ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

ダライ・ラマ実践の書

2010-02-06 12:23:11 | Weblog
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ著、ジェフリー・ホプキンズ編集、宮坂宥洪訳、春秋社刊

毎朝、数時間の瞑想をされるダライ・ラマ。
その経験をとおして、一般人でもできるような実践法を語っている。
チベット仏教を日常に取り入れる基本書といった趣だ。
これまでのダライ・ラマの本と同様に、読みやすく、親しみやすい。

また、中国で迫害に遭い、やっとの思いで逃げて来た僧と語り合った時に感じたことや、
自分自身、チベットと中国における大きな苦難のなかにあって、
どのように、利他と慈悲の心を育てて来たのかも語られているところがある。
日本ではあまり見かけたことはないけれど、
チベットの仏像には、男女交合の姿のものがある。
この本では、こういったことについても語られている。

きっと密教のことは、言葉で語れることは少なく、私の理解力も乏しい。
その後ろに広がる精神世界をなんとなく想像できるという程度ではあるが、
ひたすら分析していくことと、心を一点にとどめること、
この2つについて、試してみようと改めて思った。

ひたすら分析していくことは、3分もすると疲れてしまう。
心を一点にとどめることは、きっと1分ももたないのだろう。
人の思考ははやく、時間がやたらと長く感じる。
きっと、もっとリラックスして行うことが重要なんだ。

それに、ただ1日試しただけでは、まったく意味がない。
何十年と積み重ねて、ようやく少しずつ開けていく世界。
この「続ける」というのが、私には難しい。

少し試しただけで、自分に集中力と持続力がないことを再認識した。
小さい頃からそんな気はしていたのだけれど、改めて自覚した。
この自覚が、第一歩か。

もうすぐ、ダライ・ラマとオバマ大統領が会う。
チベットをはじめ、ウイグルや全世界の圧政に苦しんでいる人たちが、
自由に会話をできる世界が訪れることを祈る。

シルクロードの「青の都」に暮らす

2010-02-05 19:37:34 | Weblog
サマルカンド随想録 胡口 靖夫(著) 、同時代社刊

何年かぶりにサマルカンドに行きたい気持ちが再燃している。
ただ、友人に「サマルカンド」と行っても、どこの国のどんな町なのか、
ピンと来てくれる人は少ない。
名前は聞いたことがあるけれど、という感じだ。

この本は、サマルカンドで現地の女性と結婚し、
実際に暮らして来た著者だからこそ、書くことができたものだと思う。
「いま」に最も近い「いま」が語られている。

長い間、ソビエトの一員であった中央アジアのイスラムの町。
そこで暮らす人々の雰囲気は、
私が中国のウイグルで出会ったウイグル人たちの姿と
不思議なくらいに似通っている。

人々は、とてもおおらかだ。
イスラム教徒というのは、本来感謝に満ちた日々をおくる人々のことだと思う。
他の宗教に対しても寛大。
強い日差しを遮る大木の下で、
音楽にあわせて一緒に踊る人は、誰であっても打ちとける。
そんな人たち。

そして、外国に行った日本人は、いやおうなく自分自身を見つめ、
自分の頭で考え、言葉にする必要性に直面する。
「だって、わかるでしょ」は通用しない。
相手にわかるように説明し、相手を理解し、相互理解を深めるということは、
自分自身を論理的に再構築するということでもある。

大人になってから外国に行った人は、
すでに構築されたアイデンティティがあるので、
自分と他者に対するアプローチが、帰国子女とは少し違う。
そんな感性があふれている本だった。

ああ、ますますサマルカンドに行きたくなってきた。

ありがとうと言いたくなる仕事

2010-02-04 14:55:37 | Weblog
団地の外壁工事が始まった。
今日は足場を組む作業。

あうんの呼吸で、パイプや板を持ち上げて行く。
すべて人力で、どんどん上の階まで持ち上げ、ぴたりとはめていく。
無駄のない動きと、相手のペースを見ながらの作業。
すごく見ていて気持ちがいい。

いまから20年くらい前に、大規模な塗装工事があった。
なんだかすごく大掛かりだった思い出がある。
そして、今回よりもずっと、もったりと作業していたような印象もある。

そして、10年くらい前に小規模な外壁工事があった。
あの時は作業員さんのほとんどが中国人で、
ベランダで大声で話したり、歌ったりしながら作業をしていて、少し閉口した。
私は、中国の人の気質を少しは理解できるつもりだからいいけど、
たぶんお年寄りの方たちは、本当におびえただろうと思う。

今回の職人さんたちは、すごく礼儀正しい。
全員が日本人で、すれ違うたびにちゃんと挨拶をしてくれる。
それに作業手順の説明などが親切だし、機材の置き方も整理整頓されている。

昨日はうちのベランダの前で、若い男性が2人、組み立てた足場の確認をしていた。
途中で少し遠くの方から「おーい、そこ危ないぞ~。1階だからって気を抜くなよ~」
というベテランさんらしき人の一言。
カーテンを閉めていたから何があったのかはわからない。
でも、気配がいっぺんに緊張したことは伝わって来た。
相手の身を慮った一言に、なんだかとても嬉しくなった。

最近、私の周囲では、仕事上、相手のことを純粋に心配して声をかけることが減っていた。
なんだか、他人のことを気にかけるのは損だ、というような風潮だった。
「体調悪いんだ。でもこれをお願いしたいから」
「私のほうがつらいんだから、このくらい当然でしょ」
人は、歯車で、駒なんだと思う。
私の仕事の場合、少々の失敗が、生死に直結しないのも確かだ。

自己管理できる社会人であることは、当然のことだと思う。
でも一人の人間の視野なんてせまいんだから、
もっとお互いのことを見て、声をかけあったほうが、全体としていいと思う。
自分にとって役に立つかどうかだけで他人のことを見ている限り、
仕事中に、こんな一言は出てこない。
つくづくそう思った。

外壁の工事は、すごい音が出るし、匂いも強烈だ。
工期中は決して快適ではない。
そして、働いている当人たちにとっても、つらくて厳しい仕事だと思う。
決して楽ではない。
でも、今回の工事は、やってもらってとても気持ちがいい。
ありがとう、お疲れさま、と言いたくなる。

仏教百話

2010-02-03 12:05:37 | Weblog
増谷文雄著、ちくま文庫

ブッダの出家から寂滅までのことばを、見開き完結のお話にまとめた入門書。

お釈迦さまのお話はどれもシンプルでいい。
心に「すとん」と落ちる。
でも、読んだ時は納得するのだけど、
いざ実践しようとしたときに、途方にくれることもある。

これは、お釈迦さまが説法をしたときには、具体的な事象があって、
それに対する言葉だったわけだけれども、
いまの私とは、やはり少し離れた世界でのことだから、しょうがないのだと思う。

その隙間を埋めるために、長いあいだ経典は研究されつづけているわけだし、
各宗派にわかれて、さまざまに研究・実践されているわけなので、
原始だから正しくて、新興だから邪だ、という話とも違うと思う。

要は、お釈迦さまが言うように、
仏教の根本である「法」に基づき、中道をまもり、慈悲心による言動かどうかが重要。
つねによい批判精神とともに「法」とあれば、過度な個人崇拝や教団理論に陥ることなく、
仏教は日常の糧になるものだと思う。
ただ、これは本当に難しい。

この本でに、お話の筋とともに、偈(げ)という韻文も随所に載っている。
すごく美しいと思ったものを1つ書きたい。

「さきには放逸であったけれども、
いまは放逸にふるまうことなき人は、
あたかも雲間を出でし月のように、
この世を照すであろう。

かつておのれのおかした悪業を、
いまや善業をもっておおう人は、
あたかも雲間を出でし月のように、
この世を照すであろう。」

ただ自戒をうながしているだけの言葉ではなく、
人をゆるすこと、本質を見ること、そして可能性を感じること、
いろいろな意味が込められていると思う。

改めて、この世のすべては移り変わるものだからこそ、
人は救われるのだと思った。

痛みにより考える

2010-02-02 13:02:19 | Weblog
たぶんいま、プレ四十肩になっている。
首の後ろから右肩にかけてが痛く、症状は、
・右腕が肩より上に上がらない。
・うつむけない。

なんとも友好的で前向きだ。
私のようなケンカっぱやい人間には、ちょうどいいのではないかと思う。

姿勢を変えるのもつらい、という痛みを経験するのは、生まれてから3回目。
1回目は、幼稚園のとき足の骨をおった。
2回目は、小学生のときに肺炎になり、胸から胃にかけてが猛烈に痛かった。
そして、3回目はいま。
どんどん上にのぼってきている。
きっと次は、脳が動かなくなるのだろう。
痛覚だけ残ったらイヤだな。

よくチベットで中国政府による迫害に遭った人の話で、
拷問による痛みに耐え、自分の信念を守り通したことを聞く。
いまも現在進行形で、耐えて、戦っている人たちがいる。

この強さって、何なんだろう、と思う。
今日と明日、明後日以降が平和に続くことを信じて育って来た私にとって、
こういった人たちのことを、自分のことのように考えることができるのは、
もしかしたら自分の身体に変調があり、
いやおうなく、肉体的な痛みと直面したときだけかもしれない。

私は母子家庭で育ち、預金もほとんどない中で母が倒れ、
その後10年以上を植物状態の母とともに過ごしたけれど、
そんな私でも大学をやめることなく、奨学金以外の借金をせず、
暑くも寒くもなく、着るものも住むところもあり、
旅行に行ったり美味しいものを食べたりできたのは、
ひとえに、日本という国に生まれ、バブルの蓄えがあった時代に
学生時代を過ごすことができたことによる。

母に一番お金がかかったとき、まだ介護保険制度は始まっていなかったので、
いまよりも、ずいぶんたくさんの援助金を、行政機関からもらえた。

私よりももっと賢くて、人格の優れた人が、
ただ生まれた場所と時代が少し違うというだけで、
その能力を発揮できないままに倒れていくことがある。

運命は平等ではないけれども、人にはそれぞれ、超えるべきものがある。
それを見て、それに挑める人。
他人との比較ではなく、自分の前にあるものを見てひたむきに登ることができる人。
私は、それをしなやかにできたらいいなあ、と思う。

割り切れないけど

2010-02-02 01:26:07 | Weblog
一般的な社会人の能力を語るとき、一番重要視されるのは事務処理能力だと思う。

メールに3つの確認事項が書かれているとする。

まず、送信者側は「用件が3つあるんだぞ」とわかりやすいように書く必要がある。
これは、マナーだ。
普通は箇条書きにするなど、見てすぐにそうとわかるようにする。

次に、返信者側は、その箇条書きに、ひとつひとつ回答をしていく。
そうすればモレはない。そのはずだ。

でも、仕事をしていると、そうはうまく運ばない。
わざわざ1、2、3と番号までふったメールを送っているのに、
3行くらいで2だけの回答を書いたメールが平気で戻って来る。

ああ、ひとつのメールに複数の用件が書かれていると不便なんだな、と思って、
1メールに用件1つにする。
タイトルには、確認したい事項を文字で入れる。
回答をお願いしたい期限も一応書いておく。

そうすると、今度は返事が来ない。
正直に言ってイラっとするし、意味がわからない。
督促のメールを送ると、やっつけのような返事が戻って来る。
それで「いやいや、そうじゃなくて、この情報が欲しいのです」と、
再度依頼のメールを出すことになる。

最初は、私のお願いの仕方が悪いのかと思った。
いろいろと工夫した。
でも、必ずある特定の人のときに、スムーズにいかなくなる。
やはり相手に問題があるのではないか、と、ようやく他人に責任転嫁する気になって来た。

事務処理能力が極端に低い人、というのは、
老若男女あまり関係なく、一定の割合で社会にまぶされている。
高学歴だからといって、事務処理能力があるとは限らない。
でも、事務処理能力が低いからと言って、決して仕事ができないわけでもない。
会って話すと急にスムーズに動く場合もある。

要は、その人がキャッチしやすい方法で情報を投げることが大切。
それがアナログであれば、それはもう、しょうがない。
メールですまさず、会うしかない。

同じように、ある人に意見するとき、
私が言っても、まったく聞く耳をもってくれなかったとしても、
他の人が言うと素直に聞いてくれることがある。

それは、ひとつの方法として私も受け入れ、
その他の人、というのに、協力をあおがなければならない。
そのほうがよい結果をうむのであれば、
私がどうしたいか、という気持ちの部分なんて割り切ればいい。

でも、割り切れないから私なんだな。

安定した生活とは

2010-02-01 01:13:37 | Weblog
「安定」って、どのくらい重要なのだろうと思う。
というよりも「安定」ってなんだろうと考えている。

明日が今日の延長であることが「安定」なのだろうか。
ある程度の収入がある生活のことだろうか。家族がいることだろうか。

聞いた話だけど、
ある会社が、来年度以降の新規事業のために融資を受けたいと思っている。
ついこの間の決算の結果は、本当のところ赤字。
でも、赤字だと融資を受けられないから粉飾して黒字にした。
ただ実際に現金がないわけだから、消費税が払えなくて、
ちょっと危ないところから短期的にお金を借りようとしている。

こういう操作って、どこの会社もやっていることなのだろうか。
いまは不況だから、増えていることなのだろうか。
それとも、昔から当たり前に行われていたことなのだろうか。

その話を聞いて、私が思ったのは、
もし家族を養いたくて、普通に会社を続けたいのならば、
その新規事業は、多額の初期投資までして参戦するにはリスクが大きい分野なので、
もっと堅い、いままでやってきたところを少し拡張するなどして、今年一年は我慢する。
そのほうがキャッシュフローとして安定すると思うから。

でも、それではミラクルは起きないかもしれない。

たぶん、ひねくれているんだろうと思うけど、
「これだけいい子に尽くしてくれたら、これだけの給与を保証します」と言われると、
私はとたんにヤル気がなくなる。
いい子にしてる、って何だ、どういうこと?と、ひっかかる。

だから、実際にやっていることは、上に書いた会社と同じことかもしれない。
我ながら、「安定」なんて、はなから頭にない人間に思える。
そう思うと、苦言を呈する立場にはないと思うのだけど、
やはり他人には、「もっと堅実に歩みなよ。安定がいちばん」と言いたくなる。