生酛や山廃の、生酛系の絞ったばかりの”ふなぐち”を、飲んだことがある人はあまりいないと思われます。
たぶん、その”ふなぐち”を飲まれたら、舌がしびれるような”ビリビリしたごつい味”に、「かんべんしてよ----」と弱音を吐くか、二度と飲もうと思わなくなるのかの、どちらかなのではないでしょうか。
しかしその”同じ酒”が、熟成期間を経て秋になると、不思議なことにきわめて丸くやわらかくなります。
その”丸みややわらかさ”は、新潟淡麗辛口と対照的なものです。
ごつくて硬い長い岩を、やすりとサンドペーパーで長い時間をかけて削って磨いて造った”柱”が感じさせるような、滑らかで存在感のある”丸みとやわらかさ”なのです。
味の幅もあり、厚みもありますが、”切れが良い”ので重さやくどさはまるで感じず、ましてや荒さやごつさもまったく残っておらず、”丸くてやわらかい”としか言いようのない酒-------もちろんひやでも美味く、冷やしても美味く、熱めの燗にすると”丸みややわらかさ”に包まれていた”強いもの”が現れ、”丸みややわらかさ”を強固に支え崩さない-------それが私を強く引き付けた、伊藤勝次杜氏の”生酛”なのです。
(日本酒雑感--NO4より抜粋)
上記は、昭和56酒造年度(56BY)に伊藤勝次杜氏が造り出した昭和57年に発売された純米生酛に対する私の感想そのものです。
「生酛で造った淡麗タイプの純米吟醸」-------純米生酛は一言で言えばそう表現できます。
生酛で造る酒が私が感じていたように、”博物館入り”している酒ではないこと、若い需要層にも十分に受け入れられる酒であることを”証明”するために、どうしても”この酒質”が必要だったのです。
そして私は、伊藤勝次杜氏のブレンド用に造られていた”生酛”を、最初に飲ませていただいたいた時から”この酒質”をある程度”想定”できていました。
なぜなら、〆張鶴という”ものさし”を持っていた私があまり”違和感”を持たず、肌の感覚はむしろ共通の部分を感じていたからです。
造りかたもその成り立ちもまったく違う、伊藤勝次杜氏の”生酛”と新潟淡麗辛口のトップレベルの〆張鶴のある部分がよく似ていることを、意識することなく自然に感じていたからなのかも知れません。
この ”状況”をリカバ-するため、私は ”IK杜氏”に、今思っても ”とんでもない”お願いをすることになります。
それは、「純米で生酛を造って欲しい。ス-パ-ドライを見て分かるように、残念ながら酒としていくら凄くても、”切れ”が悪ければ評価されず飲んでもらえない。純米というハンデ付きでお願いするのは本当に申し訳ないのですが、淡麗辛口には出せない生酛らしい味の厚みを持ちながら淡麗辛口のように ”切れ”の良い純米を生酛で造って欲しい」という ”無茶な”なお願いでした。
この純米の生酛が無いと状況が改善出来ないと続ける私に、”IK杜氏”はしばらく無言でした。 「やはり無理なお願いだったなぁ」と落胆し始めた私に、「Nさんの言う酒は大変に難しい。難しいが、それが飲む人の要望ならやってみるしかない。酛の段階から一から見直しやってみましょう」と答えを返してくれました。その純米の生酛は素晴らしい酒でした。
純米で造った生酛の市販酒でこれほど ”凄い”ものは現在に至るまで見たことがありません。
”素養”に欠けた私でも、自分が受け継ぎ自分が改良を加え確立してきた ”生酛”にかなりの ”変更”を ”IK杜氏”が行ったことが感じとれました。
酛には一ヶ月以上かかるが醪は高温で短い造り方を見直し、醪を低温で長く引っ張り酒を造っていると言うより ”粕”を造っているという造りを前提に、その中で酵母がよく働くと同時に ”働き過ぎない”ように酛を変更する-----それは、蒸し、製麹の変更も含み、どうしても変えられないもの以外は ”ぶち壊した”ことを意味していました。
生酛が ”家元”でもなく、”宗家”でもなく、「博物館入り」していない、身近にある ”庶民の楽しみ”であることを ”IK杜氏”は証明してくれたのです。
「純米生酛大吟醸生酒」は、その延長上の ”究極の生酛”でした。 それゆえ、私は一人でも多くの人に味わってもらいたかったのです。(”IK杜氏”の生酛は、飲んだ人間の”記憶”の中だけにしか存在しない”本当の幻の酒”になってしまいました)活字マスコミやネット上で、その”中味”が「博物館入り」しているかどうかではなく、まるで ”絶滅危惧種”の動物のように、”造り方”にのみ関心が集まる現状を見て、どのような”感想”を持ったのか、”天国にいるIK杜氏”にぜひ聞いてみたいと私は思っています。
(長いブログのスタートです 2005年8月---より抜粋)
私が伊藤勝次杜氏に強く”お願い”した純米生酛は、現在の基準で見てもきわめて高い「純米吟醸」のレベルにあった〆張鶴 純 を強く意識したものでした。
〆張鶴 純 と同じようなレベルの「純米吟醸」を生酛で造り、それを純米生酛として出して欲しいという「とんでもないお願い」でした。
ある意味で、”素人同然の駆け出しの酒販店”の私だからできた「とんでもないお願い」だったのですが、なぜか私には「伊藤勝次杜氏なら造れるはずだという”確信”」がありました。
”確信の素”は、もちろん本醸造生酛の酒質でした。
日本酒雑感--NO6に書いた私の”直感”を裏切らない素晴らしい酒でした-------〆張鶴という”ものさし”との共通の部分がよりクリヤーに酒質に反映しながらも、新潟淡麗辛口にはない”厚みと丸み”を「切れの良さ」が際ださせているように、私には感じられた酒質でした。
それは私や私の周囲の”庶民の酒飲み”だけの評価だけではなく、最初で(結果として)最後になる”お願い”をして本醸造生酛の”発売”を助けてもらった、池袋甲州屋酒店児玉光久店主も同じような評価をしてくれたのです。
この時期(昭和50年代半ば)児玉さんは、地酒業界の”スター的存在”になりつつありましたが、同時に「吟醸酒」に強く惹かれ全力で「吟醸酒」に取り組んでいた時期でもあったのです。この時期の「吟醸酒」は、ワンカップの吟醸酒まである現在とは大きく違う、「吟醸酒」を手に入れ販売することはきわめて難しいことだったのです。
新潟淡麗辛口の吟醸酒も、関東信越国税局の春、秋の鑑評会や全国新酒鑑評会に出品するために造られたかそれに近い形でしか造られていず、市販している蔵のほうが”珍しい”時代だったのです。
〆張鶴の大吟醸も、1.8Lで12本と720ml(なるべく多くの人に飲んでもらえるようにあえて
720mlにしていただいて)60本の私の”割り当て実績”ですら、「えー、N君はとんでもなく多い実績があるんだ。羨ましいな-----」と言われるくらい希少だったのです。
八海山においても大吟醸は存在していましたが”非売品”で、蔵に行かせてもらったときに飲ませていただくことが”可能”で、きわめて運が良ければ500mlの瓶に詰められた大吟醸を1本お土産として頂けた--------事実上ほとんど飲めないに等しい状態だったのです。
そんな”状況”の中で、「吟醸酒」中心の販売方針をとることは大きな困難と”背中合わせにならざるを得なかったのです。
八海山におられた南雲浩さん(現六日町けやき苑店主)のご紹介で、児玉さんに最初に会わせてときも私の店よりはるかに多い蔵と取引を児玉さんは取引をされていましたが、この時期「吟醸酒」を手に入れるために取引先を拡大していました。
「本当は吟醸酒だけ売っていたいんだけど、残念ながら、そうはいかない。
蔵にしても数量が少ない吟醸酒だけ売って欲しいというのは無理な話だろうしね------」
取引先を拡大することは、ひとつの銘柄あたりの本数が少なくなることを意味していました。
〆張鶴においても当初大きな差があったのですが、私は〆張鶴、八海山、千代の光の3つしか主力銘柄がなく「月桂冠を売るように〆張鶴を売ってきた」ため、児玉さんの取り扱い本数との”差”が詰まり”逆転”が見えていました。
この時期の「吟醸酒」には、魅入られてしまう”魔力にも似た魅力”がありました。
コストも販売することも一切考えず、鑑評会で他の吟醸酒と「極限の淡麗化と吟醸香」を競うためだけにその蔵の”限界ぎりぎり”で造られたのがこの時期の「吟醸酒」だったのですから-----。
私自身もこの時期の「吟醸酒」をいまだに忘れられず、いつも脳裏に浮かんでいます。
児玉さんが「吟醸酒」に強く惹かれていった気持は、私にも良く分かります。
児玉さんほど力も無く、有名でも無く、そしてその時期にすでに私個人がおぼろげながら感じていた、〆張鶴宮尾行男専務(現社長)と早福酒食品店早福岩男社長(現会長)そして鶴の友樋木尚一郎社長を結んだ「基準線」から外れないないようにしようとしていたため、「吟醸酒」にのめり込むことができなかっただけなのですから--------。
「吟醸酒巡礼」の真っ只中にあった児玉さんが、本醸造生酛の発売を手伝ってくれたのは、
出来の悪い後輩の私への”思いやり”だったと思われますが、本醸造生酛の酒質に対する
評価は”思いやり”ではありませんでした。
児玉さんは、この時期、「吟醸酒」に接する機会もその知識も酒販店の人間としては、数少ないトップレベルの一人でした。
新潟淡麗辛口の蔵から始まった「吟醸酒巡礼」は、この時期全国の蔵にまで拡大していました。
その児玉さんが、「吟醸酒ではないのは残念だけど、これだけの酒質でこの価格(1600円前後だったと記憶してしています)だったら皆んな大歓迎だと思うよ」との感想を私に伝えてくれたのです。
この児玉さんの言葉は、吟醸酒と比べれば欠点が見えるものの吟醸酒を飲み慣れた児玉さんも、私と同じように”違和感”を伊藤勝次杜氏の本醸造生酛に感じなかったことを証明しています。
”違和感”がないということは伊藤勝次杜氏の生酛が、造り方も置かれた立場も存在理由も違う、新潟淡麗辛口が当時その先頭集団にいた淡麗化の極致の吟醸造りと同じような方向を伊藤勝次杜氏が目指してきたことを示していると私には思われてならないのです。
伊藤勝次杜氏の本醸造生酛は、伊藤勝次杜氏ご自身が太平洋戦争直前に蔵人として最初に見た生酛、昭和30年代初めに灘の大手の蔵に教えをこうた生酛とも”違ったもの”になっていたのです。
酒造好適米が手に入り難くく、きわめて低い精白で造りをせざるを得なかった戦中戦後や、
教えをこうた灘の大手の蔵ですら生酛の造りを止めていかざるを得ない大きな変化にさらされた昭和40~50年-------米の精白も高くなり技術的にも飲む側の嗜好の変化の面でも、
先人のデットコピーだけの生酛では造り続けることは困難だったのです。
生酛が生酛として”生き残る”ためには”進歩”が必須だったのですが、伊藤勝次杜氏には教えをこう相手はいない状況の中で、”自らの試行錯誤”だけが”先生”だったのかも知れません。
酛米も麹米、掛米も昭和30年代よりはるかに白く磨ける状況で、受け継いだままの生酛造りでは、”酒の柄(酒質、品質、格調)”が悪くなる”危険性”を一番感じていたのは、伊藤勝次杜氏ご自身だったと思われます。
それを避けるため、伊藤勝次杜氏は強い醗酵力を”押さえる方法”として、自分の受け継いだ”生酛造り”よりも、より”低温”での酛、醪の醗酵を指向してきた-------現在の私はそう考えています。
そしてそれが、私や児玉さんが伊藤勝次杜氏の本醸造生酛に「違和感」を感じなかった
大きな”理由”だったとも思っているのです--------。
伊藤勝次杜氏が”生酛”によって造られる酒の柄を良くし綺麗にするため、「低温でも酵母に必要な栄養を与えることができると同時に与え過ぎない状態」を指向したとき、突き破精(つきはぜ)タイプの麹や低温でも良く溶け溶け過ぎない五百万石(新潟県原産の酒造好適米)にたどり着くのは、ある意味で自然なことだったと私には思われます。
別な意図からでしたが、私が出会ったころの伊藤勝次杜氏の”生酛”は新潟淡麗辛口と同じような、低温発酵により酵母の醗酵力を”必要最低限”のぎりぎりのところまで押さえ込むという”手法”で造られていたのです。
それゆえ私は大きな”違和感”を感じず、むしろ〆張鶴という”ものさし”と共通の部分を
伊藤勝次の”生酛”に感じたのではないかと思うのです。
本醸造生酛の酒質で改めて”そのこと”を実感”したことと、”状況”をリカバーしなければならなくなった”事件”が起きたことが、私が「とんでもないお願い」を伊藤勝次杜氏にした理由でした。
生酛らしい”味の厚み”をやわらかく丸く残しながらも、より”淡麗化”した生酛を純米(それも〆張鶴 純のレベル)で造って欲しい------私の「とんでもないお願い」は本当に”とんでもない”ものでした。
そのときの私の”直感と確信”が間違っていたとは今も思ってはいませんが、なぜあのとき伊藤勝次杜氏に、私があれほど「ストレートな言葉でストレートなお願い」ができたのかは今でも不思議です-------そしてその”お願い”を伊藤勝次杜氏に、”受け止めて”いただけたのはもっと不思議なことだったと思えるのです。
言う方は”簡単”ですが、造る方は”きわめて大変”なことだったからです。
伊藤勝次杜氏らしい、やわらかく丸い味の厚みを生酛の”柄”を悪くしないための「低温発酵」から、その生酛らしさを残しながらの純米吟醸、しかも〆張鶴 純レベルの淡麗化を意図する難易度の高い「低温発酵」に変えなければならなかったのですから---------。
伊藤勝次杜氏の”普通ではない努力の結果”が、この日本酒雑感--NO7の冒頭に述べた
純米生酛を昭和57年に造りだしたのです。
昭和56年に本醸造生酛、そして翌年に発売された純米生酛--------この時期に新潟淡麗辛口の本醸造、純米、吟醸酒を飲み慣れていた(さらに言えばアサヒスーパードライを飲み慣れていた)”庶民の酒飲み”が、新潟淡麗辛口と違う”個性”がありながらも「違和感」を感じずに飲める”伊藤勝次杜氏の生酛”が存在したことは、エンドユーザーの消費者の認知度はおろか造りの専門家の間ですら「否定的見解」がほとんどだった”生酛造り全体”にとって(現在の認知度と評価の確立のためには)きわめて大きなことであり幸運であったとも、私には思われるのです。
ややおおげさに言うと、伊藤勝次杜氏の生酛が存在しなければ”生酛造り”は現在の1割もエンドユーザーの消費者に”認知”されてなかったのではないか-------私はそう思っています。
生酛で造った酒が”特殊”なものではなく、”博物館入り”している滅び去った酒でもない、
”庶民の酒飲み”の傍らに存在するごくふつうの”美味い酒”であることを証明した、派手さや
栄誉とは無縁の一生を貫いた伊藤勝次杜氏に、(現在生酛で造った酒によって有形、無形の”恩恵”を与えられている人たちは)大きな借りがあるのではないかと、私には感じられてなりません。
平成元年に発売(ただし四合瓶で150本程度でしたが)された生酛純米大吟醸は、生酛純米の造り以来伊藤勝次杜氏が追求してきた「生酛らしさを残しながらの極限の淡麗化と吟醸香」を実現したものでした。
その酒質は今も忘れられないほど素晴らしいものでした。
生酛により造られたという点を除いても、〆張鶴、千代の光、鶴の友の新潟淡麗辛口のトップレベルの大吟醸に並ぶ水準に達していたと思われます。
その印象は説明し難いのですがあえて言うと、鶴の友の風間利男前杜氏の醸し出した大吟醸ほどは(醗酵力の強い生酛造りのため)きめ細かく洗練されていませんでしたが、やわらかく丸い米の旨みとしか言いようがないしっかりとした味がありながら、次の瞬間その味が「切れると言うより、まるで水を飲んだかのように消えて無くなりまったく残らない」------鶴の友の大吟醸とよく似た、”不思議”であると同時に”芸術品”とも言うべき酒質でした。
何回も書いたように、平成3年に私は実家の酒販店を出て”業界”を離れることになりました。
”酒”と縁が無い職種を選び会社員になった私は、できるだけ”酒”とは距離をとろうとしましたが、新潟の蔵については「長いブログのスタートです」や「鶴の友について」に書いたとうり
”無駄な努力”でしたが、伊藤勝次杜氏にいた蔵に行くことはありませんでした。
平成8年の冬、伊藤勝次杜氏の訃報を知り知人に香典を託したことが、生酛一筋の人生を送った杜氏と私の最後の交流となってしまったのです。
平成17年の8月に、私はこの「日本酒エリアN」を書き始めました。
パソコンにもブログにも詳しくない私が、それを承知の上で書こうと思ったのは、日本酒、特に昭和50年代前半より実際に体験してきて、”業界”を離れてからも直接的な関係がありがたいことに保たれている〆張鶴、千代の光そして鶴の友、現在直接の関係は存在しないが平成3年まで自分の目で見てきた八海山、久保田--------この新潟淡麗辛口の蔵についてネット上のサイトやブログに書かれているものの中に私自身が「違和感」を感じるものが少なくなかったからです。
私個人の狭い体験であっても、明らかに”誤解”や”正しくない情報”と感じるものもあり、
自分自身が経験し感じてきたことを書いておくのも多少の意味はあるかも知れない-------人に読んでもらうと言うより、自分のための”覚書”という色彩のほうが強かったと思います。
「長いブログのスタートです」の次に、「鶴の友について」をNO1~NO6まで書いた後で、
ごく少数ですがしかし私の”想定”をかなり上回る人に見ていただいていることに気が付き、
「鶴の友について-2」を書き始めたのですが、自分自身の”記憶違い”を避けるため直接
〆張鶴の宮尾行男社長、千代の光の池田哲郎社長、そして特に頻繁に鶴の友の樋木尚一郎社長にお尋ねできるありがたい”環境”を使わせていただき、NO1~番外編まで10本の記事を書き終わりました。
それは私にとって、昭和50年代前半から平成3年までの年月を”再体験”するに等しいことでした。
”業界”を離れてからの月日が十数年になり、年齢も重ねた私は”再体験”の中で当時の私には「見てはいたが見えてはなかった」ことや「疑問とは思っていなかった疑問」をも感じることになったのです。
「伊藤勝次杜氏はなぜあの時、私のとんでもないお願いを聞いてくださったのか?」-------
-----そのとき感じた疑問の大きなひとつがこれでした。
私は現在でもあのときの”お願い”は間違っていなかったと感じていますし、伊藤勝次杜氏の生酛へのその後の”評価”もそのことの間接的証明になっているとも思っています。
純米生酛を造っている最中に伊藤勝次杜氏を蔵に訪ねたとき、私だけではなくテルさんやS髙、O川の研究員の、”雑菌の塊り”である部外者の私達を麹室や酒母室に入れていただき
ずらっと並んだ生酛の壷代の味を時系列に沿って”味見”させていただく---------造りの最中の酒蔵では”異例”と思える伊藤勝次杜氏の”ご好意”も、杜氏ご自身が”お願い”を歓迎してくれたことを”証明”しているとも思っていますが、それでも”疑問”は去ってくれなかったのです。
私にとって”生酛”は、平成8年に伊藤勝次杜氏がお亡くなりになったときに”終わって”いました。
たぶん”生酛”に関わることは二度とない-------そう感じていました。
しかし「鶴の友について-2」を書き続けるなかで、”疑問”は大きくなり続けました。
直接伊藤勝次杜氏に聞くことが出来ない状況のなかで、”疑問との格闘”が続いていたのですが、〆張鶴や鶴の友のことを書き連ねていき南会津の國権までたどり着いたとき、
ふと浮かんでくることがありました。
そのことをきっかけに”疑問”に対する、(自分自身だけかもしれませが)納得できるような”解答”らしきものを感じるようになりました。
その”解答”が正しいのか間違っているのかは、今となっては確かめるすべは私にはありませんが、私自身は”腑に落ちた心境”になることができたようです。
この”解答”がどのようなものであるのかと、能動的には”生酛”には関わる気持のない私にとって現在の”生酛の世界”がどのように見えているのか、そして故伊藤勝次杜氏のいた蔵の名前をなぜ書かないのかは、日本酒雑感--NO8に書きたいと思っています。