自分でも”長い”と思っている、鶴の友が中心の(大黒正宗も國権も含まれますが)「----についてシリーズ」は、私の周囲の人間には”不評”です。
「ずっと以前から聞いてる話を、長々と繰り返して書いてあるだけじゃないか」------というごもっともな”指摘”をよく受けます。
しかし、このような”指摘”のできるS髙研究員のような”庶民の酒飲み”はあまりいないはずです。
S髙研究員と私は約30年の付き合いがあり、お互いにお互いをよく知っています。
”酒の知識”だけではけして走らないS髙研究員ですが、新潟淡麗辛口や生酛においては、地酒屋さんでも昭和50年代の初めからやってきた人以外は、たぶん”戦わない”ほうがいい相手だと思われます。
かなり前の話ですが、出張先で暇つぶしに入った酒販店で、かなりしつこく山廃の酒を勧められ多少カチンときたS髙研究員は、
「あんたねぇ、山廃がいいと言うけど山廃という言葉が何を省略した言葉か知っている?」
と返したそうです。
それで相手は”黙って”しまったそうですが、山卸廃止酛を略した言葉だと知っていたとしても、
「じゃ山卸ってどういう作業か知っている?」とさらに突っ込まれただけだと思われます。
生酛系ではなく新潟淡麗辛口であっても、同じような”話”になったと思います。
昭和50年代後半に、故宮尾隆吉前社長に案内していただき〆張鶴が造られる現場を、南雲浩さんに八海山さんが造られる現場を案内していただいたS髙研究員を”納得”させるのは、かなり”骨が折れる作業”だからです。
S髙研究員のような私の周囲の人間や、「強いこだわりと自前の知識と行動力」を持つ日本酒の通、日本酒マニアの人達には私のブログはあまり”お役に立つ”内容ではありません。
タイトルのように、日本酒エリアNは”庶民の酒飲み”向けに書かれたブログだからです。
余裕があるとは言えない”小遣い経済”を破綻させない範囲で、日本酒に親しみ飲み続けている人や、「興味はあるんだけど、ネットを見たりマニアの人の話を聞いたりすると、なんか難しそうだしとっつき難くて飛び込めないんだよなぁ-----」と思っている人に向けて、
日本酒は間口も広く奥行きも深いが、日常的に身近にある”遊び心の塊”という根幹が現在も存在している”伝統”だし、面白くて楽しい”遊び”だという視点で書かれているからです。
日本酒業界からだけの視点でも無く、日本酒通、マニアの視点でも無い、ちょっと変わった角度からの”感想”のため、その”感想”が出てくる視点の「背景の説明」をしない限り”感想そのもの”が分かって頂けないないのではないか-------との気持から「背景の説明」を試みたため、自分でも呆れるほど”長く”なってしまったのです。
なるべく”業界用語”を使わずに「背景説明」をするのは、思っていた以上に大変で、似たような「私自身の体験」を繰り返さざるを得ない状況になり------上記の”指摘”を否定できないことになっています。
同じような「私自身の体験」を、また繰り返して書くことになるのかも知れませんが、「背景説明」は十分に終了したと強引に仮定し、
この「日本酒雑感シリーズ」は、「背景の説明」を極力省略した、とりとめのない感想、思いつくままの感想-----「雑感」を短めに書いていきたいと考えています。
アルコールに”強くはない”私が、ここまで日本酒の世界に引きつけられているのは、酒質という”ハード”だけではなく、それ以外のものにも強い魅力を感じているからかも知れません。
むしろ酒質という”結果”を生む、ソフトと言うべきその原因である物質的には形が”存在しない”ものに一番強い魅力を感じているのかも知れません。
おそまつで能天気な私は、かつて、日本酒の世界を知れば知るほど”疑問”に思うことがありました。たぶんこの”疑問”は、日本酒の世界、さらに言えば鶴の友の樋木尚一郎蔵元と出会うことがなかったら、絶対に感じることのなかった”疑問”だったと思われます。
その”疑問”とは、学校で学んだ「江戸時代」は封建制度の時代で、民主主義の現代に比べはるかに遅れた社会だと教わってきましたが、本当にそうなのだろうか-----という思いでした。
生酛造りも江戸時代にその技法が確立され広まったと思われますが、化学のかの字もなかった時代に(古代にまで遡る伝統があったにせよ)、あれほど自然をうまく取り込みあれほど複雑な(ほとんど世界で唯一の)平行複発酵で清酒を造ることができたのか-----それは私にとって”新鮮な驚き”でした。
新潟淡麗辛口の造りを〆張鶴、八海山で数年直接見せていただきある程度の”実体験”を積ませてもらったうえで、理論や知識からではなくその造りを見ることから入った私は、今思うと、生酛造りの背後に「江戸時代の名残の雰囲気」のわずかに残された”残像”を、見ていたのかも知れません。
意図的にではなく”自然な流れ”で、しかも対極にある新潟淡麗辛口と生酛に最初の数年で出会ったことは、当時の私が感じていたよりも幸運であり、私の日本酒に対する「間口の幅」を決定付けてくれたような気がするのです。
”博物館入り”しないために、「変えたくないもの変えないために、変えるべきものを徹底して変えようとしていた新潟淡麗辛口」、世の中が変わろうとも世間の評価がなかろうと「変えないことを徹底して守ろうとした伊藤勝次杜氏の生酛」------この二つの酒がその酒質の差だけではなく、”商売上のメリット”だけでは走れない”何か”を私に与えてくれたと、今は思えるからです。
そしてその”間口の幅”が、これも”自然な流れ”としか今は思えないのですが、ありがたいことに鶴の友と樋木尚一郎蔵元と出会えたことで、私自身の日本酒に対する感じ方の「奥行き」を深める機会を与えられ、その”疑問”におそまつな自分なりの”解答”をゆっくり考えられる”時間とフィールド”を与えられたと、感謝しているのです。
現役の酒販店時代の私は、頭の片隅に常にその”疑問”とその”解答”を求める気持はあったのですが、極力小さくするようには努めたのですが、酒を売る人間としての公私ともどもの”政治的立場”が私にもあり、それが”邪魔して”納得できる”解答”が出ないままに終わってしまったのです。
皮肉なことに、日本酒業界を離れ公私ともに”政治的立場”が無くなってから、私は私自身が納得できる”解答”に向かって少しずつ”前進”し始めたような気がします。
ありがたいことに、日本酒業界を離れても〆張鶴の宮尾行男社長、千代の光の池田哲郎社長、早福酒食品店早福岩男会長の皆様とは変わらぬお付き合いをさせて頂いておりますが、鶴の友の樋木尚一郎社長はその”例外”でした。
私にとって、樋木社長とのお付き合いは、日本酒業界を離れてからのほうが”本格化”したからです。
酒販店だったころには見えなかったものが見え始めたこともフォローの風になり、鶴の友、そして樋木尚一郎蔵元という”巨大な参考書”との長い時間をかけた”質疑応答”の中で、その”疑問”に対する納得できる”解答”が見つかり始めたのです。
またもや長くなりそうなので、鶴の友と樋木尚一郎蔵元のおかげで見つかり始めた”解答”がどんなものであったかは、日本酒雑感--NO2に書きたいと思っています。