「何か1つ」を見つける毎日(⌒‐⌒)

自然と神様と猫と木と音楽、、それからそれから、、( - ө - )

器じゃないとか、、大きなお世話じゃ😤 鎌倉時代

2023-11-15 16:25:58 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
ややこしやー、ややこしやー、と、何年か前に、日本語であそぼう、とかいうNHKのEテレでよく流れていたが、今、図書館から借りてきてる本を読みながら、頭の中にこの言葉が渦巻いているのだ🌀。何がそんなにややこしいのか、、。鎌倉時代を調べる時、しょっちゅう登場してくる後白河法皇についての記述について、である。知らなんだ知らなんだ、、後白河法皇がこんなに大変な人生を送られていたなんて。一般的に、後白河法皇は、長年何人かの天皇の上皇として絶大なる権力を発揮したかたと思われている気がするが、今読んでる本を読むと山あり谷あり幽閉あり逃亡ありと、、ジェットコースターのような人生ではないか。ヒーっ。何たって、初めから余りハッピーではなかったようで、近衛天皇が17歳という若さで夭折すると、鳥羽法皇から天皇になるよう言われ後白河天皇として即位しました。が、任命した鳥羽法皇が、普段から「雅仁はさー、天皇ってい器じゃないよねー😞」と言ってたらしいから複雑だ。何だかなあ、、😮‍💨。

対して崇徳上皇の子は優秀だったらしく、崇徳上皇は悔しがった模様です。まあ、何を持って優秀というのかは、実際わかりませんがね。愚鈍に見えても政治手腕に長けてる人もいるし、逆もある。結論から言えば、何だかんだで三十年以上も院政をやったんだから、わたしゃ後白河法皇は頑張り屋さんだと思います。鳥羽法皇が亡くなるやいなや後白河天皇と崇徳上皇派激しく対立しますが、この対立が、有名な「保元の乱」を引き起こします。鳥羽天皇から、器でない、と言われていた後白河天皇が勝利するんですわ、これが。勝てばこちらのもんよ。後白河天皇は、自分の子である二条天皇に譲位して、院生を始めるのです。長い院政の始まりです。朝廷と武家と入り乱れての鎌倉時代、、。

どっちだどっちだ、、? 鎌倉時代

2023-11-12 23:55:14 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
ちょっと気になってることがあって調べてみた。、、日本史をまるで勉強しなかった私でも「1192(いい国)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせの言葉は覚えているのだ。うむ。ほんとに覚えやすいわ。テストにももれなく出た気がする。が、何か今読んでる歴史の本には1185年、鎌倉幕府樹立って書いてあるのよねえ、、🤔どういうことかしら。どちらが正しいのかしら。、、1185だとしたら、いい国、じゃなくていい箱、になるわね。これもまあ覚えやすいけど。結論から言うと、どうやら鎌倉幕府の樹立は1185であり、わしらが中学の頃習った1192..は、初代将軍の頼朝が征夷大将軍に任命された年、つまり、名実ともに鎌倉幕府のドッブとなった年なんでした。そうか、、まあ、正直どちらでも構わないのですが。今は教科書でも1185になってるようです。以上ワンポイント講座でした。って、、みなさんは「そんな事、とっくに知ってるよ」かも知れませんね。





政子になかなかたどり着かない、、鎌倉幕府

2023-11-12 23:03:06 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
とりあえず、また鎌倉政権の話に戻ります。頼朝には実は、意外と非情な一面もあったんだよー。という話を前々回しましたが、とりあえず、頭が良くやり手であったことには間違いなく、様々な手柄により征夷大将軍に任命され、間違いなく名実ともに鎌倉政権のトップになりました。部下や身内に戦を頼んで、その間せっせと地盤作りに励んでいた頼朝ですから、組織は完璧に近い出来だったかと思います。治安維持のために今で言う警察官みたいな役目の「守護人」、主に土地の管理と年貢の徴収係などを受け持つ「地頭」なるものを全国に配置し、さらには守護のリーダーを各地に一人設け「御家人」と呼びました。よくできた組織だぜい。
発足当時、まだ摂関家や国司、院制度は残っていたので、幕府と朝廷の二人三脚という感じで政治が行われておりました。、、一方幕府と御家人も「奉公するから御恩をちょうだい」の、いわゆるギブアンドテイクの関係を保ち、何となくうまくいってました。、、って、なかなか北条政子までたどり着かんなあ、、。仕方ないか。順番てもんがあるから、、。


何も知らなかったっす(´-﹏-`;)、、「鶴岡八幡宮」 鎌倉時代

2023-11-11 23:10:47 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
あーっ、、鎌倉の歴史的建造物、、。今回取り上げたのは、鶴岡八幡宮でございます。わたくし、こんなにも有名な神社がどこにあるのか数年前まで知りませんでした。住んでいる山形県の、庄内地方にある鶴岡市にある神社だと思ってました。ある時、神社が好きな私は、車で鶴岡八幡宮にちょっと行ってみるか!と想い軽い気持ちでネット検索したら、あれ、、。鎌倉にある神社だと書いてあるじゃないですか。、、うわあ、、恥ずかしい。わたしゃ知らなかったよお〜😭。
というわけで、今回はこの鶴岡八幡宮について少し調べてみました。観光で行く身としては、絶対に外せない場所の一つだと思ってます。歴史は長く、約八百五十年近くも前に開かれた模様です。現在の場所に建つ前は、由比ヶ浜のあたりにあったようです。建てたのは、頼朝のご先祖様に当たる源頼義(ご先祖様まで似た名前か、、😮‍💨)この方は信心深かったようです。もともと京都にあった石清水八幡宮(の八幡神)をあつく信仰していたので鎌倉に勸請し、お祀りしたそうです。この頼義は武勇の誉れに満ちたかただったらしく、平安時代に平忠常の乱を抑えたり、あの有名な「前九年の役」で安倍氏を討ったりと、色々メジャーな戦で、戦った方らしいです。
ので、この方が信仰していた八幡宮がお祀りしている神様三神の中にも武神がおります。それが、応神天皇→第十五代天皇。そして、このかたのお母さんも三神の一人として祀られております。そう、神功皇后です。神功皇后の旦那さんは、あの、ヤマトタケルノミコトの子供。孫は仁徳天皇。壮大すぎてよくわからない(@_@;)。神功皇后も勇ましい皇后だったようです。そして、あと一人の神様は神道神である比売神さま。

最強のトライアングルですな。この神社を鎌倉の現在の地に移し建てたのが源頼朝。そして、もともとの鶴岡八幡宮を建てたのが頼朝の祖先である源義朝だということがわかった。←今日の学び鉛筆✐。頼朝も、この鶴岡八幡宮を篤く信仰していたようですなあ。


時代がそうさせるの、、。 鎌倉時代〜

2023-11-11 16:32:48 | 🇯🇵知れば知るほど、、日本の歴史🗾
着々と鎌倉での政治体制づくりに励んでいたやり手の頼朝だが、幕府を開くまでの間に、いとこや弟などを、自分では手を下さず、誰かに頼んでやっつけています。これはいかがなものだろうかねえ、、。「あいつを生かしておけば、いずれろくなことにならないだろう😟」と思う気持ちもわからなくありませんが、非情ですね。こんな一面を持つ頼朝を、妻、政子はどんな思い出見ていたのでしょう。今となっては知る由もありません。しかし、政治をうまく運営するための策の一つだとすれば、頼朝はやはりやり手だと言わざるをおえません。まず、初めに頼朝が厄介な奴だと思ったのは、頼朝のいとこに当たる、木曽義仲こと源義仲です。俊敏さに長けていたとみえて、例の、以仁王の令旨の際、いち早く戦の場に躍り出て平氏をやっつけまくり武勇を周りに見せつけたのだ。どうだ😤!とばかりに、入京後は平氏を追い払い、後白河法皇から、「あんた、なかなかやるねえ」と褒められ、左馬頭、越後守を命ぜられ将軍にまでなったのにい、、結局調子に乗りすぎた感もあり、あーあ、結局は法皇から嫌われちゃう。こうなりゃ破れかぶれよ、とやけになった義仲は頼朝とも仲違いしてしまいます。才能はある人なのに、惜しいわねえ(;_;)。で結局、もう、義仲はいらんな、、と見限ったのか、頼朝は弟の義経、範頼に義仲を何とかして。と命じます。んー、、いくら厄介者ったって彼らからしたら、義仲は従兄弟じゃありませんか、、😭厳しいなあ、、(;´д`)トホホ…。そして、この時、頼朝の命令に従い信長をやっつけた義経も、のちに、頼朝に討伐されそうになります。、、兄弟やないかー。身内ないかー。仲良くせいやー。というのはこの時代には通じない理念だったのかしら、、。ああ、、。、、それにしても、、人物ありきで書き始めたため、初めの目的、鎌倉時代の、鎌倉の寺社や名所を歴史的人物に絡める、というところになかなかたどり着かないなあ、、。そろそろ、鶴岡八幡宮とかにたどり着くようにしたいのだが、、。