日本酒エリアN(庶民の酒飲みのブログ)gooブログ版  *生酛が生�瞼と表示されます

新潟淡麗辛口の蔵の人々と”庶民の酒飲み”の間で過ごした長い年月
(昭和五十年代~現在)を書き続けているブログです。

日本酒雑感--NO2

2008-08-09 15:04:29 | 日本酒雑感

20071026_010 鶴の友の樋木家は、日本酒の銘柄としての「米百俵」にはまったく関係はありませんが、小泉元首相が取り上げ有名になった「米百俵のエピソード」そのものには深い関わりがある------と、いろいろな方から聞く機会が私にはありました。
樋木家5代目当主の樋木尚一郎蔵元に”質問”をし、このことを直接伺ったことがあります。

以前にも何回も書いていますが、鶴の友の樋木酒造は蔵もその住まいも「文化財」に指定されており、たとえ酒造りや住むのに”不便”があっても勝手に手を入れられない状況にあります。
外観のたたずまいも、いつもお話しを伺う天井が高く囲炉裏が切られた客間も、最初に行かせていただいた30年近く前と、基本的には変わっていません。
その客間で、囲炉裏を間に挟んで樋木尚一郎蔵元と向き合いお話を伺うとき、日常的に感じている時間のスピードがきわめて”ゆっくりなもの”へ変化していくことを、いつも実感できます。

樋木尚一郎蔵元は、控えめに淡々とお話して下さったのですが、百数十年前の「エピソード」なのに伺っている私にはまるで”ちょっと昔のことの話”のようにしか思えず、「なるほど、そうだったんですか」と、あたかも樋木家の御先祖を知っているかのような”あいづち”が口から出てしまい、思わず苦笑してしまった記憶が私にはあります。
私にとって鶴の友と樋木尚一郎蔵元は、私が直接知ることのできない時代の「息吹、気分そして雰囲気」を感じ取れる”タイムカプセル”の役割も果たしていただいているのかも知れません。

樋木酒造の”たたずまい”と感じ取れる”雰囲気”は、鶴の友について-2--NO2にも引用させていただいた地元の内野育ちの”羊さん”の、

鶴の友 副題 羊の基準酒(http://blog.goo.ne.jp/merino_wool/e/f7aafb181b63cfbff5e888905327fa93
雪と鶴の友と梅(http://blog.goo.ne.jp/merino_wool/e/5be60a626868c164ae7d195de6b31418

ふたつの記事の達意の文章を読んでいただいたほうが、
私の”作文”よりはるかに良く分かります。

私の個人的な感想だけなのかも知れませんが、現在私達が普通に見かける日本の伝統的文化は、江戸時代に成立したか熟成して庶民の間に浸透していったものがほとんどのような気がしています。
もちろん明治以降の日本も現在まで続く優れた文化を造りだし、諸外国から”クールジャパン”と呼ばれ強い魅力を発散している現代の日本の文化の一翼を担っていることは、おそまつで能天気な私でも承知していますが、江戸時代に比べると”分が悪い”ように思えるのです。

かなり荒唐無稽な”仮定”ですが、もし、すでに”墓の中”入っている大正末生まれの私の父や明治生まれの祖父、曽祖父そして江戸時代中期までの”御先祖様”まで総動員して、「伝統、文化の継承」をテーマに”ディベート”を「N家限定」で開催したとしたら、曽祖父、祖父は”御先祖様”から立場が無いほど激しく突っ込まれ、父や私は”発言権が無く”肩身の狭い状態になっただけだと思われます。
私だけなのかも知れませんが、”御先祖様”がどのような人で、何を大事に思い何を残した人なのかは、私自身が直接接した祖父までしか私は分かりません。
祖父自身は、江戸時代末に生まれ育った自分自身の祖父と当然接触し話しも数多く聞いているはずですが、私はおろか父ですら何も知らず何も聞いてなかったようです。
そんな私や父に「伝統、文化の継承」がテーマの”ディベート”に発言権があるはずもありません。

江戸時代末に生まれ育った人達が、「外側の世界の変化がもたらした”内側へ変化の危機”」に対処するため、「自分達が受け継いできた変えてはいけないものを守るために、それ以外のものを徹底して変えた---------それが”明治維新の姿”ではないのかと、おそまつで能天気な私個人は感じています。
しかし仮にそうだとしても、”変えたもの”は十分伝わっていても、残念ながら”変えてはいけないもの”は私には本当に微かにしか伝わってないような気がしています。
しかし現代でも、たとえ当面の”損得、利益”を毀損しても、自分自身の”こだわりや信念”を優先し、自分自身が納得しない限り”仕事の終りが無い”職人や芸術の世界には、比較的濃く伝わっているようにも思えるのです。

物凄いスピードで状況が”変化”していく現代で、”変えてはいけないもの”を守っていく”作業”はきわめて困難な”作業”のように私には思えます。
鶴の友と樋木尚一郎社長の、”損得、利益”を毀損してでもその”困難な作業”を続ける姿を長い間見せていただく機会を与えられ、”変えてはいけないもの”の大切さ、貴重さを、おそまつで能天気な私も、ようやくほんの少し分かり始めたのです。

思いがけない”人の縁”から鶴の友に行かせていただくようになった私も、ほとんどの人と同じように、一番強く心引かれたものは、鶴の友の酒質という”有形”のものでした。
平成12年に国指定の登録有形文化財に登録されることになる樋木酒造の建物(酒蔵及び住宅)のたたずまいと雰囲気にも魅かれるものがあったと思えるのですが、最初のころの「鶴の友の酒質の不思議さ」という”有形”と、その鶴の友を自分の店の主力銘柄として「ぜひ売りたい」という”欲”に捕らわれていた私の目には、”映って”いても”見えて”はいませんでした。
新潟市内野にある樋木酒造に通う回数が増えてくると、売りたいという”欲”はそのたびに減っていきましたが、「鶴の友の酒質の不思議さ」という”有形”の秘密、本質を知りたいとの気持はますます強くなっていく一方でした。
そして、酒造技術の探求的な視点だけで”解明”しようとすることには”無理”がある、と感じるようになっていきました。
皮肉なことに、ある事情で実家の酒販店を出て”業界”を去ることになったとき、私がどうしても知りたかった”解明”が進むことになったのです。

「鶴の友は建物以上に中に住んでいる人間のほうが、今の世にありえない文化財だ」

何回も引用させていただいている、鶴の友に私が行く以前に、早福酒食品店早福岩男会長から伺った”言葉”ですが--------最初から”答え”は、私の前に”提示”されていたのです。
しかし私は、長い間そのことに気づかず、リンクさせていただいた”羊さん”のブログの2つの記事に書いてあったような、樋木尚一郎蔵元の、

「この樋木酒造さん、どうも造り酒屋というもの、
半公共的な性格を持つものというような考え方を
持っておられるようでありまして
詳しい事は書きませんが
世話になった人もさぞ多いでしょう。
どうやらノブレス・オブリージというもの、
この世に本当に存在していたらしい、
そう思える話があれやこれやと。
この家あって、あの酒があるのでございましょうなぁ」

半公共的でノブレス・オブリージと”羊さん”が表現された、

「羊が思うに、鶴の友というのは、
邸宅の門前に堂々とした花を咲かせるのではなく、
奥にある梅の古木より、飾らぬ門前に漂ってくる梅が香と
ちらりと覗く梅の花、
その梅の古木、根本まで見たらさぞ立派なものがあるのでしょうが、
あえて根本を露わにしたりはしない、
そういった味わいのお酒であるように思います」

押し付けがましくない”穏やかだが弱くはない持続的”な暖かさに包み込まれて、”悲壮な決意”をやんわり取り除いていただいた------という私自身の実体験がなければ、おそまつで能天気な私には、早福岩男さんの”言葉の意味”を、理解できることは無かったと思われます。

今の私は(おそまつな私個人の感想ですが)、鶴の友の本質は、江戸時代後期の樋木家の御先祖様から受け継いだ”変えてはいけないもの”を、できる限り”変えない”というところにあると思っています。
新潟淡麗辛口の最盛期に、新潟県はおろか全国の酒販店から強い取引の要望があったとしても、そしてその要望のほとんどすべてを断り樋木酒造の”営業上の利益”を大きく毀損することになっても長いお付き合いのある酒販店を最優先し、一番価格の安い鶴の友上白(表示はされていませんが本醸造で造られています)にすら、とんでもない高コストになっても酒造好適米の種類と質と精白にこだわり、”酒”に関係ないことでも”手助けすべき”だと思われればたとえ”損”でも全力投入され、事が成ってもご自分の”功績”はまったく語られないのです。
そのすべての根幹に、御先祖様から受け継いできた「変えてはいけないものは変えない」という樋木尚一郎蔵元の”強い意志”が働いている------そう思っているのは私だけではないことをを、早福岩男さんの”言葉”や”羊さん”の達意の文章が証明しています。

先日、鶴の友を長く造り続けてきた風間前杜氏が、おそらく最後の年に醸し出したと思われる大吟醸を飲ませていただく機会がありました。
私が、鶴の友に出会った昭和50年代後半、強い魅力を感じた「鶴の友の素晴らしく不思議な酒質」は樋木尚一郎蔵元の”強い意志”によって造られた今の世には在りえない”基盤の上”に、風間利男前杜氏が納得できるまで腕を振るった”芸術品”だったことを、私に改めて痛感させる素晴らしい”酒”でしたが、同時に風間前杜氏の”孫の世代”にあたる樋口現杜氏に鶴の友の”骨格”が伝わっていることも改めて実感させてくれたのです。

私は自分自身の”御先祖様”からは、まったくと言っていいほど伝わっていない江戸時代後期の方々が大切に受け継いできた「変えてはいけないもの」の一端を、鶴の友と樋木尚一郎蔵元という”窓”を通して見せていただいたことは、本当にありがたいことだったと感謝しています。
そしてそのおかげで、科学的に進歩した世界に開かれた”文明”としては現代よりはるかに劣った時代であったかも知れない江戸時代が、自分達も自然の一部であり川や山のような自然にはそれぞれに”神が宿り”、自然を敬い自然によって”生かされている”ことをごく当たり前のこととして生きていた(ある意味では大変にうらやましい)現代より自然体で生きれた時代ではなかったのか--------現代の日本人がより自然により日本人らしく生きるための重大な”ヒント”がこの時代にあるのではないか--------と、私は思い始めることができたのです。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。