伊藤勝次杜氏の醸し出した”生酛”について、私は何回も書かせていただいています。
たぶん、生酛系の酒に詳しい方なら伊藤勝次杜氏のいた蔵の名前は特定されているのではないかと思われます。
それにもかかわらず私が蔵の名前を”書かない”のには、それなりの”理由”があるからなのです。
私が伊藤杜氏の”生酛”を初めて知った昭和50年代前半、
伊藤杜氏の”生酛”は、「存在はしていましたが、存在しているとは言いがたい状況」にありました------そしてそれは、伊藤杜氏のいた蔵の方針でもありました。
その時期”生酛”に、日本酒業界にもエンドユーザーの側にも関心も興味もまったくと言っていいほど無い状況で、”生酛”に関心があった私は、「博物館の展示物のようなものが好きな変わった人間」と、その時期日本酒業界の人達には思われていたようです。
そのときから30年近い月日が流れ、”生酛”や山廃の生酛系の酒は当時と比較にならないほど認知され評価されています。
ナショナルブランド(NB)の灘、伏見の酒の品揃えにさえ山廃がある現在では、庶民の酒飲みのとっても生酛系の酒は「珍しくない存在」になっています。
それは私にとっては、専用の競技場も”持てずに”おこなわれていたきわめて弱く人気もまるでなかった時代のサッカーの日本リーグを見ていた人間が、現在のJリーグの試合を見ているようなものなのです。
しかしそれは喜ばしいことであると同時に、私に、強い”違和感”をももたらしています。
私が初めて伊藤勝次杜氏の”生酛”を知ったころ、これは今思っても驚きなのですが、3000石(一升瓶換算で30万本)以上造られていましたが、”生酛単体”の販売された酒としては誰も飲むことはできなかったのです。
なぜなら当時福島県の量産メーカーとも言えた1万石に近い販売数量があった銘柄の酒質の根幹を支えるものとして、すべての”生酛”は通常の速醸酛で造られた酒とブレンドされていたからです。
とんでもない数量の、非常に手間がかかる”生酛”を造り続けていた伊藤勝次杜氏は、そのため杜氏としての”晩年”になるまで”大吟醸”を造ることができなかったのです--------。
伊藤勝次杜氏の”生酛”は、上記の理由から、エンドユーザーの消費者はおろか日本酒業界の関係者にさえほとんど知られていなかったのです。
私にしても、國権について--NO2に書かせていただいた大木幹夫杜氏のお話を聞いていなかったら、たぶん伊藤勝次杜氏の”生酛”に関わることは無かったと思われます。
私は大木杜氏のお話を伺ったあとで、伊藤杜氏の”生酛”がブレンドされた酒を飲んでみました。
当時明らかに日本酒の最先端を走っていた、〆張鶴、八海山、千代の光を売らせていただき、鶴の友も見させていただいていた私の目には、何の先進性も感じられない”古くさい”あまり魅力のない酒のように映りましたが、新潟淡麗辛口にはあまり無いと思われる”部分”も確かに存在していました。
スーパードライの大ヒットによって倒産の危機から救われたアサヒビールの例が示しているように、この時期は日本人の食生活が大きく「ライト&ドライ」へ動いていました。
新潟淡麗辛口は、市街地でも一般道でもシャープに走りワインデイングロードのコーナーを最小限のパワースライドで軽快に気持良くクリヤーしていく、ロードスターに代表される、FR(後輪駆動)のライトウェイトスポーツのような楽しく時代にマッチした先進性のある存在------私はそう感じていました。
それに対して”生酛”がブレンドされた酒は、従来の、手堅く造られてはいるが重厚で重たくエンジンのレスポンスも良くない、安定はしているが楽しさの欠けらもない鈍重なコーナーリングしかできない車のような印象を全体として感じたのですが、ロードスターにはない点も見つけていました。
けして楽しくもない鈍重なコーナリングですが、路面状況の変化(悪化)による影響はロードスターよりはるかに少なく、むしろ悪化するほどその”安定感”が際立ったのです。
しかしその”安定感”は、残念ながら、ごく僅かな人しか理解できないものでした。
その当時の私は”生酛”については何も知りませんでしたが、強く興味を引かれ”生酛造り”を実際に見せていただいたのです。
直接お会いした伊藤勝次杜氏は、どこにでもいる穏やかな”平凡なおじいさん”という印象でした。
麹室や酒母室を始め蔵の内部を丁寧に案内してもらったあとでお話を伺ったのですが、
淡々と当たり前のふつうのことのように話して下さったのですが、当たり前ではなく平凡でもない”話の内容”に私は驚きましたが、実際に目にした”生酛”の良さがこのままではエンドユーザーの消費者に伝わらないことも痛感していました。
そして、どうしたら伝わるかを、おそまつで能天気な私なりに、考え始めたのです。
路面状況の悪化に対しても”安定感”を発揮する”生酛の特徴”を、価値として理解してもらうためには、”安定感”そのものをさらに強化拡充するとともに、不必要な部分での重厚さや重さを極力排して軽量化を計り、ロードスターとは違う形であってもそれに近いシャープな操縦性を持つことができれば、”安定感”がアドバンテージとして受け入れてもらえるのではないか------”生酛”の最大の強みである”安定感”を最大限に際立たすためには、ロードスターではなく、レガシーのツーリングワゴンの方向ではないのか、そして伊藤勝次杜氏の”生酛”ならそれが可能ではないか、と思い始めたのです--------おそまつな私なりに”考えに考えた”末に出てきた私なりの”答え”は、当たり前と言えば当たり前の、”シンプル”なものでした。
「生酛を本醸造で造り、ブレンドしないで”生酛単体”で瓶詰めして販売する」
その当時もそして今も、”生酛”を3000石造ることは”とんでもない”大変困難な作業なのです。
その”とんでもないこと”を40年間続けてきたのに、伊藤杜氏は、酒販店としても”駆け出しの若造”の私に、偉ぶることなど微塵もない真摯な態度できちんと対応していただき、今でも忘れられない”話”を聞かせていただきました。
「一度連続蒸米機を使ったことがあるが蒸しがうまくいかず、無理を言って元の甑(こしき)に変えてもらった」-------この甑は一つではなく二つです。深夜の酛摺りも自動的に”二つ分”になってしまうのです。
「生酛の酛米、麹米には五百万石が一番良い。五百万石を使った酛は”失敗”がきわめて少ない」-------低温でも良く溶ける五百万石は、同じく低温発酵で使われる10号酵母とペアで、淡麗辛口の代名詞の越後杜氏が”主力にした”酒造好適米で、この時期、南部杜氏で使っていた杜氏は珍しかったはずです。
「やっぱり麹かなぁ-----」------それが、生酛造りで一番難しいのはという私の”質問”に対する、伊藤勝次杜氏の”返答”だったのです。
私が伊藤勝次杜氏がおられた蔵を訪ねたのは、”勉強あるいは興味”のためで、”主力”で売っていこうと思ったからではありません。
私の店に並んでいた”生酛をブレンドした酒”はそれなりに売れていましたが、〆張鶴や八海山、千代の光とは”戦うフィールド”が違い、これからを戦う”武器”になるとは思えなかったのです。
事実訪ねた蔵には、〆張鶴や千代の光で”感じたもの”はまるで無く、ましてや鶴の友のような”雰囲気”は皆無で、むしろ中堅のナショナルブランドの蔵に近い”印象”でした。
しかし、伊藤勝次杜氏からはまったく”違う印象”を受けたのです。
今思うと、その”違う印象”は、鶴の友の樋木尚一郎蔵元の「変えてはいけないものは変えない」という”意志”に近いものだったかも知れません。
伊藤勝次杜氏からは、生酛という”有形の伝統の手法自体”を守ろうとしているのではなく、飲む人に飲んで楽しんでもらうためには、自分達が慣れ親しんできた”生酛造り”がどれほど自分や蔵人に負担が及ぼうとも手は抜けない、見ることのない飲む人のためにさらに一歩でも二歩でも前へ進まなければならない--------そんなお気持が、淡々とごくふつうのように話される”話”の中から、私には伝わってきたと思えたのです。
そんな伊藤勝次杜氏を始めとする蔵人の皆さんの”思いとご苦労”は、残念ながらこの蔵の”発売している酒”を通じては、客観的に見ると、エンドユーザーの消費者にはまったくと言っていいほど伝わっていない状況にありました。
私は伊藤勝次杜氏の”お話”を伺っているうちに、この方々の”思いとご苦労”を一人でも多くの”庶民の酒飲み”に分かってもらいたい------との気持が強くなっていきました。
たぶん私の店の”営業的利益”にはプラスがあまり無く、”やり難い困難さ”のマイナスのほうが大きく”労多くして”に成りかねないことは、その時点でもある程度予想できていたのですが、
せめて自分の店に来店される”庶民の酒飲み”には分かって欲しい、理解し評価して欲しいとの”気持”がだんだん大きくなっていったのです。
そして私は、「生酛を本醸造で造り、ブレンドしないで”生酛単体”で瓶詰めして販売する」
という方向に一歩踏み出すことになったのです。
予想どうりその先には、鶴の友の樋木尚一郎蔵元や早福酒食品店早福岩男会長が後に
”同情”して下さった、”闘いと困難の日々”が待っていました。
日本酒雑感--NO4に続く