ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

あるチベットのドキュメンタリー映像を観て

2010-02-16 23:40:06 | Weblog
あるチベットのドキュメンタリー映像を見ていたら、
幾人かのチベット人が、「自分は学校にも通ったことがない人間だけど、
でもこれだけは言いたい」と前置きして、自由を求める発言をしていた。

この「学校にも通ったことがない人間だけど」という言葉。
文字以上に重いと思う。

遊牧や農業を生業としている人が多いところであっても、
もちろん識字率は高いほうがいい。
社会において、自分の意見を発信するには、
学があって、先進的で、相手を説得できるに越したことはないのだから。

でも、チベット人が言う「学校に通ったことがない」という言葉には、
日本で言うのとは少し違う意味が含まれている。
つまり、「自分は中国語を話したり、書いたりできない人間だけど」
という意味を含んでいると思う。

なんといっても、学校では、チベット語ではなく中国語で学ぶ訳だから。
チベット語でチベットの歴史や文化を学ぶのではなく、
中国語で、中国の歴史や共産党のこと、社会主義を学ぶのが「教養」。
少なくとも、チベット人がチベットの地で学ぶ基礎教育とは、
そういうものなのだから。

かえって「学がない」からこそ、
彼らのチベット独自の文化に対する気持ちは強い。
だからこそ、中国政府は漢語教育を猛烈に進めているわけだし、
その教育を受けた者でなければ、人並みの生活ができないような構造になっている。

チベット人が「自分は学校にも通ったことがない人間だけど」と言うとき、
そこには、もちろん謙遜や卑下もあるだろうけど、
チベット人としての誇り、そして社会の最下層にいることの自覚など、
日本人には想像もつかないような様々な思いが詰まっていると思う。

18日のオバマ大統領とダライ・ラマ法王の会談が、
無事に挙行され、そして成果をあげることを祈る。

わが家の匂い

2010-02-15 19:29:43 | Weblog
私の家は「おばあちゃんの家」の匂いがする。
たぶん私からも「おばあちゃん」の匂いがする。

ほぼ毎日、お線香を焚いているから、家はもちろん、洋服にもうつっている。
たまに、「お香ですか?」と聞かれる。

以前は「お線香です」と答えていたのだけど、
そう言うと、相手が反応に困った顔をするので、
最近は「そうです。お香です」と答えることにした。

両親が亡くなった当初は、
供養だと思って焚き始めたお線香だったけれども、
そのうちにすっかり馴染んで、私自身が好きになった。
通販でいろいろな銘柄のお線香を買い、
高いもの、安いもの、煙の少ないもの、コーヒーの香りなどのものなど、
いろいろ試した。
約3年して、購入する銘柄が数種類に決まった。

そして、いまでは、お線香を焚くのが、
亡き人の供養のためなのか、自分のためなのかよくわからない。

家で「なにかが足りないな。あ、香りか」と思うと、
すたすたと仏壇の前に行って、位牌をちらりと見て、
すぐにお線香を焚き始める。
供養というよりは「こんにちは」くらいな感じだ。
「火を見張っててね」という依頼すらする。

もっと若い頃はインドのお香なども焚いたけど、
いまは日本のものが一番だと思っている。
なんとなく、位牌たちもそう言っているような気がするし。

お線香は、ある銘柄がテレビコマーシャルのおかげで有名になって、
スーパーなどは、ほぼその銘柄で埋まっているけど、
もっといろいろな銘柄があって、心をゆるやかにほぐしてくれるものがある。
また、甘かったり、さわやかだったりと、人工的な匂いがついたお香よりも、
私は昔ながらのお線香の方が好きだ。

そして、リーズナブルで一番よく使うお線香が、
少し前からAmazonでも買えるようになった。
思わずそちらで本などと一緒に買ってしまうのだけど、
これまでに利用してきたお香の販売サイトも、同じように利用していきたいと思っている。
そうしないと、いつかお線香の銘柄が少なくなってしまうような気がするから。

住みやすいところ

2010-02-14 10:19:34 | Weblog
自分のことを、比較的どんな土地でも生きて行ける人間だと思っていたけど、
けっこういろいろなワガママがあることに最近気がついた。

これまでは、家の中さえ快適ならば、
その家がどこにあろうとも、あまり気にならないはず、と思っていた。
いまはインターネットがあるから、知りたい情報はたいてい手に入るし、
楽しいこともたくさんある。

新宿の駅などへ行くと、なぜこうも人が多いのかと気がめいる。
東京は適正な人口を大幅にこえていると感じる。
雑多でごみごみしていて、歩く人が連なっている。
人にぶつからないように歩かなければならないので、空を見上げる余裕すらない。
もう離れたいと思う。

だから、人が少ない地方はどうだ、と思ったけど、
次に頭に浮かぶのは、地縁血縁があり、自治会などの付き合いがとても面倒そうで、
私には厳しいだろう、ということ。

30分くらいで、デパートや映画館などがあるところに出られて、
なおかつ人家が密集しておらず、農家やサラリーマンが雑多にまぶされているようなところ。
そして、手が届くくらいの価格帯の家。
そう思って、住みやすそうなところを探してみると、ない。

いまは、郊外型のショッピングモールがあるから、
電車に乗ってデパートのあるようなところへ出掛ける必要はないのだろうと思う。
でも、そういういきなりつくった商業施設には、
当然のことながら、古本屋さんもないし、何かのこだわりのお店もない。
外から眺めているだけでわくわくするような個性はない。
目的があって買い物に行くところだから、ぶらぶらできるところではない。

そう思って今住んでいる家の周囲を見ても、
むかし遊んでいた空き地は、すべて密集型一軒家になっている。
住人が増えたおかげで、夜道がさびしくなくなったのはいいことだけど、
商店街の通りは明らかに狭く感じるようになった。

きっと、私が贅沢なんだよな。
住みやすいところってどんなところなのか、もう一度気持ちを整理してみよう。

東京を中心とする一帯は、この30年で、なんだか大きくふくらんだんだなあ、と思う。

働くこととボランティア

2010-02-12 20:00:08 | Weblog
ある人が「ベーシック・インカムが実現したら、
みんなもっとボランティアなどに目を向けてくれるのではないでしょうか」と
ネット上に書き込んでいた。

それを読んでから、ベーシック・インカムについて引き続き考えている。

確かに、毎月定額給付をもらえたら、そういう殊勝な人が出て来るかもしれない。
それに、現段階で、困窮しながらも頑張っている福祉関連の人には、
大きな助けになるだろう。

でも、ボランティアの活動が盛り上がるには、
いま以上に、その対象に「魅力」が必要になってくるのではないか。
収入と切り離して考えることができる、ということは、
よりやりがいを求め、対象選びがシビアになるということだと思う。
参加する側は、楽しいボランティアを求める。人間関係や、やることについて。
これは、人情として当然のことだと思う。

例えば、「老」「病」などの苦しみと向き合うことは、人にとってつらいことだ。
お金がもらえるかどうかの問題ではなくて、
それを見たくない、という恐怖心のほうが、動機として強いと思う。

そして、ボランティアは交通費やら、なにやら、出費が伴う。
どこかがそれを管轄して、あとから経費分を給付するにしても、
その管理は手間がかかるので、全体として結構経費がかかってくるような気がする。
まずは、不正が横行するだろうし。

私としては、定額給付をあげるよ、と言われるよりも、
日本で食べて行けないなら、外国へ出稼ぎに行け。
と、言われるほうが、よっぽどいろいろとやる気になる。
私なら、どんなに底辺と言われる仕事であっても、
外国でやるよりは日本でやったほうがいい。

そんな底辺の仕事も、いまの日本にはないんだよ、と言うのなら、
林業や伝統工芸の分野などはどうだろう。
そういう産業は、体質が古かったりして、新参者が入りにくいこともあるので、
精神面でのケアなど、周囲がバックアップできることはたくさんあると思う。
そういった国として残したい自然や、保護すべき文化を決めて、
その育成分野について重点的に資本を投下すれば、まだできることはあると思う。
なにも、全員に定額給付する必要はない。

男脳と女脳

2010-02-11 14:44:11 | Weblog
最近、男脳と女脳の違いを身にしみて感じている。

女性は比較的、細かい仕事が得意だと思う。
これは、手先が器用ということではなくて、ライン仕事が得意という意味だ。
このパーツをここからとったら、この帳簿に記入する。
だいたいこんなペースで消費するから、このタイミングに補充して、
仕入と売上をきちっとつける。

ひとつのことをやりながら、
次に必要となる作業や、周りに波及することを思い浮かべる。
新入社員のころはできなかったとしても、順応性は高い。

でも、男性はどちらかというと、こういう仕事は苦手な人が多いと思う。
逆に取引先の太鼓持ちなんかは、男性の方が割り切って出来る場合がある。
人間関係なんて、そんなもんだよ、と。

だからこそ男性と女性は、うまく協業できればいいんだけど、
40代以上の男性の中には、「女に指図されるなんて」という意識が強い人もいて、
お互いが得意なことを尊重しあって行動しようよ、
という話が通じない人も、まだまだたくさんのこっている。
私が女性だからかもしれないけど、女性と仕事をするほうが、
ずっとずっと何倍も仕事がしやすい。

こう考えると、世の中で最強のビジネスマンは、営業をできる女性かもしれない。
20代のころ、銀座のママさんはすごい!と漠然と思ったことがあるのだけれど、
その思いは、30代中盤になって、ますます強くなった。

いま銀座のお店には、お金持ちの中国人があふれているという。
日本男性が中国におとしてきたお金を、
銀座のママさんたちが倍にして取り返してくれてるということかな。
まさしく「お金は天下の回りもの」だ。

働かざるもの、飢えるべからず。

2010-02-10 10:23:09 | Weblog
小飼弾著、サンガ刊

前半は、ベーシック・インカムを基本とした著者が考える理想の社会像が語られ、
後半は、著者とスマナサーラ師(スリランカ上座仏教長老)が、
「理想の社会をめぐって」という主題で対話を行う。

ベーシック・インカムとは、ウィキによると、
「最低限所得保障の一種で、政府が全ての国民に対して
毎月最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金
(5万円-8万円程度)を無条件で支給するという構想。」

この文字だけ見てると、なんだか福祉社会の理想みたいな印象を受ける。
たしかに私も、みんなが安心して暮らせるといいとは思う。
でも、この本を読みながら、同時にものすごい違和感も覚えた。

今朝、目が覚めて一番に浮かんだ言葉は、
「この本で言う理想の社会」は、「会社生活みたいだ」ということ。
人それぞれ会社生活の経験は違うから、これはあくまで私の主観から出てきた言葉。

・働いても働かなくても、無条件でいくばくかのお金を支給します。
 これは、基本給。
・医療はベーシックなものはタダ、それ以上のことをしたい場合は高負担にします。
 健康診断は会社負担で受けてもらいますが、治療は自分でやってください。
 たまに労災も認めます。

そのほか、デキる人に富を集中させて、使わせた方が効率がいい。とか、
相続税100%にして、生きているうちにお金を使うようにさせ、
亡くなったらみんなのお金にする、など、すごく「合理的」なことが書かれている。

そう。「合理的」。すごく。
冒頭で「扶養」は「お荷物である」ということだから、これをまずなくす。
と語られる。これは考え方としてはわかる。
でも、後の方で、だいたい以下のようなことが語られる。
全員がガツガツ作ってもしょうがないし、
それで無駄なものが出来ているのが現状なのだから、
有能な者に集中させて、あまり有能ではないものは休んでいる方がいい。
それでも生活できるような社会構造にすればいいじゃない。と。

ひとつ断っておくと、
学校教育や無職の人に対する訓練は、収入の格差に関係なく手厚くやったほうがいい。
と、ほかのところで語られている。

でも、これだったら、義務教育があり、
高収入の家の子どもは私塾や私立校に通ういまと、何が違うんだろう、
どれほどのよさが生まれるのだろう、と思う。

私の会社生活の実体験に照らすと、
お金を生み出した人、というのは、生み出さない人を基本的にバカにする。
会社だから分業と協業をするものなので、「扶養」の考え方はないはずだけど、
たとえば「営業職」の人は、「事務職」を食わせてやってる、と考える人が少なくない。

そして、自分に自信があればあるほど、人によっては、
「わたしのやりやすいようにフォローしてくれたら、あなたはそれでいいから。
というか、それだけでいいから。無駄なことはしないで」と、言い始める。

後半のスマナサーラ師との対談で印象的だったのは、
師が「人の欲望にはきりがない」と語っていることだ。
確かに、経済的には二極化が進んだとしても、それが常態化するのではなく、
常に循環するような仕組みがあれば、いいとは思う。

でも、欲望にはきりがない。
家族以外のところから基本的な生活費をもらい、仕事もせず、
大きく稼ぐわけでも大きく消費するわけでもない人は、
「参加している」という手応えを得られないから、
かならずといっていいほど、「家畜」か「奴隷」のような状態に陥る。
これは、持つ人の優越感と持たない人の劣等感が、精神的に越えられないとなくならない。
そしてこれを越えることは、人の欲望が果てしない限り、不可能に近い。
私はこう思う。

偏見について

2010-02-09 15:57:50 | Weblog
人格の形成において、一番影響力があるのは、もちろん親だと思う。
私の母は比較的博愛主義の人だったけれど、
それはもう、私が嫉妬するくらい他人の子どもも大切にする人だったけれど、
ひとつだけすごく覚えている「偏見」の記憶がある。

私が幼稚園に通っていたころ、一緒に映画「風と共に去りぬ」を観た。
母はビビアン・リーが大好きで、この映画も大好きで、
両親ともに、最良のハリウッド映画としてあこがれていたから、
この映画を地上波で放送するというだけで、当時我が家にビデオデッキが来た。
ソニーのベータ、K-60というビデオテープとともに。

記憶をたよりに書くので、映画の細部は若干勘違いがあるかもしれない。

スカーレットが大好きだったアシュレと結婚したメアリーは難産だった。
戦火が近づくなか、メアリーは産気づき、
スカーレットは小間使いの黒人の女の子を町医者まで使いに出す。
「一刻もはやく来てほしい」と。

でも、待てど暮らせど小間使いは戻ってこない。
焦燥感にかられたスカーレットがふと窓の外に目をやると、
歌をうたいながらのんびりと戻って来る小間使いの姿が見え、
スカーレットは激怒する。
スカーレットの逆鱗にふれた小間使いは、自分がなんで怒られているのか理解できない。
ただおびえるのみだ。

このシーンで母は、「黒んぼの子どもっぽいね。足りない」と言った。
当時、私の幼稚園に来てくれていた英語のアリ先生は、
とても温厚でやさしく、落ち着いた雰囲気のすてきな黒人の男性だった。
だから私は、「アリ先生は、いい人だよ」と言った。
次に母から帰って来たのは、「アリ先生はいい人かもしれないけど、黒人は全体的にねえ」
という言葉だった。

「ダッコちゃん」人形も、友人がつけていたので私がほしがると、
「黒人なんかを腕につけて、何が面白いの」と一蹴された。

さいわい、私は黒人を嫌いになるほど、その後お近づきになることがなかったので、
この偏見は引き継がなくてすんだけれど、
心の奥底を探って行ったら、もしかしたらどこかに、偏見の片鱗がひそんでいるかもしれない。

もちろん、いろんな人がいるから、そんな黒人の小間使いもいただろう。
そして同時に、白人の小間使いでも、そんな人はいただろうと思う。
白人がつくった映画だから、黒人に対する偏見が入っているかもしれない。
黒人はこのようにおろかなんだ、という制作者側の偏見が、強くあらわれてしまっているのかもしれない。

でも映像となった瞬間に、それはものすごい影響力をもち、勝手に一人歩きして行く。
その映像世界の中で必然的であればあるほど、現実世界をもおかし、波及する。
その訴求力があるからこそ、クリエイターたちは映像をつくりたがる。
そして、中央統制の国家は、映像界を支配したがる。

卑屈ってどんなことだろう

2010-02-09 00:04:21 | Weblog
むかしうちで犬を飼い始めたとき、母が中学一年生の私にこう言った。
「いつまでも愛くるしいリョウちゃんでいてほしいじゃない。
だから、まず絶対にいじめないこと。これはわかるよね。
怒ることといじめることは違うんだよ。
そして次に大切なのは、私たち自身が卑屈な人間にならないように約束しよう。
意地悪な気持ち、そして卑屈な心は犬に伝わってしまうから気をつけようね」と。

野良犬や童話に出てくるかわいそうな犬のようになってほしくなかったら、
私は人間の友だちと接するように、尊重して接するように心がけた。

両親の教育というのは偉大だと思う。
感謝してもしきれない。

たとえそれが一時期は、重荷になったとしても、
呪縛のように心をふさいだとしても、
その霧が晴れたあと、見えてくるのは両親からもらった言葉であることが多い。

いま、一番合点がいかないのは、「卑屈」という言葉。
ある人が、自分のことを「私は卑屈な人間ですから」と言ったことがある。
正直に言って、私はその人のことを「嫉妬深い」「したたかだ」とは思ったことがあるけれど、
「卑屈だ」と思ったことはなかった。

あの人は、自分のどんな側面をもって「卑屈だ」と言ったのだろう。
そして、なんとなく言外に「でも、あなたも卑屈よね」と言われたような気がした。
そう受け取ったということは、私の中にも「卑屈」の芽があったのかもしれない。

でも、そもそも「卑屈」ってどんなことだろう。
上司にこびへつらうことや、お客さまに平身低頭することを「卑屈」というなら、
会社にいて仕事をしていくとき、
まったく卑屈さを自分の中に認めなかった人なんて、いないんじゃないかと思う。

私は「卑屈な人」よりも、仕事の中に、堂々と「村意識」を持ち込む人の方が、
付き合いづらいと思っている。

こんなときに、お酒を飲んで語りたい両親はすでにいない。
一人なんとなく杯をあけながら、心の中で会話をする。
今日は久しぶりに夜光杯を使おう。
あの石の冷たさと透過する七色の光が、なんとも恋しくなった。

お金に換算しない仕事

2010-02-08 11:53:22 | Weblog
今朝、外を歩いていたら、
白い息を吐きながら、近所の主婦の方が2人、
資源ゴミの選り分けをしてくれていた。

どうやら分別のできない人が近所にいるらしく、
1つずつ空き缶や瓶を取り出し、整理している。

「ああ、この人たちは、こんなことをやっても一銭も儲からないのに、
こんな寒い朝なのに、日陰なのに、
おしゃべりしながら当然のことのようにやってくれている」
そう思って、すごく頭が下がった。

私の家は団地なので、こういったことは管理人さんがやってくれる。
どうやら団地以外の近所の人が夜中に無断でゴミを捨てにくることもあるらしく、
最近マナー向上を訴えるはり紙がゴミ捨て場に貼られた。

「管理人さんはお給料をもらってやっているけど、
この人たちは無償でやっているんだなあ」
そう思ったときに、
仕事には、お金に換算したとたんにやる気がなくなったり、
つまらなくなるものがあるなあ、と思った。

例えば、うちの管理人さんは、いつも不機嫌だ。
もともと都の公団管轄だった団地なので、
地方公務員が退職した後に管理人をやってくれることが多い。
いつも「管理」や「規律」「規則」で、
住民を統括することに意識がいっているから、私はあまり親しめない。

その点、ボランティアだ、と割り切っている主婦の人たちは、
きわめて前向きに作業をしている。
社会の役にたっている、という自負心があるから、その作業を卑下しない。
いっぽう、お金に換算されてしまうと、
とたんに苦痛をともなう単なる労働になってしまうことが、仕事の中にはたくさんある。

かといって、社会主義ならその矛盾が解消できるでしょ、というのは、
無理だと言うことが、すでに証明されている。

稼ぐためにする仕事のほかに、
ちょっとした楽しめる仕事、人の役に立っていると実感できる仕事を、
社会や誰かからの強制ではなく、
自分の意志で行う余裕が生活にあれば、とても幸せなんだろうと思う。

そんなことを考えながら歩いていたら、梅の花が咲き始めていた。

中国の狙いは民族絶滅

2010-02-07 20:33:46 | Weblog
チベット・ウイグル・モンゴル・台湾、自由への戦い
林建良著、テンジン著、ダシドノロブ著、イリハムマハムティ著、まどか出版刊

中国の少数民族による自治区といわれているところで、
現在なにが行われているかをコンパクトに知ることができる一冊だ。

日本でも、アイヌや沖縄の人たちに対して、
かなり強引な同化政策をしいてきたと聞く。
ただ、それを学校で日本の歴史として習うことはない。

いま、中国では少数民族に対する強硬な政策が進められている。
それは「漢化」とも少し違うような気がする。
「漢民族」+「イデオロギー」という枠組みの中で醗酵し、
特に「イデオロギー」の暴力化という色彩が濃いのではないだろうか。

この本で語られていることは、
ソビエトの『収容所群島』で語られていることと非常に近く、
ナチスの強制収容所の暴力とも通じるものがある。

おそらく少数民族と呼ばれる人たちだけでなく、
漢民族の人たちのなかにも、同じような迫害にあった人がたくさんいるのだろう。

チベットの現状は、ダライ・ラマ法王によって、世界中にある程度は知られるようになった。
ウイグルは、ラビア・カーディル女史によって、欧米の注目を集めるようになって来ている。
モンゴルは、モンゴル国と中国内モンゴル自治区の違いも知らない人がいるかもしれない。
台湾は、近いわりに日本人はほとんど知らず、台湾人はみんな「漢民族」なんだろう、と
思っているかもしれない。

いずれにせよ、中国の軍拡と民主化の動きは、
日本にとってボディーブローのようにきいてくる大事な国際情勢なのだから、
共産党に慮った政治家や報道の言うことを鵜呑みにせずに、
自分で知る努力をしなければならないことだと思う。

それは、中国が日本を攻める可能性がどのくらいあるのか、という問題ではなく、
日本の隣人がどのようなことをやっていて、どっちに進んで行くのかを知る、
という意味で重要だ。

パーフェクトな国はない。
自分が親しい友人の一言で我が身を振り返り、救われていくように、
国同士であっても、ときに苦言も呈しながら付き合って行けたらいいと思う。
中国は日本に対して、かなりハッキリと注意をしてくれるわけなのだから。