昭和50年代前半、新潟に行き始めた頃と記憶しているのですが、今でも忘れられないことがあります。
仕込みの時期に村上市上片町にある〆張鶴を”見学”させていただいたときのことです。
私は、故宮尾隆吉前社長自らのご案内で蔵の中を見せていただいておりました。
時期的に、出品吟醸酒の造りがピークに差し掛かったころだったと覚えているのですが、
蔵の中に藤井正継杜氏を見つけられた宮尾隆吉社長は、
「まだいたのか。すぐに帰りなさい、杜氏がいない間は皆んなでカバーするから安心して帰ってきなさい」と、声を掛けられました。
藤井杜氏は、その当時の私には”ちんぷんかんぷん”の、吟醸酒造りの”ある工程”が終わったら帰らせてもらいます-------と答えられたのですが、その返答をお聞きになった宮尾隆吉社長は、本当に”困った”ような表情を見せられました。
故宮尾隆吉前社長には、八海山におられた南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)に紹介していただき、最初に宮尾酒造に行かせていただいたときから、親切な”対応”をしていただいておりました。
以前にも書かせていただいたように、私の酒販店としての”素養の無さ”を心配して早福酒食品店早福岩男社長(現会長)を紹介していただいたのも、このときすでに販売可能な数量に余力が無くなっていた〆張鶴のほとんどすべてをその双肩に担っていたため、
「数量の少ない形ばかりの取引では小売店にとっても蔵にとってもプラスは少ない」とのお考えから、新規取引には慎重にならざるを得なかった宮尾行男専務(現社長)との”交渉”の最後に”助け舟”を出して下さったのも、宮尾隆吉社長でした。
そのような経緯があったため、今思うと大変申し訳なかったと反省しておりますが、
おそまつで能天気な私にとって宮尾隆吉社長は、プレッシャーをあまり感じずにお話を伺える方で、質問をしやすい方でもありました。
蔵の中から事務所に戻ってきてからも、ご多忙の宮尾行男専務(現社長)に代わって、宮尾隆吉社長はしばらく私に付き合って下さいました。
私は、自分のことながら今振り返ると「なんじゃそれは。馬鹿じゃないのか」と私自身が思うような”質問”を宮尾隆吉社長にしました。
「吟醸酒を造るというのはどうゆうことなのでしょうか」------思い出すと今でも”穴があったら入りたい”心境になる質問を私はしてしまったのです。
宮尾隆吉社長は、僅かに苦笑されましたがすぐにそれを消されて”質問”に対する答えを私に提示して下さいました。
「吟醸酒に限らず酒を造るのが杜氏や私の仕事ですが、突き詰めていくと私達が造っていると思うのはちょっと”違う”のではと感じることがあるんです。
本当に酒を造っているのは”自然の摂理”とも言えるし、”酒自身”だとも言えるかなぁ-----。
醸造技術の進歩もあり杜氏の経験の積み重ねもあり、この方針で行けば概ねこんな風な方向の酒になるのではというところまでは把握できても、それ以上のことは分からないしそれ以上のことはできないのです。
本当のところ、私達にできる仕事は”酒自身が酒になる”ための”手伝い”だけなのかも知れません。
出品吟醸は余裕の無いぎりぎりの造りのため、そんな印象をより強く感じます。
明日をも知れない重病人を、祈るような思いで必死に”看病”する------そういう気持が強ければ強いほど酒が応えてくれるような気がします」
この説明で分かりましたか、もう少し説明しますかと宮尾隆吉社長はさらにおっしゃって下さったのですが、私は思わず「よく分かりました」と言ってしまったのです。
限界ぎりぎりの”拡大解釈”をしてもこのときの私は、噛んで含めるような宮尾隆吉社長の説明の”意味”のごく僅かしか分かっていませんでした。
「藤井杜氏も至急家に帰らなければいけないことが起きたのに、出品吟醸の醪が心配で心配で堪らずなかなか帰れないようだったので、先ほど声を再度掛けたのですが帰る気になったかどうか-------」
宮尾隆吉社長とお会いした回数はけして多くはありませんでしたが、お会いするたびにに私は”何か”を得ていたような気がします。
その”何か”が何であるかをその時点では理解できなかったのですが、いつもかなり後になってからその”何か”に”助けられて”いたようです。
何回も書いていますが私は平成3年に業界を離れました。
たぶん新潟にも蔵にも行く機会はあまりないだろう------会社員になった私はそう思っていました。 そう思って3年が過ぎました。
4年目に入ったとき宮尾隆吉社長が亡くなられたことを、人を介して私は知りました。
私は新潟に行きたい”気持”が、自分で思っていた以上に強いものであることは自覚していましたが、”敵前逃亡”に近いような”離脱”をしてしまったため、実際に”新潟行き”を実行するのは”ためらい”がありました。
しかし宮尾隆吉社長の訃報が、その”ためらい”を跡形もなく吹き飛ばしてくれました。
葬儀からはかなり遅れたのですが、せめてお線香を上げさせていただくために私は”行動”を起こしたのです。
そしてその”新潟行き”では、〆張鶴の宮尾行男社長も、千代の光の池田哲郎社長も早福岩男さんも、そして鶴の友の樋木尚一郎社長も以前と変わらぬ態度で接していただけたのです----------私の”ためらい”が私の独り相撲であったことを知ることができたのは、宮尾隆吉社長の訃報のおかげだったのです。
私は宮尾隆吉社長から得ていた”何か”に、その最初から最後まで助けていただいたと思われます。
そしてそれは私が当時感じていたよりも”大きなもの”だったことを、今の私は、改めて実感しています。
宮尾行男社長も故宮尾隆吉前社長も、「真面目が背広を着ている」と言われるほど真面目で穏やかなお人柄の方ですが、30年以上変わらない〆張鶴 純 のバランスの取れた酒質を支えてきた、舌に感じるやわらかさとは裏腹の”剛直”とさえ言える”酒の芯の強さ”と同じように、穏やかなお人柄の根底には容易には動かせない”強い意志”が存在していると私は感じてきました--------(鶴の友について-2--NO7より抜粋)
私は伊藤勝次杜氏の”生酛”に出会う前の数年間、1年に4~6回新潟に行かせていただき〆張鶴、八海山、千代の光を自分の目で直接見て自分の耳で聞き自分の舌で味わうことを繰り返していました。
おそまつで能天気な私は知識も能力も無かっため、”現場”に通うことを繰り返しそのとき分からないことを”現場の人に”質問をし教えてもらって、知識を向上させようとしていたのですが、そのうちに蔵に行くこと自体が”楽しいこと”になってしまいました。
その中でも〆張鶴は、宮尾行男専務(当時)、宮尾隆吉社長(当時)との”面談”だけではなく、蔵自体も私にとって興味深く行くたびに”発見”がある楽しい存在だったのです。
近年、早福酒食品店に定期的に通う私の知り合いの酒販店が、私のことを早福岩男会長に尋ねたそうです。
「Nか、Nは昔から新潟の蔵によく来ていて、昔から蔵のことをよく知っていたし蔵のことをよく分かっていた」------私に恥を欠かせまいと早福岩男さんは、”最大限の過大評価”をして下さったようですが、実際は蔵に行けば行くほど面白さと楽しさが拡大し、喫煙と同じように止められなくなっただけなのです。
書画、骨董でも”初心者”に対するアドバイスとして、
「知識や理屈に頼らず、本物を見ることから始めたほうが良い。良いものを長く見続けていると本物と違うものを見たとき、何が違うのかが分からなくても、”何か”が違うという”違和感”を感じるようになる。その”違和感”を解明しようとするときに知識や理屈が”ツール”として必要になってくるだけなのだから-------」と、教えられると聞いたことがあります。
結果として、”酒”においては私は、このアドバイスどうりの”道”を歩いてきたように思うのです。
私が最初に出会った蔵は、八海山でした。
当時の八海山は、嶋悌司先生(元新潟県醸造試験場長)の徹底した指導の下、越乃寒梅で育った高浜春男杜氏が全力投入し八海山の”酒質ピーク”へ向かって前進し続けていた時期で現在とはだいぶ”雰囲気”の違う、本物を本気で目指していた蔵でした。
前述したように、その八海山の南雲浩さん(現在は六日町けやき苑店主)の紹介で、ほとんど同時というタイミングで〆張鶴と出会っていました。
その最初から私は、〆張鶴と八海山を”同時並行”で比べられる”環境”に恵まれたのです。
知識も能力も無い20歳代前半で、今よりはるかにおそまつで能天気だった私が頼りにできたのは、新潟の蔵を隅々まで知る早福岩男さんの”客観的判断”と、自分自身が感じる”肌の感覚”だけでした。
新潟の蔵に出会った私は、最初の数年、多いときには年間6回少ないときでも4回は新潟に出かけていました。
そんな時間の中で、私は八海山より〆張鶴に強い興味と愛着を感じ始めていたような気がします。そして”酒”や蔵を自分なりに判断する際に、無意識のうちに〆張鶴と比べていたようにも思えるのです。
村上市にある〆張鶴、宮尾酒造を訪ねる回数が多くなるにつれ”酒の素人”である私も少しずつ慣れてきて、以前には見えなかったものがほんの少しずつ見えてきました。
蔵には存在していたのに私には見えていなかったものが見え始めた------という意味での”発見”が数多くあり、それが私には楽しくて堪らなかったのだと思われます。
「醪の温度をジャケット式タンクや、タンクにプレートコイルを巻いて冷却水を通して0.5度の単位で調節しようとしているのに、蔵の中の温度が4度も5度も変化したのでは正確が期せないと思うので空調をかけていますが、灘の大手のように三期醸造や造りの期間を延ばすのが目的の空調設備ではありません」
私の住む北関東の県より冬場の低温に”恵まれ”、朝晩の温度変化もはるかに少ないと思うのになぜ空調設備が必要なのでしょうか-----という私の”質問”に対する宮尾行男専務(現社長)の回答でした。
またこの時期〆張鶴は約3500石(一升瓶換算35万本)でその需要に対して”パンク状態”にあり、酒質に影響を及ぼさないようにゆっくりと時間をかけながら5000石前後をめどに設備や機械を更新したり導入し、増産余力の向上を計っていました。
そのせいもあり〆張鶴に行くたびに蔵の姿が微妙に変わっていて、私の興味を捉えて離さなかったのです。
しかもこの時期〆張鶴の酒質は、向上はあっても後退を感じることなどまるで無かったのです。
陸上の100mに例えて言うと、初めて見た選手が10秒00の”厚い壁”を突き抜けた9秒台のレースをする選手で、なぜ”厚い壁”を突破できるのかをその選手の日常やトレーニングの姿をできるだけ見ることで、(知識や理屈を持っていなかったので)自分自身が感じる”肌の感覚”を積み重ね”帰納法的”に探ろうとしていたのかも知れません。
そんな数年が、おそまつな私なりの、100mのレースを計る”ものさし(メジャー)”を造ってくれたのかも知れません。
〆張鶴という”ものさし”を手にした私は、基本的には共通の”基盤”を持ちながらも
10秒00の”厚い壁”を突き破る”方法と個性”に違いのある、千代の光、そして鶴の友を知ることになります。
〆張鶴という”ものさし”のおかげで、何の先入観念も予断も無く9秒台のレースをする千代の光、そして鶴の友の”凄さ”が、素直に実感できたからです。
そして私は、千代の光、鶴の友においても、「見て分からないことは、どんなに初歩的なことでも聞く」ことで”肌の感覚”を積み重ねていくことに終始したのです。
その結果、少しですが”ものさし”の精度も向上し、〆張鶴という”ものさし”への私自身の理解も進んだような気がします。
〆張鶴という”ものさし”の根幹にあるものは、派手さやけれん味とはかけ離れた「真面目さ」であり、それが〆張鶴を〆張鶴たらしめている------私はそう感じるようになっていったのです。
そしてその「真面目さ」は、状況が許す限り”変えてはいけないものは変えない”ということにつながる「真面目さ」だったのです。
私は伊藤勝次杜氏の”生酛”に出会う前に、このような”ものさし”を持つに至っていました。
その”ものさし”で、〆張鶴の「真面目さ」に通じるものを感じさせる伊藤勝次杜氏の”生酛”を見させていただき、「ぜひエンドユーザーの消費者に”生酛単体”で提供すべき」------------私個人の”ものさし”では当然の帰結と思える”要望”を出したのですが、蔵の上層部は”まったく違うものさし”で伊藤勝次杜氏と”生酛”を判断しており、”違うものさし”がゆえの
「長く激しい闘い」が待っていたのですが、またもや”前置きの話”が長くなってしまったので、
日本酒雑感--NO6に書きたいと思っています。