全くの個人的な理由で、鎌倉時代に戻り改めて復習いたします。、、来月、鎌倉に旅に行くことになり、改めて鎌倉幕府の頃の鎌倉、についてお勉強しようかはあ、あの人がこの場所で、この場所であの人たちが、、、などと予習してから見る鎌倉の景色は、何かしらまた違って見えるかも知れません。お寺や神社などは、人物やそれにまつわる歴史上重要な出来事を絡め、特に念入りに予習復習を頑張りたい。📚鎌倉時代の出来事は結構血なまぐさいのもありますので、復習するにもドキドキはしますが。💗かまくらー、、待っててくれよー。って、、わずか一泊なんですけどね(;´∀`)気合だけは人一倍。、、鎌倉時代、、何かこの時代も色々あったなあ、、。源氏と平家の争い、鎌倉での政権の基盤づくり、何たってショウグンやで!の時代です。この時代の有名な言葉の一つ→征夷大将軍。、、この役を頂いた源頼朝は名実ともに自ら開いた鎌倉幕府のトップに立ったのです。と、、ここから始まるのでしたね、鎌倉幕府。ヘイヘイ😎
ハリスと接見するという大役を果たした13代将軍を徳川家定ですが、彼の名は余り世間には知られていないのではないでしょうか。奥さんを二人続けて失くし、子供もおりませんでした。そんな家定のもとに、3人目の奥さんがやってします。この方こそ!有名人篤姫じゃ。ドラマの主役になるほどの名の知れた人。そうよ、篤姫よ。この婚姻がまたすごくて、何がすごいのかというと、壮大な政略結婚とでもいいますか、、。そう、家康の頃から度々チェックが入った薩摩藩、の島津家、しかも島津家の中でもキラッ🌟と光る実力派、藩主島津斉彬の養女が、幕府の徳川家に嫁ぐわけですから。もうそれだけでびっくりドキドキです。でも、実は島津は、これより少し前にも幕府徳川に娘を嫁がせているんです。島津重豪の娘、茂子、が徳川家斉のもとに嫁に行っとります。たくさん子供をもうけ、当時としては長生きだった事から、島津家のおなごはいいんじゃないの?的な評判ももしかしたらあったのかも。
というわけで、どのような経緯があったかはわかりませんが、島津斉彬の養女でのちに将軍家の養女となる敬子(後の篤姫=天璋院)が、家定の3人目の嫁となります。、、が、残念なことに家定は、篤姫と結婚して2年も経たずに脳溢血を起こし、そのまま亡くなってしまいました😞。ここから熾烈な家定の後継者争いが始まるのですが、それは後に述べるとして、今は篤姫について書いてみます。篤姫(本名、敬子)は、結婚してわずか2年も経たないうちに未亡人となってしまいましたが、家定亡き後も薩摩には戻りませんでした。幕府に留まることを決意したのです。( ・ิω・ิ)せやで!わたしゃ最後まで幕府を支える決心やで!(by篤姫😉)。
家定亡き後、篤姫は仏門に入り、天璋院と名乗ります。そんな篤姫の何がすごかったのでしょう。調べていきましょか。
篤姫は天璋院になってから、本丸に戻り大奥の取締役となります。つまり、、ボスやね。
篤姫は、自分の結婚が、藩と幕府を結ぶための架け橋婚だった事をきちんと自覚していた人なのでしょう。家定の3番目の嫁を、何としても島津から送り込みたい!と島津斉彬は考えていたし、将軍家は将軍家で、「以前島津から将軍家に嫁いで来た広大院、、あの人は上部で仕事もでき子を沢山生んだよなあ、、。島津からまたよめもらえないかしらん、、」と互いの意向が合致したんですな。、、そんな篤姫は、天保6年、薩摩一門の今和泉家の生まれです。生まれた時の名前は一子。一子→敬子→篤姫→天璋院いやー、変わる変わる🌀。
接見した時、ハリスから「はよ日米修好通商条約を結びなはれよ」と言われた病弱な将軍家定でしたが、、。この時「どうしたものか?」と真剣に考え、走り回って💨いたのは、何度も書いてるように、老中首座の阿部正弘でした。ホント、優れた老中は、将軍を全力で支えますな。悪い事にこの頃、攘夷派と開国派の意見対立が益々激しくなり、阿部ちゃんは「この二派を何とかして融和させなならん」と思い、老中首座の役を降り、この二派の仲介役に回る事にしました。後任に選んだのは、 堀田正睦(マサヨシと読みます。)。(ちなみにこの方は開国派。)「堀田さん、今まさに日本は開国するかどうかの重大な局面を迎えてる✊。ここからは、あんたが老中首座となり、うまく舵取りをしておくれ🙏」と阿部ちゃん言ったか言わないかは知らないが、とにかく老中首座交代となったのです。、、いや〜、堀田さん、大変な時に老中首座になったものです😂。
実際、揉め方は激しく、🗾攘夷派「🤬ばかたれが!日米修好通商条約なんて絶対結んじゃだめだ!だめったらだめ!」🌍開国派「いやあ、いつまでも鎖国なんかしてないで、これからの日本は世界との付き合いも見据えてやってかにゃあかんのとちゃう?それに、断ったら戦争になりかねんよ」喧々囂々、みなそれぞれの考えを主張しまくりです。堀田のつぶやき→「やだー、俺やだー。どっちからも責められて、ホント、、勘弁してくれよ。実際、どうすりゃいいんだ?!俺だってわからない」しかし、板挟みの堀田は、困ってばかりではありませんでした。さすが老中首座👏。必死で考えました。「🤔うーむ、、俺としては、これからの日本にとり、開国はやっぱ必要だとは思うわけよ、ウン。何とか条約を結ぶ方向に持ってくって事と、。あとはやっぱり、あの、揉めてるあいつらをなんとかする事。これが先決じゃ。何かいい方法ないかなあ、、(・ัω・ั)」
こうして堀田さんがあれこれ考えてる時に、幕府では、更にもう一つ、でかい問題が持ち上がってました。まさに難題目白押し。病弱な徳川家定の跡継ぎを誰にするか?という跡継ぎ問題です。すんなり決まればよいのですが、これがまたなかなかうまくいかないのです。何故か、、?今で言う派閥争いってやつですかね。(いやあ、、昔からあったんだ、、こーゆーの。)
問題山積みの幕府が、日本が、どうなってゆくのか、何かドキドキします。本当に、この頃は、激動と呼ぶにふさわしい時代ですな。