昭和53年8月10日の消印がある、私の住所氏名が記されたゴム印が宛先になっている返信用の封筒。
中には銅版画家 深沢幸雄さんからいただいた最初のお手紙が入っています。
話は作家 星新一さんのお宅を緊張して訪問した時にさかのぼります。
玄関に入って最初に目に留まったのは、壁に掛かった大きな版画作品でした。どこかで見たことがある……
大きさは違えど、ハヤカワ文庫版 星新一『宇宙のあいさつ』の表紙と同じものでした。
その時は誰と一緒に伺い、星さんとどんな話をしたのか、まったく覚えていませんが、もっていった著書にサインをしていただき、ずうずうしくも玄関に掛かっている版画作品の作者宛に、紹介状代わりに星さんの名刺に一筆書いていただき、版画の作者名とご住所まで教えていただいたのです。
帰宅後、すぐに手紙を書き、折り返しいただいたのがこのお手紙です。
後日、県内のご自宅に車で伺い、額装していただいた「星の門」を手にしたのです。
———と、記憶していたのですが、どうもそうではないようで…………。
この時の星さんの紹介状代わりの名刺は、大事な宝物でもあったので、訳を言って返していただいたはずと探していた時に、ファイルしてあった星さんからのお手紙を見たら、かなりの部分が思い違いだったことがわかりました。
深沢さんのご住所を星さんに教えていただいたのは、ご自宅に伺った時ではなく、星コンと呼ばれていたファンとの集いがあった後でした。
星さんの肉筆原稿を紹介した過去記事で、肉筆原稿をプレゼントしていただいたときのことを書きましたが、原稿に添えられたお手紙に深沢さんのご住所が書いてありました。
———ということは、星さんのご自宅にお伺いしたのは、ファンとの集いの打ち合わせのためで、ファンクラブの会長ほか数人が一緒で、そのときは玄関の壁に飾られた、ハヤカワ文庫の表紙になっていた大きな版画、作者名も作品名も知らずに、ただ「同じものが欲しい!」と思ったようです。
そしてファンの集いの時に星さんに名刺に一筆書いていただき、深沢さんの連絡先はあとで教えていただいたというのが事実でした。記憶を訂正しないといけないですね。
その名刺がこれ。
ともあれ、このときから深沢さんにはご厚誼をいただくようになり、個展のご案内をいただいたり、折々にお手紙をいただいたり、探してほしいと頼まれた詩集を見つけて、お送りしたこともありました。
蔵書票というものを説明した上で、星さんの銅版画の蔵書票を作っていただき、そのあとで自分の蔵書票も3点、作っていただきました。
ある時は和紙の巻紙に、『梁塵秘抄』に載っている歌を墨書したものをお送りいただきました。
軸装しようと思いつつも、まだそのままにしてあります。
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
最初は星新一さんの本のジャケットになった銅版画作品を切っ掛けに知り合ったわけですが、不思議なご縁がありました。
深沢さんの経歴の中で、1963年に外務省所属の機関からメキシコで銅版画技法の指導を依頼され、3か月間メキシコシティに赴いたことがあります。そのときから画風が大きく変わりました。
ある時、そのメキシコでの経験についての講演会を聞きに行ったところ、そのメキシコ行きには助手として画家のI氏が同行したという話をなさいました。
私が編集部に異動して前任者から引継いた仕事の一つに、画家のI氏が名画を模写しながら絵の魅力について語るという企画がありました。打ち合わせをして何点か模写が進行していたときに、行倒れ状態で突然お亡くなり、企画が頓挫したという不幸な出来事がありました。
奇しくも私が企画を進めていたI氏と、深沢さんの助手としてメキシコに同道したI氏とは同一人物だったのです。
講演会後、そのことを深沢さんにお話したら、離婚後、身寄りがなかったI氏の葬儀では、僕が葬儀委員長をつとめたんだよとおっしゃっていました。
深沢さんは銅版画のほか、書、陶芸、ガラス絵など、多彩な才能を発揮した方でした。
そういえば、深沢さん作の盃がどこかにあったはずと探すと、棚の奥に木箱がありました。
箱の蓋
箱と蓋裏
勿体なくて、まだ一度も使ったことがありません。
ご厚誼をいただくようになってから40年近くが経ちます。
記憶の曖昧さが加速度を増してきたので、断片的にせよ、思い出すことを書き留めておかないといけないですね。
額とマットは取り換えたものの、今も我が家の玄関に「星の門」を飾っています。