の社会人経験において、
「これはゆるせないぞ~」と思った経験を自分なりに分析してみると、
以下の一点に集中している。

それは、
「対象は君でなくてもいいんだよね」というスタンスのもとに行われる
身体的なタッチや、精神的な圧力だ。
そして、それに対し、快・不快という点は別として、
いやおうがなく応答責任を感じてしまうこと。これが苦痛だ。

「君にどうしても性的な欲望を感じる」と言われるのであれば、
どれだけ精神的に楽だろう。
欲望を感じられた段階で、精神的にはSの立場に立てるのだ。

でも、対象が誰でもよくて、
ある意味、自足的な欲望の対象として見られることほど、苦痛なことはない。
しかもそれが、周囲の、既知の人物からであれば、この苦痛は最高点に達する。

このひとつの形態が、パワハラだ。
というか、社会的な地位の格差という構造において、
男性には、はじめてこの種の快楽が可能になる。

そんな気がした。

う~ん。いろいろな人の顔が思い浮かぶけど、
基本的に人間は、ダダをこねたいものなのだろうし、
まあ、うまく自分なりの距離を保つほかないんだよな。

父と生前、快楽の話をした。

それは、究極の快楽は、他人に求め、与えてもらえると依存するものではなく、
自分のなかにあるものであり、自分の心や感性に求めるものであるということ。

深いのか、なんなのか、よくわからないけど、
でもバタイユの『眼球譚』の流れで語られたあの話は、
これからの人生で、折に触れて問い直すべき価値はあると思っている。