ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

土佐の朝市

2010-09-12 11:04:01 | Weblog
南国土佐は、とてもいいところだ。
今日は、朝市に行った。
 

なぜ、市ってわくわくするのだろう。
どんどんどんどんテンションが上がる。

朝ご飯を買った。お寿司だ。


タケノコのお寿司。


こんにゃくのお寿司。


みょうがのお寿司。


その後、いも天を食べた。朝から揚げ物!
これがまたおいしい。もともとのさつまいもが美味しいんだ。


歩いていたら蟹を売っていた。


食べ物から金物まで、いろんなお店が出ている。
 

むかしのアメ横を思い出した。
中国で訪れたいろんな市を思い出した。

おばちゃんお手製の梅干しも買った。

久しぶりに評論を読んで

2010-09-11 23:17:26 | Weblog
久しぶりに、ぐんぐん読んだ。
『人間の消失・小説の変貌』(笠井潔著、東京創元社刊)

読みごたえがある評論は、読んでいると幸せになる。
そして、そこで語られているテーマ、この場合は本に、
すごく興味を感じて、ついつい買ってしまう。
作品のどこをどのように読み解いているのかが気になる。

そして、他の本を読んだときに、ふとその観点を思い出し、
立ち止まって考える。
これが評論のよさだと思う。

ということで、
文章のもっているひとつの価値を存分に味うことができるから
笠井潔さんの文章は好きだ。

でも、『格差社会』は厚すぎて持ち歩けないので、
自宅で集中できる環境のときしか読み進めることができず、
いっこうにページが進まない。
とてもではないけど、寝る前にうとうとしながら流し読みする本ではないし、
感性だけで飛ばすこともできない文章だから。
本を刊行するというのは、難しいと思う。

そして、笠井さんの文章を読んだあとは、
しばしミステリーブームが来る。
むかし母に、文学を読みなさい、とよく言われた。
母にとって、推理小説は文学ではなかった。
価値ある小説ではなかった。
自分でも、ホームズやルパンにハマったくせに、
それは高校時代までのことで、大人になったら違う文章を、
もっと「高尚な」文章を読むべきだと言っていた。

でも、推理小説にしか描けない現実もある。
ある意味で自己弁護だけど、いまなら母にそう言い返すことができる。
笠井さんの言葉を借りてるだけで、まだまだ自分の言葉ではないけど。

久しぶりに雇用について考える

2010-09-10 21:22:34 | Weblog
派遣さんと話していて、すごく気になったことがある。

たいていの人が言っている共通点があって、
1つめは「契約期間が終了したらどうなるか不安だ」ということ。
2つめは「残業をしないと給料が増えない」ということ。

そして、正社員の人からは「空気に近い存在」というか、
人として一段下というか、存在を認められていない、と思っているようだった。
意識の上で、確実な格差があるらしい。双方にとって。

中国では、お金持ちの人と貧しい人の差が、すごく大きい。
国内に南北問題があると、よく言われているけれど、
日本も後を追っているのだと思う。
明らかに、正社員の人たちは、非正規雇用の
自分の給料の半額以下の存在がいてくれるおかげで、
職を失う可能性が減っている。

この差は、20代前半にでき上がってしまうことが大きく、
非正規の道からスタートした人に、正規雇用への道が開かれることは、
すごく可能性が低い。
だからこそ格差が固定されてしまう可能性が高く、
かつ、収入の差は子どもを産めるか、子どもをいい学校に入れられるか、ということと
密接にかかわってくるから、格差が再生産されていく可能性も高い。

そして、非正規雇用の自分を振り返ってみて、いま一番気になっていることは、
「契約期間が終了したらどうなるか不安だ」ということと、
「残業をしないと給料が増えない」ということは、対の話なんだ、ということ。

派遣社員は、自分のスキルによって、仕事の道が開ける。
時給の相場のようなものもあるから、それなりのスキルの人は、
それなりに収入がある仕事をする。
でも、その評価は、すでに入社前に決まっていることで、
つまり「あなたのスキルを、いくらで買いましょう」という先物取引なわけだから、
その後、どんどんスキルをのばしたからといって、お給料が増えるわけではない。
相場の変動を受けないのだ。
だから、単純にお給料が増える方法は、残業することだけなのだ。
ならば、効率よく仕事をして自分の時間を作ることよりも、
なるべく引き延ばして会社にいたい、と思う人が出てきてもしょうがない。

そんな考え方に陥ってしまうと、よほど意識して自分で自分を磨かないかぎり、
基本的に作業的な仕事しかおりてこなく、
仕事を通じてスキルを磨く機会がもともと少ない派遣社員は、
スキルが風化することになり、
結局は、契約期間終了後の心配をすることになる。

これではまるで、終身雇用がない「人民公社」みたいだと思う。
「人民公社」で働いたことがないから、これはまったくの想像にすぎないのだけど。

そして、「人民公社」と大きく違う点として、
自分の仕事の出来とはあまり関係ないところで、
つまり会社の都合や計画によって、自分の仕事がいつなくなるかわからない。
これをつかさどっているのは、大きな経済のなかにある「わたくしの企業」であり、
国家による計画経済ですらないのだ。だからなんの補償もない。

よく社会主義の国のことを
「がんばっても給料が増えないからって、経済がダメになった国」とか、
「社会主義の人たちは仕事ができない。仕事をする気がない」などと言うけど、
いま日本国内に、そういった層を生み出している。

だから、「残業しないと給料が増えない」という考え方は、
それに気づいたときに、その入り口に背を向けないと、
自分の将来を考えるうえで、危険な発想なんじゃないかと思った。

場が読めない

2010-09-09 20:14:48 | Weblog
昨日「場が読めない」と言われてから一晩たち、
「どうして場を読む気になれないのか」と思っていたところに、
今日、はじめて会社の派遣さんとお昼休みに話すことになった。
いつも1人で座ってご飯を食べているところが、
今日はたまたま業務で埋まっていて、ソファーに座ったら人が寄ってきたので、
話し始めたら、相手も派遣社員だと知った。

その人は、前にも「何の本を読んでるんですか?」と話しかけてきて、
もう少しで「趙紫陽 極秘回想録ですよ」と正直に答えるところだった。
もしかしたら、すごく話があう人である可能性もあるけど、
なんとなくそうではない、という鼻がきいて、「歴史物です」と、にごした。

今日、私が話をした人たちは、同じフロアの他の部署にいる派遣さんらしかった。
相手は私の名前を知っているのに、派遣会社まで知っているのに、
私は彼女たちの名前を覚えていないことに気がついた。
というより、他の部署の人の名前は、まったく知らない。
会社に入って2ヶ月経ち、みんな名札を胸につけているのだから、
覚えようとすれば、覚えられたはず。
その気がなかったんだな、と改めて思った。

彼女たちが語ったことは、
「私のいる部署には、他に派遣さんがいないから、心細いですよね」
「契約期間、更新してくれるかな」
「仕事がないから残業ができない。だから、お給料が増えない」
などなど。

そして、「私と同じ派遣会社なんですよね」といわれたんだけど、
単に「同じ派遣会社である」という一点において、
すごく相手が喜んでいるらしいことに気がつくまで、非常に長い時間がかかった。

やはり私は「場が読めない」人間だ。
私は仕事をしに来ているのだから、ほかに派遣さんがいなくても気にならない。
おそらく、周囲が全員外国人でも、何とかするだろうし、
逆に、気をつかわなくてすむ、と楽に思うかもしれない。
せっかく気をつかってくれたのに、私の態度は失礼だった。

契約期間の更新がなかったら、それはそれで考えればいい。
会社は、別にここだけではない。
仕事がなくて残業がないなら、自宅でできるようなバイトを探すとか、
なにかを勉強するとか、次の仕事につながる何かをすればいい。動けばいい。

まあ、ほぼ初対面の人に、「チベットに自由を!」などと話しかけるほど、
場が読めないわけではない、と思ってきたけど、いっそそのほうがいいのかな。

世間話や会社の愚痴は、結局、人数分、ほぼ同じ話を聞かなければならない。
それに応答するくらいなら、限られた昼休み、趙紫陽さんの独白を聞きたいよ。

恥じらいと恥

2010-09-08 23:04:04 | Weblog
よく「場を読めない」と言われる。
今日は、初対面のおじさんから、
「君は場を読めないけど、すごくいい。そのままいけ!」と言われ、
帰り際に握手を求められた。

そもそも、今日の場においては、
一番、勇気を持って自分を開いた人に対し、
いかに真剣に向き合うか、しか、私は考えてなかった。
場を読む気なんて、まったくなかった。

だから、私として気になったところを、
私なりに全開で質問をするし、相手の話を聞きたいと思う。
でも、もしかして、日本ではふつう、
美辞麗句で相手を誉めるのが礼儀なのか。

なので、無防備なところに、
右からフックを受けたような格好になり、
「ああそうか、場を読んでないんだな」と自分を客観視した。
「なるほど、こういうところが、偉そうに見えるんだな」
とも思って、すごく動揺した。
ただ、相手を知りたいだけなんだけどなあ・・・。

総括として、
私は「恥じらい」はないけど、「恥」はある。
と、思ってみたりした。

そして、恥じらうけれども、自分の都合にばかりこだわって歩み寄らない人より、
本当の根っこの部分で「恥」があって向き合うほうが、いいじゃん!
と、酔った勢いで帰り道、心の中で自己弁護してみたりした。

まあ、大勢の前においては、
やるべきことと、やらざることを、いい大人なんだから考えろ、ということかな。

とはいえ、これは粗相のひとつだよな。きっと。

日本霊異記など

2010-09-08 00:03:15 | Weblog
朝、電車を乗り過ごすところだった。
『日本霊異記の世界 説話の森を歩く』(三浦佑之著、角川選書)

仏教説話集なんだけれども、これって仏教?と言いたくなる。
神話とともにあった大和の人々の生活に、大陸や朝鮮半島から、
仏教や儒教が伝えられた。
そして、社会制度もどんどん中国のものを取り入れ、
大きく日本が変化していった時代のお話は面白い。
もともとが口承だったから、話もいろいろと変形しているらしく、
すこし矛盾があっても、なんとなくゆるせてしまうあたりが、またいい。

霊異記がまとめられたころ、すでに神話の世界は遠く、
そして、豪族や僧侶などといった第一次産業に携わらない人が
社会の牽引役となっていた。
母系社会から父系社会へと徐々に移行し、
卑弥呼のような神とのつながりもまた、仏教や儒教に置き換えられていった。

それにしても、日本人は、
上に対して従順で真面目くさい民族かと思っていたけど、
なかなかどうして、上流階級をヤジるセンスもある。
そして、上をたてるための道化役もいる。
お笑い芸人というのは、本当に長い歴史をもった存在なのだろうと思った。

こういう本を読むと、
私の中にしみ込んでいるむかしの中国の影響を、ひしひしと感じる。
ここ何十年か、少し関係がおかしくなったけれど、
親兄弟を憎めないように、中国のことは、やはり嫌いになれないよ、
と思ったその日に、尖閣諸島の事件が起きるところが、また皮肉だ。

いずれにしても、対話が必要。しかも長い時間をかけた対話が。

昨晩、寝る前に『ダライ・ラマ こころを導く言葉365』を読み終わった。

寝る前に読むにはとてもいい本だと思う。
ひとつひとつのテーマがコンパクトにまとめられているから、
眠くなったらすぐに切り上げることができるし、どこを読んでもいい。
そして、心がすごく穏やかになる。

長い時間をかけて、少しずつ読み進めた。
そして、当分は枕元に置いておくだろう。読み返すために。

ふれあい

2010-09-07 19:52:42 | Weblog
会社からの帰り道、電車の座席に座ったら、
隣に、おそらく少し知能の発育障害がある10歳くらいの女の子が座っていた。

私の読んでいる本の行を、指でなぞりはじめたので、少し会話をした。
あまり会話はかみあわない。
ただ、彼女が「着物を着たい」というので、
私が「二十歳になったら、振袖のきれいな着物が着れるねえ」と答えると、
そしたら、彼女は少し考えた後に、
「大人になったら、どこかへ行きたい、どこへ行けるかな」と言った。

その後、私が乗り換えの駅に着き、
前髪をおさえているピンをなおしてあげ、バイバイと手を振ったら、
ハイタッチのように、手のひらを合わせてきた。
そして笑顔で「またね」と言って別れた。

彼女との会話は、とても、とりとめのないものだった。
もしかしたら、彼女の発想のなかではつながっているのかもしれないけど、
私には、前の言葉を受けて、次の言葉が続くようには思えなかった。
ただ、私の言葉を全身全霊で聞いていた。

だから、ごまかしがきかない。
ちゃんと眼を見て、私が話をしているのは、あなたですよ。
あなたに微笑みかけているのですよ。
あなたの言葉を、聞いているのですよ。
と、すべてで表現しなければならない。
そうしないと、すごく不安そうな表情を見せる。
それは一瞬で消える表情なのだけど、心の底からの、
ひたすら受動的な不安のように思えた。

ふだん誰かと話をしていると、上の空ということがある。
少しくらい失礼があっても、相手は頭の中で「いま、忙しいんだな」と補完してくれる。
トータルで、私にできる範囲において、なんとなく自己満足が得られる程度に
相手に対して誠意を尽くしていればいいと思っている。
思えば、非常に利己的な関係だ。
彼女との会話は、ある意味では、ついったーと対極にあるふれあいだった。

彼女、1人で電車に乗っていたようだけど、大丈夫だったのかな。
急に心配になってきた。

読みにくい

2010-09-06 20:08:47 | Weblog
いま読んでいる本は、ある大学の歴史の教授が高校生に歴史の講義をしたもので、
日清戦争から太平洋戦争までのお話が語られている。
Amazonのランキングを見ると、いま結構売れているらしい。

内容はなかなか面白い。
でも、とっても読みにくい。私にとっては。

たぶんテープに録音したものを文字におこし、少しリライトしてまとめている。
若干、読みやすいように整形しているのだろうけど、
そもそも話し言葉と書き言葉は、違うものだ。
書かれている「話し言葉」を読む場合、
話し言葉のテンポに読む速度を落とさなければならない。
そして、声を頭の中で思い浮かべながら、間すらバーチャルに補う。
語順も違うし、文体も統一されていないことがある。

だから、ぜんぜんペースが上がらない。
つまり、文章に乗れない。

ターゲットが高校生なら、もしかしたら、あの年代には読みやすいのかもしれないけど、
私は、もうれっきとしたおばちゃんなので、つらい。
いつもの読書のペースまであがらない。つまり、自分のペースで読めない。
すごくフラストレーションを感じ、なんだか集中できない。
内容が面白いだけに、すごくもったいないような気がする。

で、ようやく200ページまでいき、
まだ全体の半分だと気がついたとき、このまま読み続ける忍耐力は私にはない、と思った。
そもそも、一気に読むものではないのかもしれない。
高校生が、授業の進捗にあわせて、少しずつ読むものなのか。
400ページも。

そもそも話し言葉調の文章を楽しく読める限界って、
雑誌の特集レベルではないのだろうか。

と、いうことで、このまま途中でおしまいにするにはもったいないから、
ザッと読もうと思う。
そうすると、結局は、これまでの知識以上のものは残らないような気がする。

とりあえず、読みながら高校2~3年のときの歴史の先生を思い出した。
1年のときに、自虐史観を植え付けられたあと、
その後の2年間で、違う歴史の先生が、この本で語られているような流れで語ってくれた。
あの先生は、素晴らしい先生だったのだと改めて思った。
ただ、名前を思い出せない。

ついったーの活用法

2010-09-06 00:38:23 | Weblog
ついったーで顔を知らない人がつぶやいているのを読んで、ふと思い出した。
きっかけは、
「中国人が、なぜか食べ物を少し残すのだけど、下品だと思う」に対して、
「中国の風習です」というコメントを読んだときだった。

私がはじめて中国に行ったのは1992年で、
約1週間の北京旅行だったのだけど、
食事が苦痛でたまらなかったのを思い出した。

レストランに入ると、食器はどれも汚い。
前の人の食べこぼしがあるのに、テーブルも拭いてくれない。

あとになって友人から、
「すごく怖い顔をして、ウエットティッシュで
テーブルを隅々まで拭いていたあなたの顔は、きっと一生忘れられない」
と言われたほどだった。
とにかく、道具類がぜんぶ不潔で、いやだった。

でも、それよりもイヤだったのは、中国人の食事のマナーだった。
骨付きの肉にかぶりついて、骨を床に捨てる。
食事の席なのに、床に痰を吐く。

そして、何よりも耐えられなかったのは、
ご飯のお碗を手に持たず、テーブルに置いたまま、
イヌのように猫背になってかき込む姿だった。

口の中に食べ物があるのに、大声で話し始める。
いろいろとまき散らしても、あまり気にしない。

私が、小さい頃から「やってはいけない」と言われたことが、
すべて食事の席で再現されるような悪夢に、
絶対中国人の男性とは結婚できない、と思った。

そして、私は日本人として生まれ、躾けられたことを、
非常に嬉しく思った。

そんなことが、ついったーを見ていると、再現されている。
私はすでにあまりにも過去のことで忘れてしまったことが、
いまリアルタイムで、誰かが疑問に思い、つぶやいてくれる。

これは、実はすごくありがたいことだ。

私が大好きな人には、私が中国にいるときの姿を見てほしいと思う。
仕事で行ったときではなくて、旅行しているときの私を見てほしい。
そうしないと、私のなかの何かを伝えそびれているような気がする。
私の生き方を、思考回路を、知ってほしいと思う欲求を、なにか大事な自分自身を、
表現できていないような気がする。

でも、それは、相手にとっては、すごくたいへんな経験なんだ。
私を知るという以前に、中国という環境の迫力にのまれてしまう可能性がある。
そして、それは、非常に生理的な不快感をともなうから、
すべてに対して眼を閉じさせる原因になる可能性が大きく、
結果、私を受け入れる余裕すらなくなることがある。

私にとってはあたりまえになり、スルーできるようになったことが、
程度は少し軽いかもしれないけど、確実に相手に起こるんだ。
そんな客観性をくれることが、私がついったーを活用する価値だと、
改めて思った。

プランター農園計画

2010-09-05 21:28:49 | Weblog
今日、緑色のとうがらしを収穫し、野菜炒めに入れた。
生でかじったけど、青い部分は、甘くてあおっぽい味。
種は、いい具合でからかった。これは美味しい。
パスタに乗せたり、サラダに入れたり、ごはんに乗せてもよさそうだ。
いい感じだ!

そして、気分が盛り上がったところで、
来年のベランダ計画。
まだ秋も訪れていないけど、来年のプランター農園について考えている。

まず、中心は「梅干し」。
もし来年も今年のような猛暑になる場合、
どのように適度な日光を梅干しにあてることができるのか。
そして、そのためには、どのように緑のカーテンを作るのがいいのか。
日曜日の夜に考えるには、なかなかいいテーマだ。

うちのベランダは、ほぼ真南を向いている。
特に、ベランダの手すりは日光に熱せられて、猛烈な温度になるので、
手すりに近い葉っぱは、すぐに枯れてしまう。

手すりに近いところに置いても、比較的がんばれるのは、
やはり、暑さに強いゴーヤと、とうがらし。

一方、青じそやプチトマトは、手すりに近いと弱ってしまった。
かといって、奥の方に置いて日光があたらなくなると、それもよくない。
青じそは、ゴーヤのカーテンのすぐ後ろに置こう。
プチトマトは難しい。来年も調子を見ながらだな。
今年のプチトマトは、花は咲くものの、葉っぱがすぐに枯れてしまって、
結局、実がつかなかった。

そして、全体的に、なるべく大きめの鉢にしよう。
ただ、あまり鉢が深いと、上へ上へとのびたがるゴーヤは
すぐに天井に届いてしまう。
ということは、ゴーヤが育ちやすいようなネットの張り方を考えなければならないな。
水分が蒸発しないように、土には黒いビニールをかぶせるべきか。
ますます熱くなるか。試してみる価値はあるけど。

梅干しを干す位置は、午前中だけ直射日光があたり、
午後になったらゴーヤの葉のかげに隠れるような場所にしよう。
そうなると、やはり一番の鍵をにぎるのは、ゴーヤのカーテンか。

来年は3月から始動するかな。