今考えても不思議なのですが、あれほど伊藤勝次杜氏の”生酛”に対する「見方、考え方」に”大きな差”があったため激しい対立のあった、私と蔵の”上層部”がなぜ”決裂”せず本醸造、純米の”生酛”を結果として世に出すことが出来たのか-------それもそれ以前では早過ぎ、それ以後では遅いという昭和50年代半ばという唯一のタイミングで--------。
その後の日本酒業界の状況と、昭和57年に大病で入院手術され平成8年に亡くなられた
伊藤勝次杜氏、昭和34年蔵に入られ昭和45年からは頭(かしら)として、平成元年からは伊藤勝次醸造部長の後任の杜氏として伊藤勝次杜氏の”生酛”を支え続けて、伊藤勝次杜氏のあとを追うように2ヶ月後に亡くなられた金田一政吉杜氏-------このお二人を軸にしたこの蔵の南部杜氏の集団のその後をも振り返っても、昭和50年代半ばというタイミングしかなかった-------私はそう痛感しているのです。
昭和63酒造年度に”生酛”で造られた出品酒レベルの純米大吟醸酒は、伊藤勝次杜氏にしか造れない”生酛の完成”を告げるものでしたが、その”原点”は昭和57年に発売された純米生酛にあったと私自身は思っています。
陸上の100mのレースに例えると、
本醸造生酛で10秒00の”厚く高い壁”の内側に入れる可能性を示した伊藤勝次杜氏が、
実際に9秒98のタイムを出したレース------それが純米生酛だったのです。
伊藤勝次杜氏をしても6~7年の”研鑽の日々”を必要としましたが、どんなレベルでも9秒台のレースができ、確実に0.01秒づつ前進していることをその純米大吟醸酒は証明したのです。
車に例えて言うと、
WRC(世界ラリー選手権)を戦うWRカーのベース車両として、スバルインプレサWRX STI(純米生酛)を自ら造り出した伊藤勝次杜氏が、6~7年の長い時間をかけて基本は変えずに細かいリファインと大胆なセッティングの変更を積み重ねて投入した、実際にWRCでチャンピオンカーをねらえる”マシン(純米生酛大吟醸)”を造り出したのです。
(ただし、残念ながら四合びん150本程度の発売で飲める人はごく少数でしたが-------)
そして、本醸造や純米の”完成した生酛の市販酒”を飲み、その価値を認知してくれるエンドユーザーの消費者が少しずつ増えていき”ある程度の広がり”が確立するのには、平成7酒造年度までという伊藤勝次杜氏の”持ち時間”はぎりぎりと言えました。
その意味でも、昭和50年代半ばは唯一のタイミングだったと思えるのです。
発売への闘い
生酛単体での発売という私の”要望”の交渉相手は、S課長からT営業部長(後にK総務部長も合流することになりますが---)にステップアップしました。
しかしその”姿勢”は硬く、取り付く島が無いような感じでした。
今振り返ると、とんでもないミスマッチの組み合わせなのですから、噛み合うはずがないのがないのが当たり前だったのです。
T部長は、生酛とレッテルに書いてある酒を1本も発売していないにも関わらず、生酛と生酛をブレンドした自社の酒に強い誇りをお持ちでしたし、ご自分の蔵が”東北有数の蔵”との認識を強くお持ちでした。
それに対して私は、そのときの数年前まで「日本酒なんてものは21世紀には無くなる」と思っていた、普通であれば日本酒が日常的なものでも親しみを感じるものではない「最初の世代」に属していました。
そして昭和50年代半ばというこの時期は”生酛”で造っていることは、日本酒業界ですら「古くさくて博物館入りしている手法」との声がほとんどでプラスのイメージはなく、ましてやエンドユーザーの消費者にはまったく認知されていなかったのです。
「東北有数の蔵」と言われても、業界最大規模の月桂冠でさえマイナスのイメージしか持っていない、日本酒に関心の無い同世代の消費者に何とか日本酒を飲んでもらおうと”悪戦苦闘”していた私にはあまり”助け”にはなりません。
「同世代の消費者に飲んでもらえる酒質かどうか」が私にとって大事なことであり、過去の実績ではなく、過去の実績が通用しない変化をするであろう将来の日本酒の世界で”戦える武器”になるかどうかに重大な関心があったのです。
このようなミスマッチの組み合わせの”交渉”は、どう考えても、うまくいく訳がありません。
”交渉”が長引けば長引くほどお互いにストレスがたまっていき、蔵が取引先の小売店に、
小売店が取引先の蔵に”言ってはならない言葉”の応酬になり、言葉の闘いから”身体的な闘い”の寸前までいったことがありました。
たぶんT部長は、駆け出しの若造の私に生酛の何が分かるのかという気持はあったろうと思われます。
事実、T部長のほうが当然ながら生酛も酒全体についても私より詳しい”その道のプロ”でしたし、その当時の私が”生酛造り”をどこまで理解できていたのかは自信が持てません。
しかし、実際に見させていただいた伊藤勝次杜氏の”生酛”に、私は強い”違和感”を感じなかったのです。
酒販店としての”本籍地”が新潟淡麗辛口にあり、〆張鶴という”ものさし”で判断してきた私が、新潟淡麗辛口とは正反対の手法で造られている伊藤勝次杜氏の”生酛”にあまり”違和感”を感じず、肌の感覚はむしろ〆張鶴という”ものさし”と共通の部分を見つけていたのです。
私が見させてもらった伊藤勝次杜氏の”生酛”は、陸上の100mに例えると、
現在はあまり見ない、昔ながらの古いスタイルで現れた選手の格好にどきもを抜かれたが、
そのレースの走りは、”最新のトレーニング理論に基づいた走り”にきわめて近い走りで、
驚いたことに、10秒00の”高く厚い壁”を突き抜ける可能性を感じさせる走りだったのです。
当時自分が感じていた肌の感覚は、実際に飲ませてもらった「発売していない熟成した生酛の酒質」と以下の疑問の自分なりの”解明”から、”帰納法的”に導き出されたもののように思えます。
- 新潟淡麗辛口がその根幹を成すひとつとして多用していた五百万石を、早い時期から生酛の酛米、麹米に使用していたのは何故か
- 強い醗酵力を持つ生酛が投入された醪のタンクに、他の県の蔵にはあまり見られない、新潟淡麗辛口の蔵に近い冷却能力を何故持たせていたのか
- 吟醸酒も純米酒も本醸造も市販していない蔵にも関わらず、生酛用の麹が何故総破精(そうはぜ)タイプでは無く、新潟淡麗辛口の蔵のような突き破精(つきはぜ)タイプだったのか
そのすべてが私が親しんできた新潟淡麗辛口の、最大の特徴のひとつである低温醗酵を指し示しているように私には感じられ、飲ませていただいた”未発売の生酛単体”も、やや重く僅かにくどいと思いましたが味の厚みも丸いやわらかさに包まれていて、〆張鶴や千代の光、鶴の友を飲み慣れていた私に、あまり”違和感”を感じさせなかったのです。
それゆえ、〆張鶴や千代の光、そして鶴の友の”酒質”を突破口にして、日本酒に親しみも関心も持っていない同世代の”若い庶民の酒飲み”の中に、苦戦しながらも少しずつ日本酒のファンを増やしていた最中の私は、伊藤勝次杜氏の”生酛”は認知され受け入れられる-----------そう確信したのです。
(伊藤杜氏の”生酛”に私が感じていた”肌の感覚”の私に分かる範囲での技術的な理由は後述します)
私は”単体の生酛”は、若い需要層にも受け入れてもらえこの蔵の将来の”支え”になると感じましたが、生酛と速醸酛で造った酒をブレンドしたこの蔵の市販酒は、私の店の高齢の方がほとんどのこの酒のファン層から見ても、10年後かなり厳しいとも感じていました。
しかしT営業部長は、「生酛はうちの蔵の根幹であるが単体での発売は考えていない」
との基本的な姿勢を頑なに守ろうとしていたのです。
”酒の販売のプロ”であったT部長は、当然ながら自分の蔵の市販酒に自信があったと思われますし、それゆえあえて”リスク”を犯す必要がない-----と強く感じておられたと思われます。
”酒の販売のプロ”のT部長と”素人同然の駆け出しの酒販店”の私の間で、これほど伊藤勝次杜氏の”生酛”に対する見方が違っていては、”交渉”になる訳がなかったのです。
今の私は、T部長の”単体の生酛”の発売へ否定の理由の”別な部分”も、多少想像できます。
この蔵の”生酛”は、七代目の蔵元の急逝により15歳で蔵を継ぎ、平成5年に92歳で亡くなられた八代目蔵元の強い意志によって造り続けられてきました。
八代目蔵元の強い意志がなければ、この蔵の”生酛”の存在が有り得なかったことは、たとえこの蔵に批判的な人でも、等しく認める事実です。
しかし自分の理想とする酒への”追求の仕方”は、新潟淡麗辛口の蔵とは違っていたと私個人は感じています。
直接お会いしたことはありませんが、よく知る方々に伺った、越乃寒梅を越乃寒梅たらしめた故石本省吾蔵元の理想とする酒への”追求の仕方”は、将棋に例えると、守りの金はおろか玉頭の歩まで”攻め”に参加させる徹底したものだったと聞いています。
私が直接知る新潟の蔵も、”追求の仕方”は過去の自らの実績を否定することも厭わない
アクティブで積極的でものでした。
そして先行した越乃寒梅を追う〆張鶴、八海山、千代の光、鶴の友のアクティブで積極的な”動き”が、日本酒業界全体に影響を与え始めていたのがこの時期(昭和50年代半ば)だったのです。
伊藤勝次杜氏のいた蔵の八代目蔵元の自分の理想とする酒への”追求の仕方”は
将棋に例えると、攻めの大駒である飛車ですら守りに使う”受け”中心の、慎重でパッシブなものであったと私個人は思っています。
わずか15歳で、危機の状態とも言える蔵を継いだ八代目蔵元が、”守り”を中心にせざるを得なかったことは、今の私なら理解することができます。
八代目蔵元の”生酛”に賭ける気持は強いものがあったと私も感じています。
しかし、蔵の営業に影響をほとんど与えないリスクの範囲内で、業界の動きを慎重に見極めながらの”動き”だけに、外からは分かり難い”追求の仕方”とも言えました。
さらに蔵の内部には”生酛”は八代目蔵元の”専管事項”のため、”生酛”に関わる件にはあまり触れたくない雰囲気と、通常ならリスクと言えないリスクまでリスクにカウントして”避ける”傾向もあったのではないか------現在の私はそうも思えるのです。
それゆえT部長も、〆張鶴という”ものさし”で計った私の伊藤勝次杜氏の”生酛”の見方とその将来性への判断に”幾分かの正しさ”をたとえ感じていたとしても、触れないようにしておられたのではないか-----現在の私は、そう思えてならないのです。
いずれにせよT部長が、”単体の生酛”の発売を、チャンスではなくリスクと考えていることが
長い”交渉”の間にはっきりしてきました。
私にとっても、”要望の実現”への努力は「アホらしい気持と背中合わせの”無駄な仕事”」
になりかけていました。
”交渉”は決裂するのが自然な状況になってきたのです。
結果として決裂しなかった、私のサイドの原因は、
- 単体での発売を前提とするため本醸造で造り、〆張鶴のバランスの良さに似たバランスを志向するために不必要な部分の重さやくどさをできるだけ少なくし(綺麗にする方向)、切れをさらに良くする方向に振り
- 速醸酛で造った酒に”厚みと安定感”を与えるための部分を少なくすると、”厚みと丸み”自体は縮小するが、酒質全体が綺麗になり切れが良くなることで、むしろ”厚みと丸み”が強調される酒になり、熱めの燗でも崩れない”生酛”らしさを残しながらも、冷で飲んでもきわめて美味い酒になるのではないか
私の”直感”が確信させていた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なら造れるそんな酒質の酒を、実際に飲んでみたい------その気持が最大の理由だったのかも知れません。
一方、T部長サイドの原因としては、
- 伊藤勝次杜氏が私の”要望”に好意的で、”要望”に対応した”生酛”を造り、世に問うてみたいというお気持があったこと
- 新潟淡麗辛口の台頭に対して、自社の営業基盤を守る”武器”は伊藤勝次杜氏の”生酛”しかないことを、私ほど強くではなかったが、T部長も感じていたこと
- ”社内的リスク”が低減でき、T部長の”権限の範囲”までリスクが低下したら------というお気持がT部長にもあったこと
私個人の想像ですが、この3つではなかったかと思われます。
長い”交渉”の結果、その成否はリスクの低減が握る、最終局面まできていました。
T部長が考えるリスクとは、
- もし”単体の生酛”を発売した場合、売る側の酒販店が”生酛”の価値を本当に理解できるのか
- 発売するとすれば、1500本が最低のロットになるがそれを取り扱い酒販店が売り切れるのか
もっともと思うか、首を傾げるかは立場によって違いますが、T部長はその2つを大きなリスクとして受け止めていました。
私個人で1500本すべてを売り切ると言ったとしても、T部長が納得しないことは分かっていましたので、その2つに対する新たな”対策”をとる必要に迫られたのです。
あまり使いたくはなかったのですが、”対策”はありました。
それは当時私が入っていた”M会”の中心メンバーで、このころ地酒を取り扱う酒販店の
”スター的存在”になりつつあった、池袋の甲州屋酒店児玉光久さんに”生酛”を取り扱ってもらい、児玉さんを介して児玉さんが親しい首都圏の”M会”のメンバーにも取り扱ってもらうことでした。
そしてこの”対策”が、この蔵を「福島県の量産メーカー」としか思っていなかった地元福島県の酒販店のイメージを大きく変える”効果”があることも、私は認識していたのです。
人知れず ”IK杜氏”は、速醸酛で造った酒に ”厚みと安定感”を与えるブレンド用として生酛を造り続け、伝統を受け継いできました。
その生酛があまりに惜しく、「生酛を単体の本醸造として出して欲しい」と蔵のT営業部長と ”激しい交渉”を2年越しで行いました。
ようやく1500本の生酛が出ることになったとき、そのスム-ズなデビュ-を促すため、最初で最後の1回限りの ”お願い”を池袋のK店主にしました。
「吟醸じゃないけどあれだけ美味くて、価格も安いから皆大歓迎だよ」と心良く引き受けてくれたK店主のおかげで、生酛は「M会」の主力メンバ-の店頭に並ぶことになったのですが、K店主達の好意を ”逆なで”するような ”状況”が生じ、私は困り果てました。 この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。
(長いブログのスタートです 2005年8月---より抜粋)
上記の”IK杜氏”はもちろん伊藤勝次杜氏で、池袋のK店主は甲州屋酒店故児玉光久店主です。
私の”対策”が決め手になり、ようやく1500本の本醸造生酛の発売が決定しました。
”対策”が予想どうりの”効果”を発揮し、本醸造生酛は順調なスタートを切りました。
しかし私とT部長との”ものさし”の大きな違いによる、ミスマッチの”基本的構造”は変わってはいなかったのです。
そしてそれが、好意で”本醸造生酛”のスタートを手助けしてくれた児玉光久店主の気持を逆なでするような”販売方針”につながり、皮肉なことに、その”事件”が伊藤勝次杜氏の”生酛の凄さ”を知らしめる、10秒00の”厚く高い壁”を突き破り9秒98のタイムをたたき出した”純米生酛”の発売の直接の”原因”となったのです。
そしてその”純米生酛”は伊藤勝次杜氏ご自身の”生酛”にとっても、昭和63酒造年度(63BY)の純米大吟醸につながる、大きな分水嶺になったのです--------。
日本酒雑感--NO7に続く