「何か1つ」を見つける毎日(⌒‐⌒)

自然と神様と猫と木と音楽、、それからそれから、、( - ө - )

陰謀、、。怖いけど、ここから一気に加速するか?! 鎌倉時代の少し前

2023-11-23 11:27:45 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
何しろ八百年以上も前のことですもんね、、。何が事実で何が嘘かはわからないけど、ここに来て、鹿ヶ谷の陰謀が実はでっち上げじゃないか論が出てきて。もしこれが本当だとすると、清盛くんは相当に頭の良い人だと感じました。鹿ヶ谷の陰謀が行われた頃、延暦寺への攻め、が後白河法皇により命令されていて、じゃあ何で延暦寺を攻めるのよ?と言いますと、そもそものきっかけは後白河法皇の重臣である西光(藤原師光)の子供二人が考えなしに白山のお寺(天台宗、総本山比叡山延暦寺系湧泉寺)を焼き討ちした事で、延暦寺側を怒らせてしまった事、が始まりでした。焼き打ちした2人を処分しろと強く迫る延暦寺側に押され後白河法皇は渋々?2人を流刑に処しましたが、今度はこれに腹を立てた西光が「こんな事になったのは、全てあの、比叡山延暦寺の座主、明雲のせいだろうが!うちの子どもの流刑を解き、明雲を罰してくださいよ🤬💢」と後白河法皇に訴えます。※明雲=天台宗総本山比叡山延暦寺座主(つまり、トップという事)。いやいや、本当に、後白河法皇も大変ですな。あっちからもこっちからもいろいろ言われて、、。でもとにかく、法皇は「よし!明雲をつかまえろ」となるのですから、意外と単純な方だったのでしょうか、、(゜゜)。捕らえられて伊豆の国に流される途中で明雲は、僧兵他の人々に奪われ(救出)、延暦寺に連れ戻されました。
くーっ🤬「なんか腹立つ!こうなったら、、延暦寺を攻めろ!清盛!」
清盛(及び重盛、他)唖然、、(´゚д゚`)「え?!なんでよ、、やだよ〜」と思ったに違いありません。


神社仏閣を敵に回すなんざ言語道断、どんだけ怖いことか、、このかた、わかってないんかい、、(・・;。しかし、、法皇に逆らうのは、これまた厄介なことになりそう。どちらに転んでも厄介になりそうで、悩んでいた、その時に!、、何ともすごいタイミングで、例の、鹿ヶ谷の陰謀


が起こるのです。うわっ😵怖い。怖いけど、でも、何かこのあたりから、鎌倉時代に一気に近づく予感、、ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ



放たれて、、神輿担ぐ。

2023-11-21 21:34:18 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
いくら何でも、清盛は強すぎる、、。確かに仕事もできるけど、、。いつか私の地位を脅かすんじゃないかしら。あ〜怖い、、。←こんな事を、後白河法皇はもしかしたら日々考えていたのかも知れません。しかも、清盛くんは高倉天皇に娘を嫁がせてもいるのです。益々発言力がデカくなるじゃないか、、😟。そんな折、後白河上皇にとり、またまた頭の痛い事件勃発。後白河法皇の家臣である西光こと藤原師光の子供たち2人(師高&師経)⚠実際は、師経が地方に行った際の出来事を発端に勝手に怒り、神聖な白山の湧泉寺というお寺に火をつけ燃やし事が始まりだったようです。湧泉時の方たちは、自分たちの本山?である比叡山延暦寺に訴えました。当然ですが、話を聞いた延暦寺の方たちは怒りました。メラメラ🔥(# ゚Д゚)。「朝廷に直訴じゃ!2人を処罰しろ!🤬」

、、しかし、何故かこの訴えを朝廷が無視、、。「無視しおったな!許せん、、💢。」延暦寺の僧兵たちは、デカい神輿をながら朝廷へ突入。初めは無視していた後白河法皇も、流石にヤバいと思ったのか、仕方なく、湧泉寺に火をつけた藤原兄弟の弟師経を流刑に処しました。、、延暦寺側「何でよー?!二人して悪さしたのに一人しか罰せられないのよ?納得できないよなあ、、」てな事で再度出撃。またまた神輿担いで。「二度目の押しかけだな、マズいな」後白河法皇は焦ります。

この時、対応を任されたのは清盛の息子、重盛。「うわ、二度目かぁ、、。とりあえず追い払わなあかんな、、」矢🏹を構え、それ〜っ。ところが、、(@_@;)運悪く放った矢は神輿に命中🎯。怒ったのは延暦寺側の人達「神輿は神だぞ!神輿に屋を放つなんて!も〜バカバカ!」といった感じで更に怒らせてしまう結果となりました。法皇「ああ、もう仕方ない、こうなったら兄も流刑だな、、。」という事で最終的に二人とも流刑に処されました。

一応、これで幕は降りた形ですが、このあたりから、武家たちの力は益々強まり、法皇の立場を脅かす存在となるのでした。

Baby天皇誕生 なのさ。 鎌倉時代の少し前

2023-11-19 15:49:30 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
平清盛は保元の乱、平治の乱と勝ち進みまさに飛ぶ鳥を落とす勢いでげす。

後白河上皇が自分で選んだ跡継ぎの二条天皇は短命でしたが、頑張り屋さんでした。院政を敷き、力をちらつかせる後白河上皇に反発もしました。実力も兼ね備えていたはずなのに、病が、、(;_;)。そして、いよいよ病が重くなりもうだめだという時に息子の順仁を跡継ぎにしますが、この時順仁はまだ0歳、、。赤ちゃんや😞。でも、とにかく0歳でもなんでも、順仁は即位して六条天皇となりました。後白河上皇は気が気でありません😟。何故でしょう?それは、六条天皇派の力が強くなり自分の立場が危うく事を恐れたからです。
色々心配が尽きない後白河上皇、、。ソリャソーダ。で「どうすっかな、、🤔、、あ、そうだ💡」こういう時に素晴らしく頭が働く後白河上皇。「自分の子供を皇太子にしておけば安泰じゃないか。」ややこしいですが、つまり、自分の孫の跡継ぎに息子を指名した、という事です。当然ながら0歳よりは年上の息子。「憲仁。5歳🖐。」こちらが皇太子となりました。これなら安心じゃろ。そして更に、何だかんだと理由をつけ、六条天皇を退位させ、憲仁を天皇にしたのです。これが高倉天皇でございます。
ちなみに、若くして亡くなった二条天皇同様六条天皇もご病気で若くして亡くなりました。
高倉天皇のもとに嫁いだのは、実力者、平の清盛くんの娘、徳子。たいら清盛にすれば「これで俺もいよいよ名実ともに、、ヒッヒッヒ、、( ̄ー ̄)」

といったところでしょう。だが、、清盛は、いかんせん、強くなりすぎました。出る杭は打たれる。敵多し。といったところか。、、。そして、清盛くんをよく思わない人の中に、他ならぬ後白河上皇もおりました。「何だかなあ、、最近の清盛くんは権力が増してきて、何か不安だなあ、、😮‍💨」←後白河上皇、心の呟き。

乱が止まらない 平治の乱 鎌倉時代の少し前

2023-11-19 13:21:44 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾

保元の乱で、武士の手を借りて勝利した後白河天皇、、まずは一安心☺。「わし、、息子に皇位を譲るわ。ほんで、わしは、上皇になりますがな。」決断早く、後白河天皇は息子を天皇にし自分は上皇になりました。息子は「二条天皇」となりました。さて、、それで安泰かといいますと全くそうではなかったのだ。
後白河上皇には、僧侶でもあった信西(藤原通憲)というやり手の側近がおりました。彼の母さんは後白河上皇の乳母をしてまして、まあ、そんな関係からちゃっかり側近の座についてたわけですか、実際に仕事もできる人でした。この信西に何気に近づいていったのが例の、平清盛です。近づいて、信西に好かれるよう頑張るのでした。 すると、今度は、これを面白くなく思う方たちが現れます。保元の乱で後白河側について戦った源義朝と、後白河上皇の重臣である藤原信頼です。藤原信頼👨「なんだかなあ、、。信西なんか大した家柄でもないくせに、後白河上皇からやけに気に入られてるよなあ、、(●`ε´●)」

源 義朝「おいら、保元の乱であんなに頑張って勝利したのに、何で清盛ばかり出世するんだヽ(`Д´)ノ報われんよなホント、、🔥」←と、こんな感じです。面白くない想いを抱いていた二人は結束します。コソコソコソ👂。作戦を練り、平清盛が熊野参拝に出かけてる間に信西を捕まえて、死に追いやってしまいます。これが、平治の乱の始まりです。やれやれ、また乱か、、。結局、急いで熊野から戻った平清盛が挙兵し藤原と源を破り、 藤原頼信も源義朝も◯刑されてしまいます。

この、平治の乱で父とともに戦に初参戦したのが、源頼朝。
繋がりましたなあ。父はやられてしまい、頼朝も島流しになりました。が、その後の活躍は以前こちらのブログでも触れましたね。近づいてきた、、少しずつ鎌倉時代が近づいてきた、、。


一歩進んでニ歩下がりながら、今日も後白河天皇 鎌倉時代前後

2023-11-18 01:00:41 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
たどり着きそうでまだたどり着けない鎌倉時代、、。北条政子の活躍まではまだまだ遠いなあ、、。この時代も他の時代に負けじと劣らず歴史に名を残す人物が目白押しで、そこ飛ばしては鎌倉時代にたどり着けないんじゃな、多分。院政と武家との絡みがまた複雑で、わし、、来月の鎌倉旅に行くまでに鎌倉時代にたどり着けるのかしら(・・;。と思いつつ、今日も先日に引き続き後白河法皇が登場✌。晴れて天皇に即位した後白河天皇ですが、この人事を快く思わない人ももちろんおりました。そうです、前にも紹介した崇徳上皇です。この方は、後白河天皇のお兄さんだと前に紹介しましたが、実は(´゚д゚`)今日(正しくは昨日)知った衝撃の?事実が、、Σ(゚∀゚ノ)ノ!!実は、崇徳上皇のお父さんは、鳥羽法皇ではなく、鳥羽法皇のお爺さんにあたる白河法皇だったそうで、、う〜ん、、混乱する(+o+)。えーと、、うーんと、、鳥羽法皇の子とはなってますが、、鳥羽天皇のお父さんは堀河天皇だから、その更にお父さんである白河法皇が崇徳上皇のお父さん。でも家系図的には、白河法皇は崇徳上皇の曾祖父さんに当たるということですか。なんかよくわからなくなってきた。うう、、。混乱。間違っていたらスミマセン💦

で、それはそうとして、鳥羽法皇の跡継ぎに一番最初に任命されたのが、鳥羽法皇の実子である近衛天皇であります。後白河天皇じゃないのよなあ、、。しかし、この近衛天皇は残念ながら若くしてお亡くなりになってしまった。で、次に任命されたのが近衛天皇のお兄様である後白河天皇でございます。この方については、前回書きました。天皇になるまですんなりとはいかなかったのですなあ。で、なったらなったで崇徳上皇から、「俺はそんなのいやじゃ。」と思われてしまうのだから苦労が絶えません。で、、鳥羽法皇が亡くなった途端、、乱が勃発←有名な、保元の乱ですな。後白河天皇派と崇徳上皇派が争うことになります。この乱では、平氏や源氏の身内内でもどっちにつくか分かれてしまい、最後には身内が身内を裁くという悲惨なことになってしまいます。辛い時代だ、、。この保元の乱あたりから、武士の力量がどんどん増してきて、「ああ、このままじゃ皇族の力は衰え、武士たちが強くなっていくぞ
。」と想い始めていた皇族もいたのではないかしら。後白河天皇もその一人かもしれません、保元の乱で自分の側に付いてくれた平氏や源氏たちの素晴らしい戦いぶりに感心すると共に、「この人達、、強すぎじゃないかい?やる気が漲ってるし」とも感じていたのでは、、。
事実このあと益々武士たちは強くなりだします👊。