山形にいっていた、ゼミの先輩友だち・Aさんが帰ってきた。
トランクいっぱいの山菜をかかえて。
山形の方々のご厚意によるせっかくの品だからとお誘いいただき、
子ども時代は祖父とともに春の野山で山菜をつんだという長崎出身のNさんと、
能登半島の突端・珠洲(すず)市にかようあいだに
山菜文化に魅せられたわたしの2名が、嬉々としてはせ参じた。
…首都圏のスーパーではとうてい入手しがたい、新鮮な山菜のため。
摘みたてのものを現地ですぐいただくのが最高の幸せだけれど、
こちらでやや日にちが経ってしまったものを食するのも
そこはかとなく(個人的には、依然としてかなり)嬉しいもの。
もっとも山菜にはあく抜きなど手間を要するものも少なくない。
だからチャレンジ続きのここ数年は、
いくら食べたくても自分で調理までできず、
不本意ながら疎遠になっていた。
とうとう今年にいたって、
「せめて一口でもいい、山菜の家庭料理を食べたい」
そう思って先月末、久しぶりにひと束のわらびを注文したばかり。
そんなわたしの心情を知るはずもないだろうに
Aさんを介して朝づみ山菜が到来するなんて。
カミサマありがとう。
まずは、朝摘みのうどと感動の対面。
山の精気ただよう、惚れ惚れする美しさだ。
実際に目の前にあると
うどの香りがあたりの空気を浄化していくのがわかる。
日常生活の邪気(?)が払われるかんじ。
うどは、葉は味噌汁や天ぷらに、茎は味噌汁や煮物や揚げ物にと、
すべてが利用できる美味しい山菜。
アクぬきも必要なく、独特の香りと手軽に調理できる。
山菜をさがして野山を歩きながらそだったNさんによれば、
このフカフカのうぶげは新鮮さの証明らしい。
先の世代から伝えられ、経験につちかわれ獲得された、
そうした生きる知恵こそがわたしには財産におもえる。
内心では、心底うらやましい。
いざというとき生き抜くのは、こういう知恵のある人じゃないかと思う。
下の写真は、こしあぶらのクルミ和え。
この若芽は、花がひらく「つぼみ葉」のような姿からはじまって、
少しづつ葉を開きはじめるという。
書道の「筆」状のサイズが「筆葉」と呼ばれ、最上品とされるとか。
こしあぶらの木は、冷涼な峰地などを好むという。
自生地も限定され、20メートルほどの高木になるため、
タラの芽などよりも「採取は困難」といわれる。
そのタラの芽にしてからが、
タラの芽マスターの祖父と山菜狩りをしていたNさんによれば、
一定量を摘むにはそれなりの移動距離を要する作業となるらしい。
こしあぶらのお勧め料理は天ぷらかバター炒め。
揚げるとこんなかんじ。緑がいっそう際だって美しい。
下の写真は、こごみのクルミ和え。
わたしが気にいっている長野の蕎麦屋さんの一軒では
せいろ蕎麦を注文すると山菜料理がついてくるのが常だった。
あれが、こごみとの初の出会いだったような。
産地で食べる山菜や野菜は、どうしてあんなに美味しいのだろう。
首都圏で食すものがまずいとは言わないけれど、
少なくとも、まるで別物だとはおもう。
これは、しどけのクルミ和え。
Nさんもわたしも「しどけ」とは初対面だった。
「しどけない」の「しどけ」なのだろうか。
…ちょっと違う?
最後に、油をかえて揚げたのは、とびきり立派なタラの芽。
まずは水洗いをして、
新鮮な油で天ぷらに。
揚げたてを、さっそく塩で味見。
こんなにおいしくていいの? という感動の味わい。
タラの木は全国にみられる山菜。
山の傾斜地など水はけの良いところに多くあるらしい。
その若芽には独特の味があって人気もある。
別名は「山菜の王様」。
山形帰りのAさんはこのところ天ぷらに凝っているとかで、
ウドや新玉ねぎなど、そのあとも次から次へ手際よく揚げている。
山菜につられてやってきたNさんとわたしは、
揚げたてをつまみながら新潟の地酒・八海山をチビチビのんだ。
「俺様」のような猫と遊び、(たまに)ご飯支度を手伝いつつ。
夕方にあつまったので、なんとなくずっと「夕方」気分。
時間も気にせず、おしゃべりしながらのんびりご飯支度。
「いただきます」と食卓を囲んだのは何時だったか。
しかも口を突いてでた言葉は「新春おめでとう」。
もう5月だというのに。
おもえば今年は、
4月まで冬がつづいたかとおもうと5月の連休に夏日に一転、
春を置きざりにしたような気候だった。
だからこの日の食卓には
忘れられた春を一気に取りもどしたような喜びもあった。
ウドのみそ汁も香気たかく、誰もが満面の笑み。
トランクいっぱいの山菜をかかえて。
山形の方々のご厚意によるせっかくの品だからとお誘いいただき、
子ども時代は祖父とともに春の野山で山菜をつんだという長崎出身のNさんと、
能登半島の突端・珠洲(すず)市にかようあいだに
山菜文化に魅せられたわたしの2名が、嬉々としてはせ参じた。
…首都圏のスーパーではとうてい入手しがたい、新鮮な山菜のため。
摘みたてのものを現地ですぐいただくのが最高の幸せだけれど、
こちらでやや日にちが経ってしまったものを食するのも
そこはかとなく(個人的には、依然としてかなり)嬉しいもの。
もっとも山菜にはあく抜きなど手間を要するものも少なくない。
だからチャレンジ続きのここ数年は、
いくら食べたくても自分で調理までできず、
不本意ながら疎遠になっていた。
とうとう今年にいたって、
「せめて一口でもいい、山菜の家庭料理を食べたい」
そう思って先月末、久しぶりにひと束のわらびを注文したばかり。
そんなわたしの心情を知るはずもないだろうに
Aさんを介して朝づみ山菜が到来するなんて。
カミサマありがとう。
まずは、朝摘みのうどと感動の対面。
山の精気ただよう、惚れ惚れする美しさだ。
実際に目の前にあると
うどの香りがあたりの空気を浄化していくのがわかる。
日常生活の邪気(?)が払われるかんじ。
うどは、葉は味噌汁や天ぷらに、茎は味噌汁や煮物や揚げ物にと、
すべてが利用できる美味しい山菜。
アクぬきも必要なく、独特の香りと手軽に調理できる。
山菜をさがして野山を歩きながらそだったNさんによれば、
このフカフカのうぶげは新鮮さの証明らしい。
先の世代から伝えられ、経験につちかわれ獲得された、
そうした生きる知恵こそがわたしには財産におもえる。
内心では、心底うらやましい。
いざというとき生き抜くのは、こういう知恵のある人じゃないかと思う。
下の写真は、こしあぶらのクルミ和え。
この若芽は、花がひらく「つぼみ葉」のような姿からはじまって、
少しづつ葉を開きはじめるという。
書道の「筆」状のサイズが「筆葉」と呼ばれ、最上品とされるとか。
こしあぶらの木は、冷涼な峰地などを好むという。
自生地も限定され、20メートルほどの高木になるため、
タラの芽などよりも「採取は困難」といわれる。
そのタラの芽にしてからが、
タラの芽マスターの祖父と山菜狩りをしていたNさんによれば、
一定量を摘むにはそれなりの移動距離を要する作業となるらしい。
こしあぶらのお勧め料理は天ぷらかバター炒め。
揚げるとこんなかんじ。緑がいっそう際だって美しい。
下の写真は、こごみのクルミ和え。
わたしが気にいっている長野の蕎麦屋さんの一軒では
せいろ蕎麦を注文すると山菜料理がついてくるのが常だった。
あれが、こごみとの初の出会いだったような。
産地で食べる山菜や野菜は、どうしてあんなに美味しいのだろう。
首都圏で食すものがまずいとは言わないけれど、
少なくとも、まるで別物だとはおもう。
これは、しどけのクルミ和え。
Nさんもわたしも「しどけ」とは初対面だった。
「しどけない」の「しどけ」なのだろうか。
…ちょっと違う?
最後に、油をかえて揚げたのは、とびきり立派なタラの芽。
まずは水洗いをして、
新鮮な油で天ぷらに。
揚げたてを、さっそく塩で味見。
こんなにおいしくていいの? という感動の味わい。
タラの木は全国にみられる山菜。
山の傾斜地など水はけの良いところに多くあるらしい。
その若芽には独特の味があって人気もある。
別名は「山菜の王様」。
山形帰りのAさんはこのところ天ぷらに凝っているとかで、
ウドや新玉ねぎなど、そのあとも次から次へ手際よく揚げている。
山菜につられてやってきたNさんとわたしは、
揚げたてをつまみながら新潟の地酒・八海山をチビチビのんだ。
「俺様」のような猫と遊び、(たまに)ご飯支度を手伝いつつ。
夕方にあつまったので、なんとなくずっと「夕方」気分。
時間も気にせず、おしゃべりしながらのんびりご飯支度。
「いただきます」と食卓を囲んだのは何時だったか。
しかも口を突いてでた言葉は「新春おめでとう」。
もう5月だというのに。
おもえば今年は、
4月まで冬がつづいたかとおもうと5月の連休に夏日に一転、
春を置きざりにしたような気候だった。
だからこの日の食卓には
忘れられた春を一気に取りもどしたような喜びもあった。
ウドのみそ汁も香気たかく、誰もが満面の笑み。