サバ奈子

むかし猫ブログ、いま趣味ブログ

釧路市 野外彫刻 南大通ギャラリー

2025-01-12 08:47:35 | 野外彫刻

夕食後、釧路川沿いをお散歩

河川沿いは公園になっていて、ぬさまい広場というらしい。

釧路の夜歌碑 の後ろに、

Cool KUSHIRO

2020年12月5日に誕生した、釧路市の新しいフォトスポットです。

釧路市北大通1-1 ぬさまい広場内

南大通りギャラリーです。

彫刻があります。

送り火
米坂ヒデノリ

建物前にある米坂ヒデノリ作の3体の像が評価され、第3回都市景観賞に輝きました。

税理士の近藤氏が事務所として使用していましたが、移転の際にギャラリーとしてオープンしたスペースです。

いずれも米坂ヒデノリ作。喜びや悲しみ、人の心の奥底にある複雑な感情を表現し、北海道の風土を表した独特な印象を与えています。

歩道ではなく、建物の敷地内にあるので、私物なんだなぁ・・と思いました。

次の作品

防雪林
米坂ヒデノリ

防風林はよく聞くが、防雪林はあまり聞かない。

鉄道沿線によく整備されているらしい。

北海道らしい題材です。

足元にサインあり。

次の作品。

母と子
米坂ヒデノリ

北海道は寒いからね。ぎゅっと赤ちゃん抱っこするとあったかいのよね。

赤ちゃんもちゃんと保温しないと低体温になっちゃうから、よけいぎゅっと抱っこするのよね。

南大通ギャラリー
釧路市南大通3丁目1-10

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置戸町 野外彫刻 その4

2025-01-08 05:56:52 | 野外彫刻

おけとコミュニティホール ぽっぽ です。
ふるさと銀河線(平成18年廃止)旧置戸駅駅舎です。

ロビーの中に彫刻あり。

続 金色夜叉
再会の像
制作者 兼子真一

続 金色夜叉 置戸 再会の像

熱海を舞台にした「金色夜叉」は、尾崎紅葉の死により未完となった、明治を代表する小説である。

その後大正六年~大正十一年にかけて長田幹彦により続編が書かれ、物語は置戸の地で繰り広げられる。貫一とお宮は熱海の壮絶な別れを乗り越え、置戸の地で再会を果たす。

「再会の像」は、置戸ぽっぽ絵画館の開館十周年を記念して、作家兼子真一とオケクラフトの技術協力を得て現地で制作された。

「再会の像」は見る角度によって、貫一とお宮の「孤独」「すれ違い」「再会」の場面となるよう表現されている。

制作後、間もないため、完全に乾燥していませんので汚れる場合があります。
お手を触れないようお願いいたします!
NPO法人 置戸ぽっぽ絵画館

二〇二三年制作 置戸ぽっぽ絵画館十周年 長田幹彦著「金色夜叉 終編」百周年

デッサンかな。
2022 Kaneko のサインあり。

おけとコミュニティホール ぽっぽ の反対側の玄関には置戸駅の表示あり。

玄関前に彫刻あり。

人間ばん馬 置戸町

商工会青年部が中心となって、昭和50年から人間ばん馬大会の前身ともいえる「草ばんば大会」が2年続けて行われ、昭和52年、「第1回バチ曳き合戦」が開催されました。
昭和56年、「バチ曳き合戦」の名称を改め、「人間ばん馬大会」として今日まで開催しています。

歴代優勝チームが刻まれています。

制作・G.kinukawa
鋳造・株式会社 木下合金

彫刻の後ろにあるのが、続金色夜叉でお宮の目に止まった置戸駅前の松。貫一と別れた熱海にあった松にあまりにも似ていたので思わずしがみつき、昔を偲ぶシーンが描かれている。現在は五代目の松とのことです。

おけとコミュニティホール ぽっぽ
北海道常呂郡置戸町字置戸

なお、置戸町役場をじっくり2周したけど、上記の彫刻は見当たりませんでした。
画像は北海道デジタル彫刻美術館から拝借しました。

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置戸町 野外彫刻 その3

2025-01-07 05:50:21 | 野外彫刻

そば処 いなだ屋 の前に

ツリーのような造形があります。

手づくり郷土賞
国土交通大臣 扇千景
地域整備部門
北海道 置戸町
平成十四年十一月
寄贈(財)北海道開発協会

銘板じゃなかった。

日本の各地で、地域特有の自然や歴史、伝統、文化や地場産業等を貴重な地域資源として見直し積極的に利活用した、魅力ある地域づくりの事例が数多く生まれてきています。

「手づくり郷土賞」は、このような地域活動によって地域の魅力や個性を生み出している良質な社会資本とそれに関わった団体のご努力を表彰するものです。また、これらの好事例を広く紹介することで、各地で個性的で魅力ある郷土づくりに向けた取組が一層推進されることを目指しています。

「手づくり郷土賞」は昭和61年度に創設され、令和6年度で39回目の開催となる国土交通大臣表彰です。

同じく そば処 いなだ屋 の前に彫刻あり。

JOSEF KUSSER
94529 AICHA v.W.
GERMANY

本来は水の上に浮いていて、ころころ回る造形だと思う。

本格手打ち そば処 いなだ屋 置戸本店
北海道常呂郡置戸町字置戸94-1

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置戸町 野外彫刻 その2

2025-01-05 08:08:02 | 野外彫刻

置戸町立図書館 です。

置戸町で昼食の店を探しているときに見つけました。

玄関前にあります。

最初、作品なのかわからず近づいたのですが、銘板があったので撮ってきました。

Eternal Box(永遠の箱)
Suzuki Junzaburo
製作:2005年1月 素材:Col-Ten鋼

置戸町立図書館
常呂郡置戸町字置戸445番地の2

図書館のすぐ近くに

オケクラフトセンター森林工芸館があって、

敷地にシマフクロウがいます。

町のホームページによると、町内の大型野外彫刻第一号とのこと。

アイヌの人々がコタンコロカムイ(村を守護する神)として崇めたシマフクロウ。
ロベルトは、シマフクロウが、いつまでも北海道の森林と豊かな自然の守り神であることを祈って制作に取り組みました。

素材は青銅とのこと。

オケクラフトセンター森林工芸館
北海道常呂郡置戸町字置戸439-4

Flower Town の案内板があり、

小公園のようなスペースに

フクロウ親子 がいます。

大通り商店街ポケットパークに設置したフクロウの親子。

フクロウは、豊かな森と清流のある場所に生息し、森の守り神といわれています。

「モニュメントの親は子ども2羽の親ということではなく、森にいる動物たちや人間の子どもたちを守る森の妖精」とのロベルトの思いが込められています。

電話ボックス型モニュメントでしたが、現在、公衆電話は撤去されています。過去にテレビ番組で紹介されたことも。
夜はライトアップされています。

置戸町
大通り商店街ポケットパーク

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置戸町 野外彫刻 その1

2025-01-04 08:54:43 | 野外彫刻

車を走らせていて、たまたま見つけました。

勝山温泉 ゆうゆ

最初、彫刻なのかわからず近寄りました。

そうしたら温泉の説明と彫刻の説明がありました。

この地に湧出した五十二、四度 毎分二三〇〇リットルという大量の温泉は、弱アルカリ性低張性高温泉で 神経痛や慢性皮膚病、冷え性、動脈硬化症などに効用があることから入浴に利用するため、交流促進センター 勝山温泉ゆうゆを建設しました。

平成四年の秋、家族とともにニューヨークから置戸町勝山に移住したアメリカ人の彫刻家 ロベルト・ベッシンさんが完成を記念してこのシロハヤブサの像を制作しました。
平成六年十二月
置戸町長

シロハヤブサ

勝山温泉 ゆうゆ
置戸町字常元1番地の5

作品だということが分かったので、こちらの作品も撮りに戻りました。

地元の人が観光用に竹細工でも作ったのかと思った。

こちらは勝山農村公園のコテージ・トレーラーハウス側にあり、先ほどの彫刻のすぐ近くです。

アオサギ像

銘板はなかったのですが、

地図の中にアオサギ像とありました。

こちらの作者もロベルト・ベッシンとのことです。

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美唄市 野外彫刻 その6 茶志内PAその2

2025-01-02 12:18:11 | 野外彫刻

高速道路の茶志内PAです。(下り)

以前、上りの方のPAは載せましたが、こちらは初めて立ち寄って見つけました。

「びばい」とは、アイヌ語の「ピパ・イ」または「ピパ・オ・イ」に由来するものといわれ、「カラス貝の多くいるところ」の意味であります。
また、カラス貝は、びばい(美唄)の「ひ」と組み合わせた図案化により美唄市の市章となっております。
このモニュメントは、「美唄」の語源であるカラス貝と日本最北端の寄留地となっている宮島沼に飛来するマガンと、同じ時期に羽を休めている白鳥をテーマとして、製作したものです。
昭和53年10月1日建立

なるほど、横から見るとカラス貝。

美唄は札幌から高速に乗るとあっという間だから、休憩に寄ることもなくて、今まで見逃していました。

トイレしかない小さなSAです。

茶志内PA

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旭川市 野外彫刻 旭川観光物産情報センター

2024-12-22 08:17:52 | 野外彫刻

JR旭川駅です。

駅の中にある、旭川観光物産情報センターです。

いつの間にか彫刻がありました。

啄木さんの隣の座席が空いています。
どうぞ一緒に記念撮影して下さい。

◆旭川の石川啄木像・歌碑の由来◆
国民詩人石川啄木と旭川とは、どんなかかわりがあるのだろう。
それは、啄木の不朽の歌集「一握の砂」の中にあった。
彼は、小樽から釧路へ向かう途中1908年(明治41)1月20日、旭川駅前の「宮越屋旅館」に1泊し、翌朝釧路へと向かった。わずか15時間余の滞在であった。しかし旭川の歌4首が、のちに作られ同歌集に収められた。
2010年10月、東京旭川会において、旭川に滞在した啄木の足跡を残そうという提言が、旭川出身の著名な啄木研究家近藤典彦氏によってなされた。
2011年7月、これに賛意を表する旭川の文化人・経済人・東京旭川会会員らでつくる有志によって「旭川に石川啄木の歌碑を建てる会」が結成された。そして、啄木没後100年「悲しき玩具」刊行100年を期して啄木像・歌碑を建てる活動が始まった。それは講演会・パネル展などの開催、大々的な募金活動などとなって展開された。
2012年4月13日、ついに100年目の「啄木忌」を迎え、念願の啄木像・歌碑の除幕式の日となった。今後、全国に向かって旭川の啄木像・歌碑からメッセージが発信されることになる。いつまでも愛されることを希うものである。

啄木像制作:中村園(造形作家)=旭川出身
歌碑揮毫:中西清治(画家)=旭川出身

隣に座って一緒に写真を撮るといいです。

石川啄木像・歌碑 旭川

◆歌の解説◆
石川啄木は一九〇八年(明治41)一月二〇日旭川駅で下車した。すぐに「停車場前の宮越屋旅店」に向かった。宿屋の「帳場の上の時計は、午後三時十五分を示して居た。」(雪中行)新聞記者啄木は早速市内見物に出かけた。
北海道奥地の新興都市旭川が気に入った。
夜になって釧路新聞社長白石義郎が合流した。一泊して翌朝六時半の汽車で釧路に向かった。旭川滞在は一五時間余であった。
一九一〇年(明治43)一〇月、啄木は旭川滞在を改装して四首の短歌を作り、不滅の歌集「一握の砂」に編集した。二週間滞在し非常に気に入った札幌の場合でさえ四首である。旭川の四首は当時の印象が鮮烈であったことを物語る。
四首は二首一組になっている。

名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿や安けし
我が家のごと

北海道奥地の旅館なのにどっしりとして広い部屋、大きな桐胴の火鉢、行き届いたサービス。啄木にとって旭川の好印象と重なる宿となった。

伴なりしかの代議士の
口あける青き寝顔を
かなしと思ひき

白石社長(五月衆議院議員になる)の寝顔には、福々しいこの人がふだん見せることのない疲労と苦痛が表れていた。啄木は人生のむなしさが見えるようで、悲しいと思った。これもあの宿につながる思い出だ。
以上二首は一月二〇日のことをうたっている。
次の二首は二一日の歌である。

今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
泊まりし宿屋の
茶のぬるさかな

六年前の一九〇二年(明治35)一月二五にち氷点下四一度を記録した旭川である。
この日も猛烈な寒気が天地を覆う。宮越屋旅館にも寒気は容赦なく侵入する。
熱湯は急須に注ぐとぬるくなる。湯呑に入れるとなお冷める。口に含むころには夏の川の水のよう。
「茶のぬるさ」はこの日の厳寒の表現なのである。

水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色

六時半発の汽車に乗る。まだ日の出前である。この日の気温は氷点下二七、一度。
列車のすべての窓には千変万化の模様が満遍無く凍り付いている。
東南東の化雲岳あたりから射して来る紅い光がその模様を染める。
こうして二首は旭川の大寒のあかつきをうたっているのである。

旭川観光物産情報センター
北海道旭川市宮前通西4153-1 JR旭川駅構内

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稚内市 野外彫刻 その21

2024-12-16 06:05:44 | 野外彫刻

宗谷会館 です。

宗谷会館と書いてあるけど、稚内市役所生活福祉部宗谷支所とのことです。

宗谷三百年 記念之碑
1984.8.6建立

敷地の角に
稚内市発祥之地
八十周年記念

江戸時代、1663(寛永10)年に最初の鎖国令を出した幕府は、諸国の商人にアイヌとの直接交易を禁止し、蝦夷地(現在の北海道)に入れるのは松前藩だけとしました。ここ宗谷に、松前藩の直轄地として宗谷場所が開かれたのはこの頃と考えられています。
18世紀後半になると、ロシアが交易を求めて蝦夷地にあらわれるようになります。その対策として、宗谷では津軽藩、会津藩が北方の警備に当たり、さらに幕府の銘をうけた庵原弥六、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵などがこの地を訪れています。
1879(明治12)年7月、戦後、1995(昭和30)年に宗谷村と稚内市は合併し、今日に至っています。
いまも宗谷には、宗谷護国寺跡、宗谷厳島神社、旧藩士の墓をはじめ貴重な文化財が残されています。

宗谷会館(稚内市役所生活福祉部宗谷支所)
稚内市宗谷村宗谷

宗谷小学校です。

開校百周年記念之碑
宗谷小学校開校百周年記念協賛会
平成4年8月23日

壁にレリーフがあります。

稚内市立宗谷小学校
稚内市宗谷村宗谷

間宮林蔵 渡樺出向の地の碑

間宮林蔵は2度にわたって樺太を探検しました。
第1回目は文化5年(1808年)4月13日(新暦5月8日)のことで、松田伝十郎とともに宗谷のこの地を出発。樺太のシラヌシに渡り、間宮海峡の存在を確認すると、閏6月20日(新暦8月11日)に、シラヌシから宗谷に戻ってきました。
第2回目の出発は宗谷帰着から23日後の7月13日(新暦9月3日)のことで、単身で渡樺した林蔵は6人のアイヌ人を雇い、西海岸を北上。トンナイでひと冬を過ごし、ノテトから交易に向かうニブブ族の一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻ってきました。
間宮林蔵の足跡は、村上貞助によって「北夷分界余話」、「東韃地方紀行」としてまとめられ、文化8年(1811年)、幕府に提出されました。この2冊は「樺太編」、「大陸編」というべきもので、「北夷分界余話」には樺太の地名や地勢、民俗が、「東韃地方紀行」には清国の仮府が置かれたデレンを中心としたアムール川下流地方の調査が報告されており、現在でも北方アジアを知る貴重な資料になっています。
稚内市教育委員会

此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建て部落のすべてが
毎年の祭を行えリ砦
は当時をしのぶ唯一のもの也
宗谷アイヌ 柏木ベン

樺太見えますか。

拡大↓

 歌 碑
噫宗谷海峡
  東海林義夫
暮色蒼然 俺樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡

 還らざる
 友の面影
  偲びつヽ
 宗谷岬に
  一人佇む

この石碑は全くわからなかった。摩耗しすぎ。

とりあえず、石碑は全部撮ってこよう。

念法眞教開祖小倉霊現大僧正 日本最北端御巡錫記念碑

灯主の祈り

日本最北端の地碑は3回くらい訪れていますが、

こちらを撮り忘れておりました。

宗谷岬 音楽碑

「宗谷岬」音楽碑
黒御影石の碑面に歌詞と楽譜が刻まれているのは、ここ宗谷岬の春の光景を歌った郷土の歌「宗谷岬」です。地元で活動を続けてきた吉田弘が詞を作り、演歌歌手の船村徹さんが作曲しました。1976(昭和51)年にNHKの音楽番組「みんなの歌」で、ダ・カーポが歌う曲が全国に紹介されヒットしましたが、ほかにもボニージャックス、千葉紘子さん、芹洋子さんなど、多くの歌手により歌われてきました。「宗谷岬」は最果ての旅情を掻き立てる叙情歌として今も人々に歌い継がれています。

稚内市大字宗谷村字宗谷

稚内市立大岬小学校です。

北海道デジタル彫刻美術館に載っているので、撮ってきました。

壁面レリーフですね。

拡大

日本最北端の小学校です。

稚内市立大岬小学校
稚内市宗谷岬12-12

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稚内市 野外彫刻 その20

2024-12-15 19:44:25 | 野外彫刻

宗谷公園です。

ちょっと離れたところに

ぽつんと彫刻があります。

高い台座にちょこんと胸像があります。

間宮林蔵顕彰碑

この地から間宮林蔵が樺太探検に出たとのことである。

作者不明。サインもなし。

石碑はあるのだが、摩耗しており、解読は厳しいです。

コーヒー豆の形をした記念碑。

津軽藩兵詰合記念碑

望郷之座石

説明文もあるのだが、文字起こしが面倒なので、稚内市のHPより。
幕府がここ宗谷に最初に派遣したのは津軽や会津等東北の藩士でした。悲惨を極めた派兵も文政4年(1821)に蝦夷地の幕府直轄が廃止されたことに伴い一応打ちきられましたが、その後安政2年(1855)に再び幕府から藩士が派遣されました。
しかし、この時代にはクワエヒル(ストーブの原型となったもの)が造られたり、フランケット(毛布)が使用されるようになったこともあり、妻子を連れて越冬できる程備えはできていたようです。
幕府が再び北辺の地で越冬を命じた時には、水腫病の予防薬として和蘭コーヒー豆が配給されたという記述が残されています。
この碑は、コーヒーを飲むことができずに亡くなっていった藩士たちを悼み、その後、薬としてコーヒーを大切に飲んだであろう先人たちに思いを馳せ、津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり建立したもので、平成4年(1992)9月に除幕されました。

中千島方面 戦没者慰霊碑

1945(昭和20)年、8月14日大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明(第二次世界大戦が終結)した。
戦時中、千島列島も米軍機の攻撃を受けていたが、ポツダム宣言受諾の了解をもって止み、日本軍も武装解除を行った。
1945(昭和20)年、8月11日、北緯50度線国境を侵犯してソ連の赤軍・第一極東軍が南樺太に侵攻する。
その後、8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守島に上陸、日本軍と交戦している。
この千島列島は日本軍により、北千島・中千島・南千島の3地区に分けてそれぞれに守備隊を置き、戦争末期には、北千島(占守島と幌筵島)は第91歩兵師団を中心に約2万3千名が守備についており、このうち占守島には第73旅団と戦車第11連隊、第1砲兵隊を基幹とした海軍部隊を含む約13000名が配置されていた。
8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側資料によると、ソ連側が1567名、日本側が1018名の死傷者。日本側資料ではソ連側が約3000名、日本側が約600~700名の死傷者を出したとされている。
その後もソ連軍の南下は続き、8月28日には択捉島、9月1日には色丹島、5日には水晶島が占領され停戦した。
これら千島を防衛した日本軍と成人男子の民間人は、シベリアへその後強制連行され(現・マガダン、ロシア連邦の都市でマガダン州の州都)最も過酷なコルィマ鉱山採掘労働・木材の伐採等に従事させられその殆どが無念の死を迎え、再び祖国の地を踏む事が無かった。
よく沖縄戦を国内最期の地上戦と記したものもあるがそれは誤りで、占守島をはじめとする千島列島、樺太の戦いが敗戦後にソ連の侵攻で戦われており、これが最後の地上戦となる。千島列島(北方領土)は未だに返還される事無く現在に至っている。
ちなみにこの慰霊碑は、1945(昭和20)年中千島に展開中の第四二師団が宗谷地区に転進してきた。司令部を稚内市に置き、宗谷要塞の砲台が火力を発揮するべく、第一ニ九連隊が円山・珊内方面に、第一三〇連隊は東浦から宗谷方面に配置されたことに由来するものであろう。

忠魂碑

鳥居があって

宗谷厳島神社

この木彫が北海道デジタル彫刻美術館に載っているので撮ってきた。

たぶん、ガラスで保護されている部分かと

宗谷公園
稚内市大字宗谷村字宗谷

すいません。いつも朝に更新しているのですが、更新したつもりでうっかり忘れていたようです。
夜の更新になりました。

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稚内市 野外彫刻 その19

2024-12-13 05:53:08 | 野外彫刻

ミルクパーキングです。

こちらに彫刻があります。

レダ(Leda)
田淵吉信

ギリシャ神話に登場する、スパルタ王チュンダレオス妃。
沐浴中、白鳥の姿となって近づいたゼウスと恋をした。

ミルクパーキング名称由来
利尻富士を遠望し、海洋景観、市街地、大沼景観を一度に楽しむことが出来る当パーキングは、従来の機能面重視の広域農道から潤いとくつろぎのある道路への要求を反映し、先に造られた「白鳥橋」に続いて稚内市他5町村(浜頓別町、枝幸町、中頓別町、歌登町、猿払村)から構成される「宗谷地域営農団地整備計画」の一環として計画され設置された。

この緑豊かな天北北部地区は日本離れした雄大な風景にふさわしく館内に7つの公共牧場を有している我が国において最も有望視されている畜産地帯である。

道道稚内鬼志別港線を起点とし、道道抜海兜沼停車場線を終点とする丘陵地のほぼ中央部を横断する総延長42km(国道併用区間を含む)のこの農道は、牛乳等の農畜産物を輸送する車が多く通ることから地元の人々にミルクロードと呼ばれている。

ミルクパーキング
稚内市声問村

ミルクロードから白鳥橋へ。

白鳥の彫刻があります。

作者等はありません。

対岸の彫刻は撤去されていました。

街灯に白鳥

四隅に彫刻があり、

それぞれ白鳥のデザインが違うのでした。

羽根を広げていますね。

対岸の白鳥

白鳥橋
稚内市声問5丁目40-1

稚内空港です。

オブジェがあります。

寄贈者はあるけど、作者はなし。

空港の建物の中にも彫刻がないか入ってみたけど、これだけでした。

稚内空港
稚内市声問村声問6744

コメント (2)
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